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2010年9月30日 (木)

求められる中国の誠意

米国では、交通事故を起こしても、絶対自分は悪くないと言い張るらしい。そして強い弁護士を雇うと、彼らは、黒でも白と言い張り、無罪を勝ち取る。弁護士大国米国ならでは、と皮肉られてきた。すべて金で解決できると考えるやり方は、あまり感心できないが、それが米国の文化なのだろう。

どうも、中国外交も、それに倣ったらしい。尖閣諸島沖の事故は、中国漁船の過失は明らかなのに、それを認めようとしない。海上保安庁が船長を逮捕して、大騒ぎするのは、あまりにもみっともない。そして、即時解放をもとめたことも、法治を全く理解していない行為だ。

それに尖閣諸島に領土問題はなく、日本の領土であることは明らかで、かつて中国も認めていた。この事件に、それに絡めるのも、中国外交当局も、あまりにも姑息だ。このような犯罪行為を捻じ曲げるやり方は、多くの日本人を反中・嫌中に押しやっている。

流風のように比較的中国文化に好意を持っている人間でも、今回の事故対応に、中国首脳の対応は、嫌な感じだ。外交に、芝居や演技が含まれるとしても、深みがなさすぎる。まるで、ごね得を目指す三流国の外交官のやり方だ。

確かに、過去のトラウマから、中国は防衛線を拡大したい気持ちはわかるが、そんなことをすれば、周辺国家とトラブルを起こすだけだ。そこにどれだけ、彼らの国益があるのだろう。

海底資源に期待しているとの報道もあるが、いずれ海底資源開発は世界で環境問題で禁止されるだろう。海洋資源は、世界の資産であるからだ。それらに悪影響を及ぼすことは避けねばならない。それを無理に開発するのは、大きなリスクを抱えるだけだ。

むしろ、資源などは、自国だけで調達しようと考えないことだ。日中が協力すれば、多くのことは解決できるであろう。そして、日中で、経済的に補完関係を強めれば、それが最終的には、中国の防衛につながることを理解すべきだ。今回は、中国が誠意を示すべきだろう(海上保安庁船の被害の修理代の負担)。

そして、いつも言われていることだが、日中間では、コミュニケーションに深みを持たせて、もっと多様なレベルで交流を深めて、相互理解に努めるべきだろう。

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2010年9月29日 (水)

菊と漢詩『秋思』

今年の菊は、夏の暑さに負けてしまって、あまり宜しくない。涼しくなって、やっと花芽を出しているが、全体が少し寂しい。菊自体、仏花に、よく使われる寂しい花ではあるが、ここまで、元気がないと思いやられる。新しい苗を購入して、来年に備えることとしよう。

さて、秋の漢詩として、以前、道真の『秋思詩』を取り上げたが、今回は、杜荀鶴の詩を取り上げてみよう。彼は杜牧の庶子で、晩唐の詩人だ。題は、『秋思』だ。

  雨は紫菊を匀(ひとし)うす 叢書々の色

  風は紅蕉を弄す 葉々の声

  北畔は是れ山 南畔は海

  祗(た)だ図画するに堪へて行くに堪へず

訳としては次のようだろうか。

「ひと雨ごとに、紫の菊が咲き競い、色を深めていく。姫芭蕉の葉が風に吹かれて葉が擦れ合っている。北の畔の方は山であり、南の畔の方は海だ。これらは絵に描くには、いい場所だが、歩くには難儀な場所なので勘弁願いたい」

秋が深まり、景色もきれいなので、水墨画を描くには適した時期なのだが、そういうところは道が険しい。知識不足で申し訳ないが、これは誰かの絵に対する賛なのだろうか。そういう感じを持たせる詩である。

日本も日一日と秋は深まっていく。物思いにふけるには相応しいのだろうが、果たして紅葉狩りには、どこへ行こうか。流風には、まだ秋思には似つかわしくないようだ。

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2010年9月28日 (火)

気働きとしての清掃

販売店の店先で、暇なのか、従業員が雑談しているのを見かけることがよくある。それが店のレベルなのかもしれない。従業員教育を怠っているのだろう。流風は、こういう店には、決して入らない。

昔は、気働きということがよく言われた。仕事は自ら探して作らなければならない。暇だからと言って、ぼーっとしていてはいけないのだ。もちろん従業員同士の雑談も避けなければならない。顧客に、そういう場面を見せれば、嫌な気にさせる。

暇なら暇で、探せばやることはあるはずだ。店の清掃から、商品の掃除、配置替えなどすれば、いろんな気づきがある。そのように、いろいろ従業員が忙しくしていれば、店には活気があるように見えて、客は寄ってくる。店は、見せ物であり、生きているようにしてこそ価値がある。

また、某外食産業は、相当前から、新入社員にトイレ掃除をさせるそうだが、正しい姿勢だ。もちろん、食べることと排泄がつながっているからではない。トイレがきれいということは、食べ物を供給する社員の意識に影響する。トイレを見れば、その企業の姿勢が見えてくるのも事実だからだ。

今では、外食産業に限らず、顧客と接するところは、ほとんど、それに近いことをやっているかもしれない。もちろん業者に任せているところもあるかもしれない。しかし、社員にさせれば、いちばん汚いところを清潔に保つということは、他のどの箇所でも清潔に保とうという意識が働く。相乗効果で、すべてが改善される。

そして、これは顧客と直接接する機会の少ない企業でも有効と思う。ただプライドの高い社員にそれをさせれば、なぜ、そんなことをしなければいけないのかと苦情が出るかもしれない。でも新入社員の時から、そういう教育をすれば、それは可能だろう。何事も、最初が肝心なのだ。

全員で、清潔な空間に保たれた企業は、業績もいいし、会社の雰囲気もいい。そういうところは、外部の者に対する挨拶も、明るく、きっちりできる。皆が、気働きしていると、会社の景気は、不思議とよくなることは、昔から云われてきた。積極的に活気のある空間にしたいものである。

