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2010年10月31日 (日)

10月31日は、「世界勤倹デー」

10月31日が、興味はないが、ハロウィンだということは知っていても、「世界勤倹デー」であることは、意外と知られていない。その「世界勤倹デー」は、1924年10月31日に、イタリアのミラノで、「国際貯蓄会議」なるものが開かれたからだそうである。

最近は、若い人たちも、貯蓄の大切さを認識する人が増えているようだが、確かに、それは人生に於いて重要だ。金は天下の回り物とは言うけれど、都合よく、自分に回ってくるわけでもない。

天は自ら助くる者を助く、じゃないけれど、ある程度は、個人で備えなければならない。もちろん、貯蓄がすべてではないが、なければ困ることも多い。投資で儲けるという人もいるが、そんなに簡単ではないし、まず元手がいる。

若い人たちは、時間があるのだから、それを活かして勤倹貯蓄に励んで欲しいものだ。もちろん、単に貯めるだけでは、意味はない。貯蓄のために、趣味もない、親友もいない、家族もいないでは、空しいだけだろう。

それでも、今のようなデフレにしろ、将来予想されるインフレにしろ、貯蓄は、ある程度あるに越したことはない。まあ、その方面に、いくら流風が論じても説得性はない(苦笑)。ここでは、あの本多静六氏の意見に登場願おう。

彼によると、次のようにすると、貯蓄ができるそうだ。

  貯蓄=通常収入×25% + 臨時収入×100%

通常収入とは給料、利子、配当等を指し、臨時収入はボーナス、副収入等であるそうだ。嘘か誠か、一度試してもらいたいものである。でも、できるかな。意志の強い人はできるだろうが、健康を損なわないようにね。貯蓄ができても、健康を失えば、元も子もない。やはり、繰り返すようだが、全体的なバランスが大切。

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2010年10月30日 (土)

女性ファッション異論 その一

いつ頃からか、街を歩いていると、若い女性たちが不似合いなファッションで通り過ぎていく。流風は、ファッションには、あまり関心はないが、現代のファッションを流行させている人々のセンスは、どうもピンとこない。それは個人の選択の問題なのか、流行に流されているのか。今回、厚かましくも、一応、ファッションに関する異論を整理しておこう(笑)。

男の場合は、今も昔も、そんなにファッションは進化していないように感じる。学生たちのだらしないファッションは、時代ごとにあったと思われる。ただ、時代と共に、ひどくなっているようには感じる。

それでも、社会人になれば、いいか悪いかは別にして、それ相応に、特徴のない、比較的まともな服を着るようになる。自由時間の普段着にしても、自由業以外は、そんなに奇抜なものは着用しないだろう。

ところが、女性たちは、変なファッションが流行る傾向にある。昔でも、特定の場所には、そういう人々がいたのは確かだ。でも、今は、至る所に、変なファッションがある。そして、目立ちたがり屋の人が増えているのかもしれない。

そして、かつては水商売とかの女性が着用していた高価な服を、一般の若い人が着ている。個人差はあるけれども、それは贅沢そうに映るし、人によっては、明らかに不釣り合いだ。それは自分を見失っているファッションだろう。

また、昔は、結婚すれば、それなりの主婦の落ち着いたファッションになり、外見で、それが判断できたのが、今は、未婚も、既婚も、見境なしに、同じファッションをするからややこしい。これは既婚者という意識が薄くなっているのだろう。

本来、年齢に応じたファッションがありそうなのに、既婚者は、未婚者を真似して、若づくりする。もちろん、結婚年齢が上がっており、また結婚年齢に大きなばらつきがあることから、生まれた現象とも考えられる。だが、年相応のファッションにして欲しいものだ。

(続く)

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2010年10月29日 (金)

キノコ狩りの話

最近、キノコ狩りで、誤って毒キノコを採取し、販売したり、食したりして大騒ぎになっている。原因は、酷暑で、毒を持つ夏のキノコと秋のキノコが同時発生したことのようだ。それほど見分けが難しいのであろう。

でも、キノコも品質検査が必要なんて騒いだりすると、役所がほくそ笑むだけだから、気をつけねば(笑)。よく考えると、国民が騒ぐごとに、役所は次々と仕事を作ってきた。後で、考えれば、役所が、かむも必要もなく、民間で十分対応できると、わかる。やはり国民も、騒ぐ前に、一呼吸入れる必要があろう。

さて、キノコ狩りの経験は、遥か昔、知り合いのおじさんに連れられて、山で松茸の採取に挑戦したような記憶が。随分小さかった時のことなので、記憶も曖昧。採れなかったことだけは確かだ。それ以外の経験はない。庭に、毎年ではないが、時々生える変なキノコは多分、毒茸だろう。

食するのは干しシイタケが多く、生シイタケは水炊きする時ぐらい。父も生シイタケは嫌っていた。特に古くなった生シイタケは怖いとよく言っていた。流風も、買って、すぐ消費し、のできるだけ残さないようにしている。それに健康には、干しシイタケが良いことがはっきりしている。

さて、狂言にも、『茸(くさびら)』というものがある。これは、屋敷の中に奇妙なキノコが生えるので、山伏にキノコ退治を頼むところから始まる。大体、卜筮や祈祷に頼るのは、間違っている。『呂氏春秋』にも、これらは沸騰するお湯に熱湯を注ぐようなものとしている。

果たして、山伏が祈祷したところ、却って、キノコは増殖し、屋敷は、キノコだらけ。ついには、山伏はキノコに追いかけられて、逃げ出してしまう。祈祷などに頼らず、自分で、キノコを処分していたらよかったのに、祈祷絡みで、却って、キノコに最適の生育環境が良くなり、増殖したのだろう。

