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2010年8月24日 (火)

上田秋成の『雨月物語』の意図

   江月照らし、松風吹く

      永夜清宵 何の所為ぞ

これは、上田秋成の『雨月物語』の「青頭巾」の話の中で、快庵禅師が、童子を愛して、修業を怠り、煩悩に迷う僧に課す問だ。中世の雰囲気を伝える典型的な物語でもある。「青頭巾」の全体の詳しい筋は、ここでは紹介しない。

ここでは、先に挙げた快庵禅師の問いについて、少し考察してみる。以前、同様な漢詩を紹介したが、表面的な解釈は次のようになるだろうか。

「入江に月は輝き、松風は、吹きわたっている。一体全体、このような永遠を感じさせる夜や、清らかな宵は、何が、そのようにしているのだろうか」と。

果たして、この問いに対する答えは何か。現代的に、科学的に分析しても、何も出てこない。快庵禅師の趣旨は色々に解釈されるだろうが、流風の独断で解釈すると、次のようだろうか。

「自然は、人の存在以前の問題であり、あるものとして存在している。人も同様に、その中で、そのように存在すべく存在している。そのように考えて、迷いから逃れよ」と。

凡そ、迷うというのは、本来あるべき自然とか人とかを無視して無理するから、起こる問題である。人として、あるようにあれば、何も問題がない。そこには、意識も、無意識もない。だが、そのように考えることは、まだ修業が不十分であるとも言える。

このように読んでいくと、『雨月物語』も、奥が深い。それは上田秋成の特別な生い立ちから生まれたとも指摘できる。幼くして養子に出され、病気により、一部身体機能を失っている。養母はたびたび代わり(養母は優しかったようだが)、その精神性は、かなり歪んでいたと推定される。

それを大人になり、それなりに修正させていくが、そうすればそうするほど、自らの迷いを深めていったとも考えられる。この話は、彼自身の苦悩のプロセス表現とも受け取れる。すなわち、この「青頭巾」に限らず、秋成文学は、見方によっては、他者には、なかなか理解してもらえない孤高の文学とも捉えられる。これは現代人に通ずるものがあり、再評価せねばなるまい。

*追記

最近知ったことだけれど、上記の漢詩は、『証道歌』にあるらしい。秋成は、この禅詩に深く同意し、ヒントを得たのかもしれない。

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