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2010年9月27日 (月)

ほうじ茶の美味しい季節

涼しくなってきたので、食後のお茶を、麦茶から、ほうじ茶に切り替えた。お茶は、紅茶も含めて、いろいろ飲むけれど、ほうじ茶の美味しさは格別。飽きない味だ。夏に飲んでいた麦茶も、切りよく無くなったこともある。毎年、少し残るのだが、今年はタイミングがばっちり。

朝起きた時は、洗面うがいをした後に、煎茶等緑茶を飲むが、食後は、夏は麦茶、その他の季節は、ほうじ茶と決めている。これは昔からの習慣だが、その方が何となく体にいいみたいだ。逆をやると、胃腸の調子が少しおかしくなる。

多分、これは緑茶は、食前に飲む薬のようなもので、ほうじ茶は、食後の胃腸を安定させるのだと思う。こうすることで、便通が正常に保たれているのではないだろうか。今年買ったほうじ茶は、殊の外美味しく、今年の冬は、いいお茶の時間を過ごせそうだ。

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2010年9月26日 (日)

野菜トマトスープ

少し寒くなってくると温かい食品がいい。鍋物も当然食卓に上がるだろう。今回は、以前にも記しているのだが、もう一度記しておきたい。それはトマト野菜スープ。この料理を知ったのは15年ぐらい前、初めて料理本を入手した、その中にあるレシピだ。

それは『これならできる経験不問クッキング(別冊NHKきょうの料理)』だ。当時、これにつられてすぐ購入。やはり、つかみは大切だ(笑)。いろいろ試した結果、この野菜トマトスープを最もよく作る。本来朝食用に作られたレシピのようなのだが、スープというより、具たくさんの夕食の主食にもなっている。

これを飲む(というより、具が多いので食べる感覚だが)と、体調が、いつも頗るいい。以前紹介した健康野菜スープや和風ポトフもいいが、それと同じくらいいい。特に冬場にいいようだ。作り方は、そのレシピは大体、次のようだ。

一、まずベーコンを2センチ幅に切り、湯に通す。ジャガイモ、人参、玉ねぎ、キャベツは2ミリ幅に切る。ベーコンがなければ、豚肉、ハム等で代用することもあり。

二、鍋に油を熱し、ベーコンを炒め、玉ねぎ、人参を入れて更に炒め、しんなりしたら、キャベツとジャガイモを入れて炒める。

三、これに水、固形スープの素、トマトジュースを入れ、煮る。沸騰したら灰汁をすくい取り、弱火にして、素材が柔かく煮えたら出来上がり。

トマトは本来、夏野菜だから、これからの秋・冬には敬遠したいが、煮ると寒いシーズンでもいいようだ。トマトジュースが苦手な人も、温めると食することができる人が多いようだ。また根菜類の成分が煮だされ、健康にいいのだろう。

材料の量を示さなかったのは、流風は、材料を少し多めにして、具たくさんのスープにしているため。また具の種類は、これらに冷蔵庫の野菜の残り物を追加することもある。各人の好きなようにアレンジするのが料理の楽しさでもある。だから、作るごとに、少し味が違うこともある。水くさかったら、塩や胡椒で適当に調整。今年の冬も、これで乗り切るぞ。少し大げさ(笑)。

 

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2010年9月24日 (金)

レア・アースを使わない商品開発を

現在、尖閣列島問題で、中国がレア・アースを輸出しない方向で動いているようだが、商品開発は本来、ありふれた材料を使って作るべきだし、希少資源を使っての商品開発は、あまり勧められない。

今回の中国の姿勢に限らず、大きな輸入リスクを伴う商品開発は、リスク分散が当然求められる。企業は、希少資源を使わず、新製品が作れるように、すでに動いていると思うが、レア・アースが入手できなくなるとということで、あまり騒がないことだ。

日本は、輸入資材を使って加工する産業なのだから、当然、資材のリスクは価格も含めて起こる。よって、常に、それに配慮したモノづくりが求められる。輸入先に首ねっこを押さえられるようでは心もとない。

まあ、むしろ中国も、日本が輸入をしなくなると、困るはずなのだが。中国の為政者も、相手国の法治も理解できず、レベルが落ちたと言わざるを得ない。第一世代が地下で嘆いていることだろう。

まあ、それはそれとして、企業の商品開発者は、輸入リスクを十分考えて商品開発してもらいたい。いずれレア・アースを使わない商品が出てくるであろう。だから、流風的には、この問題は、あまり心配していない。レア・アース利用から撤退するのであれば、早めがいい。

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2010年9月23日 (木)

揺れる検察の独立性

郵政不正事件で、厚生労働省官僚の村木氏は無罪になった。そして検察の捜査のやり方が問題だったことが明らかになり、検察が揺れている。今までも、民主党叩きが本来の目的であり、その捜査に問題があると、言われていたが、それが表面化した。

それに大体、検察官が描いたシナリオに、証拠や自白をあてはめていく捜査手法は無理がある。今回のような証拠品の改ざんが行われたり、無理やり都合のよい自白に追い込む等、問題が多過ぎる。

賢い人は、嘘をつくようだ。検事の出世欲のために事実が捻じ曲げられるとしたら、それは検察は、良識の最後の砦というより、悪魔の組織だ。組織と運営方法を抜本的に見直す必要があるだろう。

今まで、こういう手法で捜査していたとするなら、過去の事件の洗い直しも求められる。かつての大事件で見れば、最近、判決が確定した鈴木宗男事件も、やり直しが必要だろう。大体、あの程度の事件で、政治家が追い込まれるのも、少し不思議だ。本来、大事件になる筋合いのものではないはずだ。