こういうことは、一般にも、よくあることだ。大した病気でもないのに、医療機関に診てもらって、薬を処方され、本当の病気になったりする。医療側は、患者が悪いと思っているのだから、病気を無理やり探し出して、処方するのも仕方ない。

また、女性の方々も、占いなどで、占い師に変なことを言われて、へこむより、考え方や行動をかえて、自らを改めれば、新しい未来が待ち受けていると思うよ。男は、総じて、そんなものは信じないが、違ったところで、そういうことをしているかもしれない。

結論としては、火は小さい間に自分で消す、ということかもしれない。他者に相談する時間があれば、問題が大きくならないうちに、自分で先にやった方がいいということ。それは自分を信じよということかもしれない。キノコ狩りの話の予定が、オチもなく、また大きく脱線してしまった(笑)。お許しを。

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2010年10月28日 (木)

栗の話

急に寒くなってきた。この夏は、大変暑かったし、つい先日までは、本当に秋は来るのかと、暑い、暑いと言っていたのが嘘のようだ。日本の世論と同様、極端から極端に流れるのは、季節も国民に似るのか(苦笑)。困ったものです。

でも、秋は食欲の季節。果物も高かったけれども、少し安定してきた。やはり買える値段というものがある。やっと秋の果物を楽しめる。またお米は、酷暑の影響で、出来が悪いとのことだが、少し前から食している新米は、やはり美味しい。確かに、白いものが多いようたけれど、味には、そんなに影響がないようだ。無理して昨年の米を求めることもないだろう。

さて、最近、栗が目につきだした。スーパーや百貨店の食料品売り場に並んでいる。美味しそうだ。子どもの頃は、おやつとして、母が蒸してくれたものを、虫食いを除きながら、手を汚して、食したものだ。栗は、一年中ないから、秋になるのが待ち遠しかった。

最近は、剥き栗(但し、日本の栗ではなくて、天津栗と思われる)なんて置いてある。確かに天津焼き栗は、くるっときれいに剥けるけれど、手は汚れる。それを嫌う人たちのために、そういう需要もあるだろう。

だが、子どもたちには、日本の栗にしろ、天津栗にしろ、自分で剥かせるのがいいと思う。確かに母の蒸し栗(日本の栗)は、なかなか簡単には剥けなかった。結局、包丁で二つに切って、スプーンで実を難儀しながら、すくい取っていた。その時の親子の会話や楽しさは残る。今では、楽しい記憶だ。

さて、狂言にも、『栗焼』というものがある。主人が丹波の伯父から、もらってきた40個の栗(*注)を、客が来るから、太郎冠者に焼いておけと命ずるが、美味しそうなので、すべて食べてしまい、いい訳で、てんやわんやする話。

焼き栗は、したことがないのだが、はじけるのを防ぐため、切り込みを入れる。平らな面を下に置いて、上から包丁で切り込みを入れるらしい。やってみようかな。オープントースターでもできるようだし。

また栗ご飯もいい。栗きんとんもいい。自分では作れないが、マロングラッセ、ケーキのモンブランや栗饅頭もいい。甘党の流風には、子どもの頃から、うれしい季節だ。

*注

なぜ40個なのかは、「始終いい関係」のシャレらしい。

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2010年10月27日 (水)

不成功の原因

カーネギーが不成功の三つの原因を指摘している。今回は解説は加えない。

 一、過度の飲酒

 二、投機

 三、他人のための裏書き(いわゆる保証)

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2010年10月26日 (火)

自然災害の場合の家の補償

奄美大島の水害は百年に一回という大災害のようだが、日本は本当に自然災害が多い。国が、いろんな整備をしても、災害は、それを超える。どんなに風水害予防をしても防げないのかもしれない。それに経済的な費用対効果を考えると、限界がある。

よって、事後に対応できる準備が必要だ。日本には、いろんな災害補償制度がある。農畜産業に対しては、農業災害補償制度があるから、ある程度はカバーできる。そのほかにも、いろんな補償制度がある。ただ、家とか、家財に被害を受けると、それを助けてくれる制度は、まだ不十分であろう。

確かに、国の制度としては、被災者生活再建支援制度があるが、これは家が全壊した時に、100万円支払われるだけだ(条件により、建築した場合、加算金200万円の支援金が追加されることもある)。これだけだと、家の再建は無理。ただ、国の予算には限界がある。

もちろん、個人で、保険に加入していれば、ある程度カバーできるだろうが、それも加入条件で制約がある。保険料も安くはない。個々人の経済状態で、加入できたり、できなかったりする。

ところが、兵庫県では、以前にも記したが、他県から、羨まれる、兵庫県住宅再建共済制度(フェニックス共済、運営は公益財団法人 兵庫県住宅再建共済基金)がある。これだと年5000円の掛け金で、被災とすると、市町村が発行する罹災証明書があれば、県内に再建を条件に、最大600万円給付される。

もちろん、これでも十分ではないが、いろんな補償を組み合わせれば、再建が可能だろう。昨年の兵庫県佐用町の水害でも、この制度に加入してる家と、そうでない家では、生活再建の進み方が大きく違ったようだ。

確かに災害は、いつ起こるかわからない。ずっと起こらないかもしれない。でも、いざという時のために備えは必要だ。5000円をけちって、生活再建できないより、将来のことを考えて、負担しておくことは無駄ではないだろう。全国で、この制度が普及することを望みたい。

*追記

ただ、都市部で被害を受けると、住宅再建共済制度だけでは、再建は難しい。やはり火災保険等への加入は求められる。

*追記

最近では、床上浸水以上の被害を受けた場合のために、「家財再建共済制度」も作られた。年額1500円の負担で、新たに購入を条件に、家財が最大50万円まで給付される。これは県内に住んでいれば、賃貸、借家でも、加入できる。