また小沢一郎事件(陸山会事件)もそうだろう。確かに、彼は田中角栄、金丸氏と、金権体質の中で育ったことは事実だろう。ただ、むしろ。それだけに、金権の怖さは近くで体得している。それゆえ、彼は金の扱いに慎重であったはずだ。法律の抜け道は、フル活用しただろう(*注)が、捜索の対象になるようなことをやるはずがない。

検察は、マスコミの注目度が高く、目立つから彼を天下の大悪人に仕立て上げようと、捜査の対象にしたのだろう。もちろん、民主党を叩きたい官僚や、当時の政権党の自民党のバックアップがあったことは間違いない。特に政権末期の麻生政権は焦っていたから、あらゆる可能性を探っていたところに検察が乗ったと推定される。

そういうことを考えると、政治と検察の癒着が一番危険だ。捜査が検察の意志ではなく、政治的恣意が入ると、それは最早、検察の存在価値が失われる。ところが、検察予算も、行政の一部だから、予算を獲得しようとすれば、政治とかけあう必要がある。そこに問題の種がある。

そういうことも含めて、検察のあり方が問われている。検察の独立性確保のためには、政治との適切な距離、組織のあり方、人事評価も含めて運営のあり方、捜査手法の見直し、捜査の透明性確保、予算のあり方(使い方の透明性確保)等、すべて洗い直すべきだろう。そのようにして、早く、検察の信頼を回復すべきだろう。

*注

政党解散時の政治資金の扱いが不透明であること。法律に定めがない。

*追記

一部に検察不要論があるようだが、それは行き過ぎかもしれない。現在の運営方法には問題があるかもしれないが、それを正せば、必要な組織だろう。ただ、独立性を保ち、検察の本来、あるべき姿に戻す必要がある。そして、特高のような無理に罪人を作るような捜査手法は禁止されなければならない。

そして、検察特捜が、過去に政治の権力闘争に活用されていたとするならば、最早、存在価値はない。今までの政治絡みの事件は、すべて、官僚政治家と党人派の政治家の闘争で、検察は、官僚政治家の片棒を担いできたとされる。それはロッキード事件が、その始まりだ。そのように考えると、当初から、検察に独立性などなかったとも思える。もし今後も、盛時の片棒を担ぐ懸念があるのなら、検察は、必要がないことも確かだ。

*追記

仮に検察を残すとしても、大幅に改編する必要があるだろう。現在の起訴までできるフルシステムは、将来においても、問題が多い。よって大事件や、広範な事件、国際的な事件について、企画・調査して、仮説設定などの提案に留め、実際の裏付け捜査は警察がやるようにしてはどうだろう。もちろん相互のフィードバックシステムは必要だ。いずれにせよ、現在の検察のシステムに無理があり、組織疲労しているのは否めない。

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2010年9月22日 (水)

月見と団子

本日2010年9月22日は、十五夜。すなわち中秋の名月が拝める。夕方にかけて雷と共に強い雨に降られたが、その後、空を見上げると、満月を見ることができた。少し雲がかかっているが、美しい。

そこで、月見団子に初めて挑戦。上新粉すなわち米粉に水を少しずつ入れながら、かき混ぜ、練っていると、それなりの餅風に。後は丸めるだけだ。ビー玉程度の大きさにして、後は熱湯に入れて、浮きあがってくれば、引き上げて、冷水に入れるだけ。なるほど、やってみると意外と面白い。

残念ながら、ススキは入手していないので、団子のみ、酒と一緒に供える。団子を作って、月を見るのもいいものだ。雷は、今も鳴っている。でも、いい月だ。

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淀屋の松

淀屋とは、多くの方がご存じであろうが、江戸時代に大阪で活躍した有名な豪商だ。大阪には、彼が自費で作った淀屋橋という地名が今も残る。また現在の商売の形を作った先駆けということになる。米相場の確立、手形の発行・流通、両替、先物取引を世界で初めてやった。そういう仕組みを作ることによって、多額の金銭を獲得し、大名貸しをして、士農工商時代という一番身分の低かった商人が、大名の首根っこを押さえていた。

しかし、それが積み重なり、行き過ぎたため、権力維持に不安を持った幕府に睨まれることになり、五代目の時、全財産を没収される。時に1705年のことだ。表向きの理由は、贅沢が過ぎるということだったが、実際は大名貸しの棒引きをたくらんだのだろう。現在の金額にして、百兆円という。いつの時代も、権力者のやることは恐ろしい。

さて、その淀屋辰五郎、別名淀屋廣當は、没収される前、大木の松を自分の庭に曳かせたという。それは松にかかる雪景色を頼むためだったと云われる。これを題材に、芥川龍之介は、小品を書いている。それは『仙人』。小学生の頃、伯母に本をプレゼントされ、その中に収録されていたと記憶する。

ある男が、口入屋に、「よろず口入れ所」と暖簾にかいてあることを理由に、仙人になれるようなところを紹介しろと無理強いするところから始まる。適当にあしらっていたが、「よろず」という言葉に、いちゃもんをつけ、どうしてもということで、口入屋が、ある医師のところに泣きつく。

その妻が、少し意地悪な人で、「二十年無給で働けば、教える」と言って騙すわけだが、男はその気になって、二十年間、せっせと働く。そして、その日が来たので、仙人になるやり方を教えろと言うので、でまかせで、あの大きい松の木に登れと言う。

彼は指示通り、松に上り始めたので、先の先まで上がらせて、そこで手を離せと言う。そこには何もないから、当然、落ちそうなものだが、男は落ちずに青空を踏みながら、天高く上って行ったという。

まあ、あり得ない話だけれど、いつの間にか、その松には、そういう言い伝えができて、大金持ちの気まぐれか、淀屋辰五郎は、仙人が飛び立った松として、自宅の庭に植えたいという。芥川は、確か、そこまでしか描いていないが、彼は何を言おうとしたのか。

世才の長けた人間より、無知な人間の方が、一意専心すれば不可能なことも可能になると言っているだろうか。人間的に器用な人より不器用な人の方が大成すると言っているような気もする。それは天才であった芥川の期待であったのかもしれない。

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2010年9月21日 (火)

親の思い

小さい頃、母が身ごもって、弟や妹ができるという話がされると、何か、わくわくするものである。親からは、お兄ちゃんとかお姉ちゃんになるのだから、しっかりしなさいと言われるものだ。生まれるまでは、どこか期待感がある。

ところが、生まれてくると、母親はどうしても、弟や妹に、かかりっきりになる。それは仕方ないのだが、子どもしてみれば、母親を奪われた嫉妬感に捉われるようになる。初めは可愛がっても、ちょっかいをかけたり、いじめたりする。

そして、親からは叱られるのだが、自分に興味を引いてもらいたいばかりに、いたずらしてり、いろいろ問題を起こして、エスカレートすることもある。こういうことは、いつの時代も繰り返されてきた。

また弟妹にすれば、兄姉は、いつも新品で、私達は、いつも、お下がりは不平等と思って不満を常々持っている。新品は、親の愛の示し方と捉えるのだろう。彼らは、親の経済的事情は子どもに関係ないと思う。

親は、彼らの微妙な捉え方に、戸惑ってしまう。平等に扱っていると日々努力しているのに。それは子どもたちが大人になっても残る感情のため、子育ては難しいと思うようになる。

そういうことは、今も昔も変わらず、親の嘆きを詠った和歌がある。それは次のようだ。

  わたつみの 深き心は おきながら

    うらみられぬる ものにざりける

              (読み人知らず)

いろんな歌集に、似たような歌が掲載されている。すべて、読み人知らずだ。これは『大和物語』にあるものだが、読み人は、不明だが、宇多天皇とか伝えられている。

解釈としては、「(子どもたちには、それぞれ)大海のような深い愛情をかけているのに、残念なことに、不公平だと恨まれてしまった」という意だろう。親とは辛いものだ。子どもたちに親の思いを理解されずに、子どもたちは不満を持ちながら成長していく。

そして、子どもたちは、結婚して、子どもを持つことで、初めて親の思いを知る。残念ながら、人類は、これを繰り返しているようだ。子を持つまでは、先人の教えも、あまり参考にならないのかもしれない。親とは、子育ての楽しみもあるが、ある意味、辛いものだとも思う。

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2010年9月19日 (日)

映画『三等重役』を思い出す

小林桂樹氏が亡くなられたようだ。ご冥福をお祈りしたい。彼のことを知ったのは、子どもの頃、テレビで、あるサラリーマン映画に出演されていたのを見たのが初めて。子どもが見ても、結構面白く、サラリーマンて、楽しいのかなと思ったりもした。

それは『三等重役』というもので、原作は、源氏鶏太氏。流風の記憶では、子どもの頃、父の蔵書にも、多くの大人の本に混じって、あった。内容は、戦後、トップの公職追放により、社員が臨時で社長に就任。実権はないから、あちらにも、こちらにも、頭が上がらない。そして、家では妻にも。

主人公の社長は誰がやっていたか覚えていないが、森繁久彌氏が人事課長を演じていた。こいつが社長を馬鹿にして、威張っている。気持ちもわからないでもないが。実力もない、尊敬もされな人が、社長に就任すれば、部下は誰でも、そう思う。その辺の悲哀感あふれる映画をコメディータッチで描いていた。

その後は、『続・三等重役』以降、都合により森繁久彌が社長役になり、社長シリーズが始まっていて、結構面白かった。ペーソスも交えながら、随分と気楽な社長業を演じていたと思う。

始めの頃は、やや地味目に扱っていたが、高度成長時代に突入してからは、交際費はいっぱい使えたし、いわゆる社用族が幅を利かした時代。もちろん、現実は、そこまで、ひどくはなかったと思うが、現在の経営者の状況と比べると経営環境は雲泥の差かもしれない。

行き過ぎはあったと思うが、現在のように、せせこましい雰囲気はなかっただろう。飲み食いで人間関係を作るのは今も大切。でも、今は交際費を使うことはなかなか許されない。そういうことが、活気を削ぐとは思うのだが、当局は、交際費に厳しい査定をしているようだ。法人税減税なんて、どうでもいいと思うが、交際費課税は、もう少し、なんとかならないものか。

それはそれとして、あの映画、もう一度、テレビで流してもらえないかな。小林桂樹氏の訃報に接して、そんなことを思い出してしまった。

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2010年9月18日 (土)

人生の問題

ある年齢に達すると、人生について考えるようになるのは自然の流れだろう。その年齢は各人違うが、自分の生きてきた人生が、これで良かったのかとか、これからどうしようとかと思い悩むものだ。人生は、常に問題を抱えているのかもしれない。

芥川龍之介は次のように語っているという(出典を未確認。『侏儒の言葉』とも思ったが、そのような記載はなかった)。

「人生は「したことの問題」と、「しようとすることの問題」と、もう一つ「しなければならぬことの問題」によって、常に動かされ、励まされ、悩ませている」

確かに、したことを振り返り、今しようとしていることや、将来に向けて何をやるべきかについて、人生の中で、思い悩み、繰り返しているとも言える。まあ、簡単に言えば、過去、現在、未来の流れの中で、どう泳ぐかは大切な問題。

だから過去だけ見るのだけでは不十分だし、現在だけ見ても何も解決しない。そして、夢見る如く未来ばかり見ていても仕方ない。要は適切にバランスさせる感覚かな。

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2010年9月17日 (金)

働遊一如ということ

遊んで暮らしている人を除けば、多くの人は働いて収入を得る。仕事は、どの分野でも、厳しいものだ。楽して収入を得るということは、なかなか世間が許してくれない。どんな仕事でも、日々切磋琢磨が要求される。