*平成26年8月24日追記

更に、「一部損壊特約」という仕組みもできた。「住宅再建共済制度」に加入すれば、「、「一部損壊特約」に年額500円の負担で、補償時等に、罹災証明の認定があれば、25万円給付される。

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2010年10月25日 (月)

専門的な言葉

落語「にゅう」というものがある。ただし、あまり上演されない。有名な金持ちの茶人から、道具屋に、度々迎えの者がよこされるので、店主は代理に、与太郎をやって、言葉の取り違えをやって、てんやわんやする筋だ。

茶道の専門用語は、一般人にわかりにくい。心得がなくては、その面白みもわからない。高座で説明すれば、すぐわかるものでもない。茶碗の評価も、一般人にはわかりにくいものだ。落語の作品としては、イマイチかもしれない。

ところで、骨董屋や陶磁器の世界では、割れが入ることを、「にゅうが入る」と言うらしい。落語の演題は、ここから来ている。流風は、この分野には、疎いので、以下、間違った解釈になるかもしれないことをお断りしておく。

さて、その「にゅう」を「入」と理解すれぱ、「入が入る」となり、どうも変な言葉になる。実は、「にゅう」とは「乳」が正解らしい。つまり「乳が入る」。では、「乳」とは何なのか。どうも釉薬(うわぐすり)の表面に現れた細かいひびを指すようだ。

これを「貫乳」とも言うらしい。それなら、「乳を貫く」とは、ひびを貫くというような意味かなと勘違いしそうで、少し変。「貫く」という文字にも違和感がある。まあ、「はしからはしまで」という意味なら通用する場合もあるかもしれない。とまれ、鑑賞するには重要な意味があるらしい。更に、それを「貫入」と表現したりするから、もう理解不能。

一般的には、傷や割れがあれば、傷物としてして扱われるだろうが、芸術の分野や茶道の分野では、わざとひびを入れたりして喜んでいる人々がいる。それは表現の一つになっていることは、わからぬでもない。でも、用語の使い方が、・・・。

このように専門用語を使うことは、一般向けには、あまり宜しくない。業界人、あるいは知識人や趣味人が、得意そうに一般人に業界用語を使うのも勧められない。そういう言葉は、同じ仲間同士の符丁に過ぎないことを弁える必要がある。

心得のない者に、それを使えば、相手は混乱するだけだ。この落語のように、与太郎が変なことを言ったり、したりして、笑い物にすればいいというものでもない。そもそも、道具屋の店主が頭のたりない与太郎を代理人として送ったのが間違いだが、専門的な言葉の使い方には注意が必要だ。

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2010年10月22日 (金)

ノグチ・イサムの母~映画 『レオニー』

  お母さん、私はこの子を連れて、日本という国に行きます。

                       (映画『レオニー』の広告の謳い文句)

ノグチ・イサムというと、彫刻家で有名だが、昔、鑑賞に行ったように思うが、よくわからなかったイメージが強い。天才の創作するものは、凡人にはなかなか理解し難い。その後、しばらくして見た彼のデザインによる提灯は、割と良かったと思う。

実は、彼が混血とは知っていたが、どういう事情だったのかは知らなかった。それを映画にしたものが、映画『レオニー』らしい。今年11月20日封切だ。レオニーとは、ノグチ・イサムの母で、米国人のレオニー・ギルモアのこと。彼女は戦前、ニューヨークで、一人の日本人青年と恋に落ち、戦争を挟んで、波乱万丈の人生がスタートする。

戦争というものに妨害される二人の愛。そして、妊娠、シングルマザー。彼女は来日するが、最早、敵国の女性。居づらい立場。そこで彼女は、二つの国の中で、どういう生き方を選択したのか。子どもをどのように教育したのか。そういうことを描いた映画のようだ。

これ以上は、公式サイトを見ても、あらすじはわからないけれど、大体のことはわかるような気がする。彼女は運命をどう受け止めたのかは興味深い。昔から、戦争がらみの悲劇を描いた映画はヒットする。追いつめられた人間の選択には、共鳴する何かを感じ取るからだろう。

松井久子監督作品。一般に、女性監督の映画は、あまり鑑賞しないけれど、今回は是非、映画館に足を運んでみたい。

*参考

   映画『レオニー』公式サイト http://www.leoniethemovie.com/

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2010年10月21日 (木)

藤田東湖の『夜坐』

   泰平の眠りを覚ます上喜撰

   たった四杯で夜も眠れず

              (狂歌)

この狂歌は大変有名で、教科書にも載っていた。「上喜撰」は当時有名な玉露の銘柄らしいが、どのような味だったのだろう。そうかといって、夜、緑茶を四杯も飲むと眠れなくなる。

もちろん、ここでは「上喜撰」は、米国からペリーが率いてやって来た黒船四隻を「蒸気船」に掛けている。世間では、上から下まで、そのことで持ちきりで、夜もおちおち眠れない。誰が作ったのか知らないが、うまい狂歌だ。

さて、今回は、そのような騒がしい時期の幕末の儒者でテロリスト思考の持ち主だった、藤田東湖の詩を取り上げよう。彼は、種々問題のあった水戸藩に仕え、常に藩主の徳川斉昭とともにあった。藩政改革も推進している。尊王攘夷も唱え、徳川斉昭が文書に初めて認(したた)めた。徳川斉昭が無能だったので、それを利用したとも言える。

ただ、やり方が急進的なため、強い反発を招き、藩主と共に不遇の時もあった。その彼の詩の題は、『夜坐(やざ)』。秋の月は美しい。それは澄み切った空が引き立てるのだろう。気分は、気温も影響して、沈思黙考に向いている。室内から月を眺めながら、詠ったものらしい。