そういうことで、辛くなったり、疲れたりして落ち込むことも多い。肉体的な疲労は、確実に休養を取れば回復するが、精神的な疲労は蓄積されがちだ。そして、働いている時間は、持ち時間の大半を占める。

だから、先人たちは、それなら仕事を楽しめ、と言ってきた。どうせやるなら、仕事を遊びの一種と考え、面白くする発想が大切なのだと。このことは、流風も先輩方からよく言われた。また徳富猪一郎も、「働遊一如」と言っているようだ。

彼は、魚が水の中で遊泳する如く、仕事を愉快に楽しく為せ、としている。それが名人の為す技だと。若い人も、いろいろ困難にぶつかるだろうが、仕事に集中して、雑念を取り除き、仕事の名人になって欲しいものだ。

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2010年9月16日 (木)

秋風吹く漢詩

暑い暑いと言っていたのに、本日の朝は昨日に引き続き大変涼しい。夜もクーラーも扇風機もいらなくなった。秋風吹いて、秋、到来なのだろう。しばらく、このように過ごしやすい日が続くのだろうか。そういうことで、今回は秋風を題材にした漢詩を取り上げてみよう。

南宋の詩人、劉克荘という人のもので、題名は『秋風』。また彼は、後村という号を持つ。

  黄葉蕭々として忽ち堦に満つ

  独り痩馬に騎る豫章台

  宋玉心中の事を将て

  吹いて潘郎鬢上に向かひ来ること莫れ

宋玉とは、楚の大夫で、『楚辞』の九辯を作った人。秋のもの悲しさを語りながら、有能な人が認められない世の中を嘆いている。具体的な内容については、ネットの中に訳したものが紹介されているので、ここでは、それ以上には取り上げない。

また潘郎とは、晋の潘岳のことで、彼は三十二歳で鬢の毛が一瞬にして白くなったという。何か精神的に大きな苦痛があったのだろう。現代でも、そういう人は見受けられる。

そういうことを踏まえて、解釈していくと、次のようになるのだろうか。

「紅葉した葉が、はらはらと落ちて、階段に積み重なっている。秋風吹く中を、痩せ馬にまたがって、豫章台周辺をうろうろして、しみじみ思う。でも、かつて悲壮感の漂う宋玉が著した『楚辞』の九辯のように、秋を哀しみ詠んだ心中で以て、潘岳のような白髪にはしてくれるな」

秋というものは、人を感傷的にさせるものらしい。どちらかというと、悲観的な考えを持ちがちだ。それは、これから冬を迎えるからかもしれない。確かに枯葉が舞い散る中を散策すれば、流風でも、そういう雰囲気になるかもしれない。

ただ、今のところ、流風にとっては食欲の秋到来だ。夏も食欲は落ちなかったが、それに輪をかけて食欲が増しそうだ。また流風は年齢の割には、髪の毛も黒く、一応ふさふさしている。そんなことぐらいでは、白くはなりそうにもない。

親から、お前は、いつも悲観的なことを言いながら、大変呑気だと言われたが、それが幸いしているのかもしれない。楽天的とは言わないが、そうかもしれない。どうもブログの最初の意図とは逆方向。後村さん、ご免(笑)。

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2010年9月14日 (火)

火の用心の躾と八百屋お七

   世のあわれ 春ふく風に名をのこし

     おくれ桜の きょう散りし身は

        (八百屋お七、辞世の句)

子ども時代、母が流風に留守番を頼む時、必ず言ったことが火の用心だ。そして、決して火遊びをしてはいけませんとよく言われた。また、火事の火元になれば、そこには当然住めないし、七代恨まれると何回も教えられた。子ども心に火事を出せば、ここに住めないのだと思った。そして火の怖さをなんとなく感じていた。

実際、火の怖さは、身を以て知っていた。仏壇に線香をあげ、おくどさんで、窯に火をおこす手伝いもしたし、七輪で火をおこすこともやったし、五右衛門風呂の湯沸かしのため、薪をくべて、火をおこすことは手伝いとしてはよくやったから、日頃から火に接することが多かったこともある。当然、そこでは、幾度も怖い目にあったので、火の恐ろしさは知っていた。火傷もしたことがある。

ただ、火事だけは実際には経験していなかった。けれども、火事になれば、大変なことになって家族は路頭に迷うことになるというのは、子ども心にもわかった。ということで、母に限らず、出かけるときは、いつも火の元には注意したものだ。そして、子どもには、繰り返し注意をした。

ただ、最近の事例にもあるように、留守番していた三人の子どもたちが、ライターで火遊びをして、全員亡くなるという悲惨な事故も起こっている。また車の中でのライター遊びが災いを呼んだ例もある。なかなか現在の住宅事情では、難しいかもしれないが、子どもには、火事の恐ろしさを伝えたいものである。

さて、作為の火遊びは、もっと怖い。江戸時代、八百屋八兵衛の娘、お七には、やはり、そういう教育をしなかったのか、いい仲になった男(小野川吉三郎という浪人)会いたさに、注意を引こうと、火事を起こしてしまう。男女間の情愛は、深かったのかもしれないが、常軌を逸している。男女の火遊びが、本当の火遊びになり、不幸を招いた例だ。

そして、この場合も、女性が燃え上がった結果の悲劇であろう。昔から、女性の方が熱くなると、その恋は危ういと云われる。周囲が見えなくなり、少し暴走し過ぎるのだ。年齢的に十六歳だったということもある。初めての恋は余計に危うい。お七は、当時の刑罰に従い、市中引き回しの上、火あぶりの刑に処せられる。それで、先に示した辞世の句になった。

もちろん、これを彼女が作ったとは言うまい。多分、代作だろう。いずれにせよ、十七歳になった彼女は、これからという時に、命を失ってしまった。当時、相手の吉三郎は、病を得て、周囲の配慮で、お七のことは知らされず、その後、どうなったかは不明である。

そして、一時の激情に駆られて、こういう事件を起こすと、本人だけでなく、周囲の多くの人々を不幸に巻き込む。彼女の両親は、その後、どういう運命をたどったのだろうか。火の用心の教育は大切だ。まあ、男女の火遊びにも注意すべきなのかもしれない。

この物語を通じても、子どもの教育はできる。男女の情愛など当時わからぬ流風に、母が何回も話してくれたことを懐かしく思う。そういう躾のやり方もありだろう。

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2010年9月13日 (月)

人生の秋の漢詩

今年は秋はないのではないかと言われてきたが、ここ数日は、朝夕、少し涼しいようだ。虫の世界では、ツクツクボウシは啼くし、コオロギ・スズムシの類もにぎやかだ。トンボの大群も押し寄せてきた。今年も、秋は来ているようだ。

さて、今回は、そういうことで、秋を題材にした漢詩を取り上げて見よう。とは言っても、人生の秋を迎えた作者の想いだ。作者は、邵康節(しょう・こうせつ)だ。彼は北宋の儒者、康節とは、邵雍の諡(おくりな)だ。詩題は『天津感事』。

  水流れて縦ひ急なるも 境 常に静かに

  花落ちて頗りなりとも 意 自ずから閑なり

  似ず 世人の忙裏に老いて

  生平未だ始めより顔を開くことを得ざるに

題の天津は、地名ではなく、橋の名前らしい。彼は、この橋の上で、天下が乱れることを予知したという。まあ、後付けのような感じもしないでもないが、そういう故事があるそうだ。ただ、この詩は、そういうことを踏まえて、詠んだということだろう。

大意としては、次のように解釈してみた。「水が流れて、急な流れがあっても、その境目は、いつも静かだ。花がはらはらと落ちていても、心の動きは落ち着いている。世の中の人が、忙しく、バタバタして、いずれ老いていって、生まれて、この方、笑いを知らないのと似てはいないか(そんなにバタバタしなさんな。なるようになる)」。

これは時代を冷静に透徹しながらも、高齢者に見える諦念に近いかもしれない。時代の転換点にいることを確認しているのかもしれない。今後のことは、なるようになるしかない。今まで生きてきた時代とは違った時代になるのだろう。そのように時代は流れていく。後の時代は、その時代の人々が運命に翻弄されていく。私は、もう知らん。そんな感じだ。

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2010年9月12日 (日)

政策依存症

円高や株安で、政府や日銀の対応を批判するが、的の外れた論議だろう。本来、景気は、円高や株安ではない。景気は、経営者自らが創りだすものだ。確かに国の政策を見定めることは大切だが、それを見越して経営方針を決めるのが経営者の役割だ。

特に中小企業は、そうだろう。それを国や日銀のせいだとするのは、責任転嫁だ。大体、中小企業経営は、経営者の才覚である。それに中小企業は、国の政策に倣えば、ほとんど成功しないと言われてきた。

大企業の場合は、規模が大きいがために、政府の方針は経営に影響を受けることもないではない。だが、昔から、経営は政治と距離を置けと言われてきた。政策面で協力を求めると、必ず見返りを求められるのが常だ。それに政治家は約束を守るとは限らない。

そして、やれエコポイントだ、エコカー減税だ、法人税減税だと騒ぐのは、大企業の経営者の質が落ちている証拠だ。そんなものに頼らないと、売り上げが上がらくなっている市場対応に問題があると考えるべきだろう。

法人税減税など要求するのは、租税特別措置などで税金逃れを盛んにして、実効税率はかなり低い業界もあるのに、一律に法人税減税を要求する経済団体は、厚かましいと言いたい。強いて言えば、実効税率の高くて、納税額が多い業界のみ個別で要求すればいいことだ。

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2010年9月11日 (土)

求められる予算のリストラ(再編成)

管政権で、一律1割削減して、特別予算に回すとしている。しかし、民主党政権は、本来、予算をリストラして、政策の優先順序を組み直して、再編するとしていたはず。現在のやり方は、自民党政権と似ている。管政権のアプローチは自民党と似ており、出身の「新党さきがけ」の体質から抜けきらない。

事業仕分けも、どちらかというと、無駄な経費削減的なニュアンスが高く、それも対象が限られている。肝心な項目には、メスが入っていない。これからということだが、まず予算のリストラ(再編成)をやってから事業仕分けしないと、効率的な仕事にならない。

マニュフェストで謳っていた、民主党の政策の優先順序に従い、まず予算をリストラして、予算の組み替えしてもらいたいものだ。今のままでは、改革どころか改善もできないことを国民は押さえておく必要がある。管政権で、果たして改革ができるだろうか。

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西鶴の「身過ぎ」その五

今回の西鶴の「身過ぎ」も、むしろ「世過ぎ」だ。

「近年分限になる人の子細を聞くに、その家によき手代ありて、これらが働きゆえなり。また、家栄えたる人の俄かに衰えたるを聞かば、これまた、その家の手代どもが仕かたゆえなり」

商家は、主人、番頭、手代、丁稚で成り立っているから、手代とは、現在の係長クラスだ。現場の一線で、顧客と渡りあっている立場だ。店の経営方針は、主人や番頭が方向づけるとしても、日々の現場の働きの積み重ねが、身代を大きくするのは間違いない。

現場の人間のやる気次第で、商家は、良くも、悪くもなる。よって、彼らへの細かい目配りが必要になってくる。それは現代でも同じことだろう。従業員が何を考えたり、不安を持っているか。それらをよく理解して、後ろから支援したり、不安を除去して、働きやすい環境をつくる。成功への道は、今も昔も変わらないということだろう。

*追記

西鶴の「身過ぎ」に関しては、キリがないので、今回で一応終了。また機会をみて記すかも。

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2010年9月10日 (金)