  金風颯颯として 群陰を醸し

  玉露溥溥(たんたん)として 万林凋(しぼ)む

  独坐すれば 三更天地静なり

  一輪の名月丹心を照す

金風の金は、五行説で、秋にあたる。よって、秋風のこと。五行説なんて、最近は、あまり聞かないから、理解が難しい。群陰は陰が集まって、寂しい感じ。これは易経の影響か。解釈としては、「秋風が、さっと吹きわたり、寂しい感じを為して、玉のような露が、遍(あまね)く、木々を蓋い、萎んだように見える。一人寂しく端坐すれば、深夜の天地は静かだ。そこに名月が、私の誠心を照らすように輝いている」と。

果たして、どういう心境だったのだろうか。ただ、「玉露」は、狂歌で歌われた意味も含まれているとしたら、若干違う解釈になる。そういう意味にも取れる。もし狂歌の作者が東湖だとしたら。そういう仮説は止めておこう(*注)。

それはそれとして、自分の心は、天地神明に誓って、透き通っていると言いたかったのだろうか。実際、彼に会った人々は、その純粋な心に打たれたらしい。普通、学者らしい生き方は、胸を打つが、処世としては、拙ないものだ。彼がテロを肯定する狂信的な思想の持ち主であったことを忘れてはならない。

世間を見ず、頭で考えたことだけで、無理を通せば、多くの理解は得られにくい。観念論は、確かに聞こえはいいが、急激な改革には、人々の意識は、なかなかついていけない。世の中は、単純ではない。

ところが、東湖に会った人は皆、世間ずれした人々であっても、その純粋性に感化されたらしい。そういう意味では、傑物であったのだろう。もちろん、時代が彼を生んだのかもれしない。当時、日本は喫緊の課題が山積みだった。

彼の思いは、途中で終わってしまったが、彼の意思は、誤って、長州の人々に引き継がれ、テロによるクーデターで明治維新へとつながる。やがて、それは終戦による日本の廃墟という悲惨な結果になる。一人の人間の影響力を感じる。

果たして、東湖の観た月はどのような月だったのだろうか。日本人は、月を心の鏡のように観てきた。月は、今の人々の心にどのように映るのだろうか。東湖の人生の皮肉を知り、月を愛でながら自分自身の心を再確認したいものだ。

*注

ペリーの来航が1853年。東湖は、1855年に亡くなっているがあり得ないことではない。だが、最近、日本橋書店主山城屋佐兵衛が、国学者色川三中に宛てた書簡に記されていることが判明。日付は1853年6月30日付。残念ながら、東湖の作ではないらしい。

*追記

彼の最後は悲惨な亡くなり方だ。安政の大地震の時、一旦、家から逃れたのに、戻ったがために、梁の下敷きになって絶命したという。彼の母親が戻ろうとしたのを追いかけて行き、母を救うために代わりに命を落としたのだ。テロ思考の持ち主らしい悲惨な終わり方と言えようか。あるいは天罰だったのか。享年五十歳。

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2010年10月20日 (水)

菊と慕情

   うゑしうゑば 秋なきときや 咲かざらん

           花こそ散らめ 根さへ枯れめや

             (『古今集』二六八、在原業平)

菊の季節になって来た。各地で、そろそろ菊花展が開かれていることだろう。流風も一か所、見に行ってきたが、まだ満開とは行かないようだ。今年は酷暑の影響で、菊の成長が遅れている。でも、もう少しすれば、大輪の花を咲かせるのだろう。

流風は小菊しか植えていないが、あまり手入れをせずとも、毎年、この時期になると花を咲かせる。そういう意味では強い植物だ。来年あたりは、大きい菊にも挑戦してみようかなと思っている。難しいらしいけれど。

さて、先に挙げたも業平の歌は、二条の后、すなわち清和天皇の后の藤原高子に要望されて、菊を献上した時に、付けたものらしい。まだ彼女が后になる前に、恋人だった業平との関係は、その後も、お互い未練があるから複雑だ。危ない、危ない(笑)。果たして、彼女が后になって以後も、関係が続いていたのかは不明。ただ、そういう雰囲気は漂っている。

歌の意は、「ご要望の菊の花を植えました。秋の無い時は咲かないかもしれませんが、そういうことはなく、多分、毎年咲くでしょう。そして、咲いた花は散るでしょうが、根が枯れずに残っていたなら、また咲くでしょう」という感じ。

これは后が冷たくしないで、と言ったのに対応したのだろうか。そして、業平の方も未練がいっぱい。歌に託して、あなたへの想いは変わりません、と抑制された慕情を伝えている。ちょっと、うじうじ系(笑)。また当時の皇族は、異性関係が乱れていたとも言われる。天皇に連なる人は、やりたい放題のイメージがある。

まあ、それでも、歌を鑑賞する限りは、気持ちを抑制している。でも、昔、関係があった男女は、あまり近付かない方がよろしい。焼けぼっくいに火がつきかねない。君子危うきに近寄らずだ。どうも、菊の歌として取り上げたはずが、変な方向に。ご勘弁を。

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2010年10月19日 (火)

秋の酒に酔う~漢詩『酔後』

涼しくなって、食べ物が美味しい季節だ。やはり鍋物がいい。先日は、久しぶりにおでんを作った。子ども時代は、「関東煮(かんとうだき)」と言っていたように思う。関西は、すでに味がついているので、そのまま頂けるが、前にも記したが、三つのやり方で食する。

まず一般的な、辛子につける食べ方。次に、酢味噌につけるやり方。三つ目は、生姜醤油につけるやり方。三つ目は、最近、B級グルメで、浸透してきたようだ。どれも美味しい。未だ味わったことがない方は、是非試してみてもらいたい。