西鶴の「身過ぎ」その四

今回の西鶴の「身過ぎ」の言葉は次の通り。但し、「世過ぎ」のニュアンス強い。

「如何に繁盛の所なればとて、常の働きにて長者に成り難し」

商売は場所だとよく言われる。特に飲食業は、確かに、そうだろう。ところが、いい場所なのに繁盛店にならないこともある。何か商売の工夫が足りないのだろう。ところが、経営不振のオーナーが仕事を辞めて、店が売りに出されて、次のオーナーになると、流行ったりする。

どこが違うのだろうか。やはり新しいオーナーの目の付けどころが違うのだろう。同じ条件でも、成果が違う。より多くの知恵と汗を出した者が成功するのだろう。普通のことをやっていては成功は覚束ない。

これは何も商売に限らず、何でも、そうかもしれない。他者との差異を突いて、そこを掘り起こすと宝物が出る。それを繰り返していく。チャンス・タイミングに合わせて、こまめな積み重ねが成功者への道なのだろう。頭と尻の重い人では、商売はできないということ。

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2010年9月 8日 (水)

西鶴の「身過ぎ」その三

今回も、西鶴の「身過ぎ」。今回は、次の言葉。

「身過ぎ上手は、表向き軽うして、内証の強きこと。つまりは、世間内輪にかまえ、時には人の成らぬことを成すものなり」

これは、商人は、無いような振りして、世間に対しては、本当の財力を隠し持てということ。外面は、人当たりはよく、裏では、計算できることが大切と説く。他人に悟られず、内に信念のような、しっかりしたものがないと、何事も、うまく行かない。世間に対しては、控えめにして、出過ぎず、密かに、事を成す。これが大事を成すコツだと説いている。

基本的に、商人は、基本的に財力が重要と説く。商人から、お金を取れば何も残らない。無力なのだ。そして、財力があっても、無いように振る舞い、いざという時には、勝負に出る。世間との駆け引きが、更に財を生む。

少しニュアンスが違うが、次の話を記しておこう。昔聞いたことだが、Aさんが、出入りの大会社の部長さんを接待して、何気なく、これからの商売は何が良いかと、聞いたそうだ。そうすると、部長さんは、得意そうに滔々としゃべったらしい。

Aさんは、その情報を活かして、新規事業を興し成功した。この部長は、見下げていた下請けの社長が、まさか話の通り、事業を興すとは考えていなかったようだ。部長は、確かに、たくさんの給料を得ていたかもしれないが、その人の利益と比べたら、ほんのわずかのものであろう。

飲み会での話も、志高く、自立心を持っていれば、新しいチャンスも得られる。財力も志も隠さねばならない。確かに、成功者は、多かれ少なかれ、そういう傾向があるようだ。ちなみに流風は、その部長さんと同じ立場かもしれない(但し、一応隠居の身だけれど)。それでいいと割り切っている。流風の言うとおりにして、成功するかどうかはわからないけれど(笑)。

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2010年9月 7日 (火)

西鶴の「身過ぎ」その二

本日も、西鶴の言っている「身過ぎ」を紹介しておこう。

「人の情も、家繁盛の時。あてにすべからず」

家が繁盛していて勢いのある時は、あちこちから人が集まってくる。以前は全くつきあいのない人たちが遠い親戚と称して現れるのも、こういう時だ。そして、盛んに、おべんちゃらを言って、近づいて何らかの利得を得ようとする。そして、他人には、親戚だ、親戚だと、ふれまくり、まるで自分が偉いんだという態度をする。

逆に、勢いを失って、逼塞すると、人は誰も近付かなくなる。親戚だと言っていた人も、全く関係ないという顔をする。近付いて借金でも申し出られたら災難だから、近寄りもしない。もちろん助成などはあり得ない。同様に、盛時の時にできた友人は、当てにならないとも言います。彼らも、下降線をたどると、あっという間にいなくなります。

このように人の情は、自分中心で冷たい。勢いがあり、人が自分の周囲に集まっても、あまり期待しないことだと、西鶴は指摘している訳です。これは、ある意味、仕方のないことだけれど、人が集まるには理由があるのだ。

だから、他人に期待して、当てにするなど考えてはならない。西鶴は、人間というものを、なかなか冷静に見ている。結局、いざという時、頼りになるのは自分だけというのも、寂しいが、それが現実というものであろう。

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2010年9月 6日 (月)

西鶴の「身過ぎ」その一

今回から西鶴の「身過ぎ」に関する言葉を挙げてみよう。「身過ぎ」とは、最近では耳慣れない言葉だが、要するに世渡りのこと。辞書には、「暮らしを立てていくこと」とあるが、もう少し深く考えたもの。

今回挙げる言葉は、次のもの。

  「人間の堅固なるが、身過ぎの元なり」

世の中、いろんな人種の考え方の持ち主がいる。楽しい人、調子のいい人、真面目な人、頑固な人等、色々である。その中で、西鶴が世渡りで大切なのは、堅実な人であるとしている。

堅い人というのは、確かにつきあいにくいが、間違いが少ない。面白くないといえば、そうだが、長期的に見れば、噛めば噛むほど、味の出る人だ。長い人生では、そのようなタイプが無事だ。

最近の女性は、軽くて、柔かくて、優しい人を望む傾向が強いが、短期的には楽しいかもしれないが、長期に付き合う相手ではないと知るべきだろう。異性、同性にかかわらず、付き合う相手は慎重に選んだほうがいい。

仕事的には、目立ち屋、一発屋、派手好きより、堅実に確実に仕事をこなし続けてくれる人材の方が企業にとって有難いのは明らか。スタープレイヤーは否定しないが、永遠にスタープレイヤーであることは難しい。

一歩一歩確実に歩む人間が望ましいと、西鶴も、作品を作るため、多くの人々の事例を観察して、認識していたのだろう。

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2010年9月 5日 (日)