そして、おでんと言うと、お酒がつきもの。やはり日本酒の燗がいい。これだと、本当に温まる。流風の飲む日本酒は、地酒のあまり高くない物。でも美味しいよ。そんなに飲めないけれど。

さて、内容は全然違うが、秋の酒ということで、漢詩を一つ挙げておこう。酒を飲んだ後で作詩したようだ。作者は劉商。唐の詩人だ。詳しいことは知らない。題は、そのものずばり、『酔後』。

  春草 秋風 此の身を老す

  一瓢長く酔いて家の貧しきに任す

  醒め来って還って愛す

  官河に漂寄すれども人に属せず

意味は次のようだろうか。「春の草が秋風と共に枯れていくように、私も寄る年波には勝てず、老いを日々感じている。安い酒を少しだけをゆっくりかけて飲んで、家の貧しさを、紛らわしている。酒が醒めて、却って愛すのは浮き草だ。それはちょうど私のようだ。役所の周りに水が流れる掘割に近付いて浮かんではいても、適当な距離を置いて、独立独歩、彼らの差配は受けぬと決めている」と。

これは何を語っているのだろうか。日本の定年退職者が、組織から外れて寂しいと思うのとは違うようだ。確かに寂しい面もあるが自由な面もあるだろう。むしろ、第二の人生として、新しいことに挑戦した方がいいとも言える。

だが、結局、また仕事を始めてしまう人々がいる。それが生きがいだといえば、確かにそうだが、違った観点から、仕事を見つめたいものだ。現役時代の続きのような仕事では、空しいだけだろう。改めて自分の存在価値を確認したいものだ。自らの経験をいかを伝えていくか、そういうことが大切ではなかろうか。

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2010年10月17日 (日)

田舎暮らしの流れ

田舎暮らしへの移動が進んでいるようだ。テレビでも、そのような番組があるが、これらの人々は特殊なケースと思っていたが、案外、そうでもないらしい。自然の中で暮らしたいと思うのは人間の本能なのかもしれない。流風は、必ずしも田舎暮らしとも言えないが、比較的近くに田舎がある。そういうタイプの移動も含めれば、今後この流れは変わらないのではないか。

一応、田舎暮らしには、二つの流れがある。男は現役を引退し、第二の人生として、新天地として田舎暮らしを望んだ人々が多い。今までの仕事をやっと離れて、やれやれと思うのと、今までやりたかったことをやりたいという考えがある。パートナーの妻の方は、今住んでいるところで人間関係ができているから、嫌がるケースが多いが、移住すると、逆に女性独特のフットワークで、新しい人間関係を築いていくようだ。

もう一つは、若い人の移動だ。リターン組や新規就農の場合もあるが、それだけでもなさそうだ。都市でストレスを抱え、低所得でも、田舎暮らしを希望する人もいるようだ。またアーティストなどには、兼業をすれば、むしろ向いている。地域に溶け込み、工夫をすれば、食べるだけなら可能だ。

もちろん、若い人の場合、地域全体が若い人を望んでいることもある。その場合は、仕事をあてがうことも条件になってくる。地域には、所得は低いかもしれないが、それなりに必要とする仕事がある。家賃が安ければ、案外、生活が可能なのだ。

両者に共通するのは、転居するまでに、地域との交流をつなげ、それなりの人間関係を作っていることだろう。また、それまでの仕事や趣味で、何らかの知識や技術がある人が割と地域に溶け込んでいる。それが地域にない新鮮さとして、地域に受け入れられている。

いずれにせよ、地域の担い手が増えることは、地域にとって望ましい。新しい人が来なくなれば、文化は廃れていく。継承していかなければいけない文化もあるので、地方は新しい人を迎えるため、もっといろんな工夫がなされていいはず。まず、住めば都という雰囲気を醸成すべきだろう。

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2010年10月16日 (土)

鉄道オタクのための催し

鉄道ファンを「鉄ちゃん」とか言うそうだが、鉄道を追っかけて写真に収めている人々を見かけることがある。どこがどう楽しいのか、流風には、さっぱりわからないが、そういうことを楽しめる人々は、ある意味、幸せかもしれない。

そのような「鉄ちゃん」向けの催しが開かれている。姫路文学館で、平成22年10月1日から11月28日まで、「鉄道と旅と文学と」という内容だ。なぜ文学館で開催なのか、よくわからないが、実際、見に行くと、文学と言うのはこじつけで、ほとんどが、鉄道マニアのための展示内容に近かった。

彼らには楽しいのだろうが、流風には、皆目分からず、早々に退散。まあ、「鉄ちゃん」の方々は、土日、祝日にいろいろ催しがあるようだから、行ってみてください。一応、ご存じない方に告知のブログと言うことで、今回は、これで終わり。

*参考

姫路文学館 http://www.city.himeji.lg.jp/bungaku/

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商売の間口を考える

昔、中国人の女性(知人の知人)は、笑いながら、次のように言っていた。「日本人は、いつも忙しく働いて成果が出ないと満足しない。でも商売は、いい時もあるし、悪い時もある。私達は、儲かる時は、とことん儲けて、駄目な時は、静かにしている」と。

それが正しいかどうかは別にして、自営業の難しさは、限られた資源と、限られた時間内に、いかに効率よく仕事をするかだろう。そして、別の面では、いかに人間関係を正しく保つかということにも配慮しなければならない。このどちらが欠けても、うまくは行かない。

流風には、とてもできません。いや、できなかった。一時、会社を辞めて、商売の真似ごとをやったが、自分には向いていないとわかった。結局、食べていくのが精一杯だった。サラリーマンをやっていたから、その感覚が抜けきらなかったのが災いしたと思う。

さて、商売をやっていると、顧客の要望に応えるのが顧客満足と称して、取扱商品が増えていったりする。顧客に対して、何でもできますとか言ったりするが、何でもできるとは、何にもできないに通ずる。結局、案外、商売にならないことが多い。

顧客の声は、商売的には、いつも正しいとは言えない。むしろ間口を広げて、取扱品目が多くしてしまうと、在庫のコストも発生し、お金が寝てしまう。それはどんな小さな商いでも、あまりよくないことだ。

確かに、たくさん展示してある店は楽しいが、一般人なら、せいぜい買うのは低額な物で、二、三種類。高額な物なら一種類だろう。業種、業態にもよるが、在庫は、あまり持たないようにすることが大切だ。

商売は、サラリーマンより、人一倍、金銭感覚が鋭くしないと、無駄が発生してしまう。とどのつまり、商売の成功の道は、以前にも記したかもしれないが、一定の需要はあるが、他人が利幅が少なくて、あまりやりたくない分野で、頑張った方がいいと思う。

そして、商売は間口を狭くして、扱い品目を限定して、回転率をよくして商うと、専門性も増し、それなりに事業が、波はあるけれど、成り立つ時がある。商いは、目立たないように確実に儲けるのが賢いやり方なようだ。今、どの商売も大変と思うが、もう一度、需要の再確認と、扱い品目の見直しをされてはどうだろう。

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2010年10月15日 (金)

高い地方議員報酬

地方議員の報酬はなぜ、こんなに高いのだろうか。国会議員も高いとは思うが、仕事の重みは大きく異なるのに、市会議員クラスで、一千万円を超えているところもある。その他に付帯経費を加えれば、かなり高額になる。

もちろん仕事の対価として、それだけの仕事をしていれば、住民も納得がいくが、大した仕事もしていないのに、高額の報酬には納得がいかない。名古屋の市長が報酬半減を言っているが、仕事の内容によっては、それでも高いだろう。

海外の一部にも見られるように、ボランティア議員も必要だろう(議決権も持つ)。地方議員となれば、大半は、それでいのではないか。兼業を認め、仕事の掛け持ちで十分だろう。そう考えれば、現在の仕組みを大幅に変更して、報酬体系を変えればいい。

もちろん専門の議員も、ある程度必要なことは確かだ。ただ地方に職業議員は、それほど必要としないはずだ。それは全体の30%もいれば、やっていけるだろう。彼らには、職業議員報酬を与えればいいが、現在の報酬は高すぎるだろう。

地方の議員の活動の基本は、生活に根ざした住民の声をどれだけ吸い上げるかにある。幅広く住民の声を吸い上げるには、人口割りで、ある程度の議員は必要だが、ボランティア議員を増やして、歳費を大幅に削減させる思考が、地方に求められる。

もちろん、ボランティア議員も、無償とは言わないが、交通費、常識的な日当で処理すればいい。食事代は適宜支給すればいい。更に、議員活動するのに要する一部経費を認めてやればいい。現在のように、既得権になっている高額の報酬及び付帯経費は見直しされて当然と言えよう。

*追記

また地方のボランティア議員は、任期を一期と制限した方がいい。地方によっては、人材の都合がつかない場合のみ、特例で再任を認めればいい。またボランティア議員を選ぶ選挙には、選挙費用も、あまりかからないシステムにする必要があるなど配慮が必要である。

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2010年10月14日 (木)

番組を降ろされた女子アナ

テレビ局は、本当に番組の改編も多く、人の移動も頻繁だ。その割には成果が上がっているようには見えない。番組作りに、確固たる自信がないから、そうなる。第三者からの意見に振り回されて、結局、何も作れない状態が続いている。もちろん、民放の場合、スポンサーの姿勢も問題なのは確かだ。

ところで、某局で、朝の時事番組を担当していた某女性アナ(*注)が、先月いっぱいで降ろされた。理由はわからない。ファンだったので少し残念だ。彼女の外見の雰囲気は、昔、少し好意を抱いた女性に似ている。

彼女の問題は、慣れると調子に乗って、俗に言う「図に乗る」タイプだった(笑)。このアナウンサーが同タイプかはわからないが、ちょっとそんな感じがしないわけでもない。まあ、外見だけではわかりません。どちらも美人なことは確かだけれど。

噂によると、司会者と行き違いがあり、彼女が虎の尾を踏んだとか。誤解されやすいタイプというのも、あの女性と似ているかもしれない。それに流風からすれば、あの司会者は所詮、虎の尾というより、猫の尾に過ぎない。

視聴率を気にして、神経質になって、自分の番組の行く末を心配した結果だろう。彼はフリーだから、小心だ。でも、これで彼の犠牲者は三人目。もう六十六歳なんだから、そんなに焦るなよと言いたい。

まあ、自分の部下でもない生意気盛り(笑)の中堅女性アナを使いこなすのは並大抵ではないのはわかる。それは、どの企業でも、見られる場面だ。管理職でさえ、部下の彼女らには、皆、苦労しているというのはよく聞く話だ。

でも、七十歳近くになる司会者が、彼女らを使いこなせないのは、情けない。降ろす必要があるのは、むしろ彼ではないか。結局、今でも、そんなに視聴することもないけれど、今後、全く視聴しないことにした。

それにニュースの取り上げ方も、朝からバラエティ的で、この局では、あまりいいほうではない。あの司会者の存在で、朝から、緊張感もなく、少し、だらけた感じもする。ただ少し気になる、あの女性アナを、視ることができなくなるのは残念だ。彼女は、今後、ラジオに出演するそうだが、関西では受信できない。それがちょっと残念。早くテレビに復帰して欲しいものだ。

*注

拙ブログにリンクしています。どなたか、わかりますよね。

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2010年10月13日 (水)