酷暑に和風ポトフを作る

今年の暑さは、11月まで続くようだ。暑さも、そこまで続けば、体調を落とす人が増えるかもしれない。夏バテ防止には、年齢、個人差、運動量にもよるけれど、冷たい物の摂取を控え、胃腸を痛めないようにすることだと思う。

そういうことで、夏バテ防止に鍋なんて、よく言うので、和風ポトフを作ってみた。根菜類を多く使う、この料理は、本来、冬の料理だと思うが、無性に作りたくなった。いつもの材料は、かぶら、人参、ジャガイモ、豚肉がメインだが、今回は、レンコンと、冷凍していた自家製サヤインゲンを入れて見た。味付けは、出汁に塩、胡椒のみ。

レンコンを入れるのは初めてだったけれど、柔かく煮えて美味しかった。赤ワインと一緒に頂く。けれど汗だくだく。まあ、これがいいんだろうけれど。これが癖になって、今後も、鍋料理が増えるかも。作るの楽だし(笑)。

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2010年9月 4日 (土)

理紀之助の『常道』その九

今回の理紀之助の『常道』は、次の通り。

「何事も明日明日と延ばしおく時は、千日たちても用は弁ぜず。事を成さんには片っ端より為すべし」

今日のことを明日に延ばすな、とは、よく言われる言葉だ。今日できることは、今日中にやっておく。明日には明日の都合がある。今日のことを明日に延ばせば、やるべくことが積み上がって、結局、処理できなくなる。

このことは誰もわかっていながら、なかなかできない人が多い。当たり前のことを当たり前に淡々とやっていくことが、案外、大切だ。仕事も同様で、継続的に、粛々と力を発揮する人が望ましい。「ローマは一日にしてならず」という言葉もある。

* 理紀之助の『常道』は、今回で一応終了。

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2010年9月 2日 (木)

これからの景気

現在、マスコミが言うほど景気は悪くない。基本的に、優勝劣敗が続いてるだけで、マスコミは劣敗者に焦点を当てすぎるきらいがある。もともと、景気が良いとは、どういうことなのか。その定義を明確にする必要があるが、実際は明確ではない。

大体、景気をバブルの頃と比べているのなら、大きな誤りであろう。あの時は異常だったのだ。あのような景気を景気が良いとするのなら、今後、余程のことがない限り、訪れないだろう。あのような夢を追うのは止めにしよう。

それに政府の発表するマクロの統計は、実際とはずれがあるし、統計手法にも問題がある。日本銀行の景気調査も、調査対象が限られているから、実情を反映していない。作為的に、景気のいいデータを集めれば、景気はいいとなるし、それと逆のことをやれば、景気は悪いとなる。

また、不景気感を煽るのはマスコミで、彼らは、安売りばかりに焦点を当てて、消費ムードを沈滞させている。そもそも景気は気分だから、不景気だと言われたら、そうかいなと思うのが一般人の感覚。

強いて言えば、国としては、国内消費に付加価値の高い物の消費を促進する必要がある。ところが、やれエコポイントだ、割り引き商品券だと、需要の先食いという無駄な政策が多い。これでは、付加価値の高い商品を作っても、企業は儲からない。

もちろん、国際競争の中での価格は無視できないかもしれないが、商品には、それぞれ普及の段階がある。それを無理して消費させても、それは無駄になることが多い。一般に、消費の先食いと言われる。

マーケティング理論で明快なように、商品の普及は、段階を踏むべきで、そこに政府が税金を投じて、要らぬ介入をしたことは大きな誤りだっだろう。政府が介入するなら、付加価値の高い商品を開発する企業をバックアップする姿勢が大切だ。

そして国内空洞化を恐れずに、ローテクビジネスは海外に進出を促進させるべきだろうし、ロボット化など国内産業の高度化を推進するべきだろう(業界によっては、すでにされている)。人的能力には限界がある。国内コストと海外コストの冷静な見極めは必要である。そうすれば為替の変動に惑わされず、経営が可能になる。

このように、景気は自ら創るもの。中小企業の場合は、特に、国の政策より、才覚だ。そのように経営者は考えてほしいものだ。

*追記

才覚がないと思うなら、事業をたたむか、別の経営者に委ねるのが相応しい。景気を国のせいにするのは、自らの能力を棚上げして、あまり宜しくない。国の政策は、後からついてくるものと思っておいて、丁度いいのだ。

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2010年9月 1日 (水)

理紀之助の『常道』その八

今回の理紀之助の『常道』は、次の通り。

「人の誤りを罪し、もしくは叱ることなかれ。およそ、わが意の如くならざるは、己の足らざるを憾むべし」

部下に指示して、うまく行かないことがある。そのため、部下を叱り飛ばしている人は多く見受けられる。特に新人に対して、そういうことは多い。企業文化も、十分わかっていない人間に対して、当たり前のような指示を出して、結局、うまく行かないのだ。

これは明らかに変だが、昔から、そのようなことが横行している。職人の世界では、仕事を盗めと言われる。これは先輩の仕事のやり方を十分観察していろ、ということだ(*注)。最近の若い人は、そいういう意識が薄く、マニュアルがないと動けない人が多い。

そういう時代なら、上司も、やり方に工夫をしなければならない。全体像を見せて、仕事や作業の意味を理解させて、やり方を実際やってみて教えて、少しずつ、やらせてみてコツを習得させて、成果を上げさせる。まあ、今も、山本五十六の話に通ずるものがある。

結局、部下に指示して、うまく行かないのは、自分の責任と思っていたら、意識が変わって、うまく行くと、理紀之助は言いたかったのだろう。これは、人を動かす本質を突いている。

*注

話によると、先輩の仕事ぶりを観察していたら、殴られたそうである。仕事は、それがわからないように盗めということらしい。そういうことで、職人の世界では、切磋琢磨した。そのようなやり方が悪いとは言い切れない。でも、今の人では、耐えきれられないだろうな。

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