成果期待できない法人税減税

管首相が法人税減税を指示した(*注)ようだが、法人税減税をしても、現況、何ら経済的効果を生まないだろう。こんなことより、新産業政策を明確にしてもらいたいものだ。大体、景気が上がっていない時に、減税しても意味はない。景気が加速する場合は、法人税減税も意味を持つが、現状は、何の効果も期待できない。

せいぜい内部留保が厚くなるだけとも言われている。それに減税の原資はどうするのか。政府が急いでやることは、とりわけ、アジアを中心とする新興国市場を含めた新産業政策だ。それが明確でない現在、法人税減税は、無駄な物になるだろう。

本当に、日銀のゼロ金利政策といい、周囲の雑音(円高騒ぎ、デフレ騒ぎ)に捉われて、頓珍漢な政策が多い。それは狭い自領域の仕事に捉われ、国内だけを見て、世界の経済環境や市場環境、経済政策を無視した政策が取られるからだろう。政府も日銀も、不勉強の誹りは免れない。経済をもっと勉強して政策を打ってもらいたい。今のままでは、国のお荷物だ。

*注

誤解のないように注記すると、首相が指示したことは、租税特別措置など税制優遇措置を見直しし、課税範囲を拡大して、最終的に法人税率を下げるというもの。

法人税の原点に戻って、理屈は正しいが、実施は容易ではない。租税特別措置や優遇税制が既得権になっている業界は、猛反対するだろう。経団連は、真っ先に反対している。

いずれ、このことに挑戦するとしても、実行するには、経団連のような圧力団体を解散に追い込むような、かなりの覚悟がいるだろう。しかし、経団連は、国のことを考えず、自己保全に必死で、国民的に見ても、その存在価値に疑問は残る。

また経済同友会も日本経団連と同様の意見なのは大変残念だ。海外戦略上、ライバル国との競争や、国内への海外からの投資を増やすためとするが、大変怪しい意見だ。法人税を下げても、彼らの思惑通りにはならないだろう。

もちろん、海外市場を含めた新産業政策が望まれるのは確かだ。それ抜きで、法人税減税論議をしても、全く意味はない。それに各業界が抱えている問題は異なるので、一律の法人減税に意味があるとも思えない。経済団体のトップの方々の考え方は、概ね、限られた産業に対する我田引水的な偏狭なものと言える。とても全産業を見渡したものとは、言えない。

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天寿を全うするということ

寿命というものは誰にもわからないものらしい。業平も、辞世の歌として、次のように詠んでいる。

  ついにゆく 道とはかねて 聞きしかど

         昨日今日とは 思はざりしを

                 (『古今集』八六一より)

ところが、余命を宣告されて、愕然とする人も多いが、それ以上に生きる人も多い。寿命は、ある程度、個人の意識で延長されるようだ。

さて、昔から、寿命について、その不思議さを記した書物は多いが、今回は、『呂氏春秋』の中から、少し取り上げてみよう。

まず、「長ずるとは、短くして之を続ぐに非ず、その数を畢(つ)くすなり」と記してある。

「数を畢(つ)くす」とは、天寿を全うするの意。よって、命とは、短いものを継ぎ足して長くするのではなく、天寿を全うさせることである、という意味。しかし、その天寿がわからないから、困るのだ。あらかじめ、命の長さがわかっておれば、それなりの過ごし方もできよう。では、わからないのであれば、どうするべきか。

続けて、「数を畢(つ)くすの務めは、害を去るに在り」とある。

すなわち、天寿がわからないのだから、全うするためには、害を取り除くしかない、と。確かに、健康を害するようなことを、まず避ける必要はある。

そして、「何をか害を去ると謂う。大甘・大酸・大苦・大辛・大鹹(かん)、五者形に充つれば則ち生に害あり」と。

これは、甘さの強い物、酸っぱさの強い物、強い苦さの物、強い辛さの物、あまりにも塩辛い物を摂取し続け、身体に満ちれば、生命は害されると説いている。当然のことと思うが、現代人は、興味本位で、刺激を求めて、これらの物を食したりしている。そして、知らず知らず身体を蝕んでいる。そういう認識がないことが怖い。

次に、「大喜・大怒・大憂・大恐・大哀、五者神に接すれば、則ち生に害あり」と説く。

これによると、喜び過ぎるのもいけないようだ。後は、わかりますね。大きな怒りは、毒を発生して命を縮めると言われている。大きな心配事も、大きな恐怖心も、大きな哀しみも身体にはよくない。何事もほどほどが宜しい。あまり情に流されないようにしないと、身体にはよくない。ケセラセラが大切。

同様に、「大寒・大熱・大燥・大●(*注)・大風・大霖・大霧、七者精を動かせば、則ち生に害あり」と、続く。

すなわち、ひどい寒さ、酷暑、乾燥しすぎ、湿度が高すぎ、強い風、長雨、長い霧は、人の精気をかき回せば、寿命に影響する。どれに於いても、適度が求められる。そうなると、どこに住むかも大切な要素だ。

そして、結論として、「故に凡そ養生は、本を知るに若くはなく、本を知らば、則ち、疾由りて至るなし」と言う。

養生は、このように、その本質を弁えることが大切で、本質を押さえておけば、病気になることを防げると言っている。まあ、当たり前のことを当たり前に、身体を異常に刺激しないことがいいようだ。やはり適度とか、適切という言葉が生きてくる。

*注 

さんずい偏に、一に糸の上の部分二つ並べて、土。意味は高い湿度を指すらしい。

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2010年10月12日 (火)

『フィギュアの系譜(土偶から海洋堂まで)』展、鑑賞

兵庫県立歴史博物館で開催されている『フィギュアの系譜(土偶から海洋堂まで)』を鑑賞してきた。同種の催しは、この博物館で、今年初め、『ミニチュアの世界~小林礫斎と手のひらの宇宙』展がある。拙ブログでも、「日本のミニチュア文化」として、取り上げた。

今回の展覧会も、その流れを汲む物と思う。それは、この催しが、同様に、京都国際マンガミュージアムと連携していることからもわかり、先に、このミュージアムで開催されたようだ。

この展覧会は、フィギュアオタクには堪らないものだろう。ミニチュア、フィギュア、食玩の収集家として知られている森永卓郎氏には、是非鑑賞して、評論して欲しいものだ。すでに京都で鑑賞しているかもしれないが。

流風は、残念ながら、フィギュアの分野には疎い。それにフィギュアに限らず、収集癖はない。それを収集するオタクがいるのには、若干違和感を覚える。流風には、それが何が楽しいのか、全くわからないが、基本的に「集める」ということに快感を覚える人たちがいるのだろう。

オタクは昔からいるのかもしれない。ちょっと侘しい感じもしないではないが、人の趣味は、人それぞれ。否定することもできない。これらの収集は、お金と時間の無駄遣いのように見えるが、当人たちにとっては有効な趣味なのだろう。更に、時を経て、文化が形成されることもあるのだから、あながち収集行為を咎めることもできない。

さて、そのフィギュアだが、解説によると、土偶を初めてとして、昔のフィギュアは、呪術や信仰の対象で、神聖なものであったが、明治以後のフィギュアは、そういうものは一切なく、単なる愛玩とか収集の対象でしかないという。

前近代は、土偶・埴輪、ひとがた、もフィギュアの一種という。その後、土偶・埴輪は土人形や張子に発展し、ひとがたは木製人形になる。これらは宗教性を帯び、信仰の対象だ。

これらが発生した原因としては、多分、自分を存在せしめているものに対する怖れがあったからではないかと思う。人は、暗黒時代から、見えない恐怖と常に戦ってきたことから発したものといえる。それは心を映し出したものとも言えるが、わからないものに対する宗教性を帯びるようになる。そして、それを造形にした物が、前近代のものなのだろう。

ところが、近代以後は、徐々にそういう怖れが薄れ、単にモノとして扱うようになり、収集するという行為が生じたと解説されていた。ある意味、心の扱いが軽くなったのかもしれない。それは人間を存在せしめている何かに対する畏敬の念が薄れたということも言える。

よって、収集や愛玩の対象になった物は、所詮、モノとして消える運命にあるのかもしれない。キャラクター大流行りの時代だが、一面では、社会も軽くなっているのだろう。物事を深く考えず、流されていくというのは、あまり宜しくない現象だ。そういう意味では、この展覧会は、主催者の意図とは異なるだろうが、時代への警鐘と受け取れる。

*参考

  兵庫県立歴史博物館 

  http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/

 海洋堂 http://www.kaiyodo.co.jp/

 海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館

              http://www.ryuyukan.net/

 

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2010年10月11日 (月)

体育の日から教育のあり方を考える

今年は、本日の10月11日が体育の日だ。以前は、10月10日と決まっており、わかりやすかったが、最近は年によって日にちが変わるので、わかりにくい。よって、その意義もぼやけてくる。大人の都合で変更したのだろうが、あまり宜しくない。

体育と言うと、学生時代は体育の時間があった。運動音痴の流風は、嫌で嫌で仕方なかった。特に皆と合わせて、同じ運動をするのが苦手だった。それは単に協調性がないということではない。基本的に音感の悪い流風には、あれは重荷だった。

日本式教育は、皆に同じことをさせるが、それも何らかの意味があるのだろうが、できない人間には辛いことだ。もちろん、生徒の中から、一部のエリート(総合事務職向き)を見つけ出すには、いい方法だ。

だが、そういうエリート以外の生徒にも、得手、不得手がある。得手の部分を伸ばす教育がいいと思うが、どうしても平均的な能力を求められる。そのため、不得手なことにも、努力を要求される。努力して改善されるのなら、まだましだが、一向によくならない科目もある。

そうすると、不得手なことに無駄に時間を取られ、得意なことにも、自信を無くしてしまう。結局、得手なことも伸ばすことができなくなる。それでは、何のための教育か、わからない。結果的には、角を矯めて牛を殺す、ということになりかねない。

最近の教育については、よく知らないが、こういうことがずっと続いているとしたら、あまり良くないだろう。確かに、学校生活に於いて、基本的な知識を身につけておくことは、社会人になって、あるいは引退してから、役に立つこともあるだろう。

ただ成績評価は、中学生以降は、教師と適性を相談して、本人の選択した科目について、評価した方がいいのではないか。もちろん、評価はされないけれども、選択科目以外の授業も受けることができるシステムにすればいい。本人の長所、特性を活かす教育を望みたいものだ。

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2010年10月10日 (日)

海底地下資源開発は禁止を

メキシコ湾の原油流出(約七億八千万リットル流出)は大変事故だったが、生態系への影響が懸念される。海底地下資源の開発は、多かれ少なかれ、海洋資源に悪影響を与えるが、今回のような未曾有の事故が起こると、海底地下資源の開発を禁止すべき方向で検討されるべきだろう。

そもそも、海は世界につながっており、事故を起こした国への影響に止まらない。米国でも、「米国史上、最悪の環境災害」とオバマ大統領も認識しているようだが、このようなことは、今後、世界のどの地域でも、起こりうることである。

中国のように、資源であれば、どこでも何でも、しゃかりきに掘り返すというのは、世界で見ると危険な行為であるだろう。放置すれば、メキシコ湾のような事態になりかねない。そんなことになれば、海洋資源は、大変なことになる。

各国が資源の確保に必死になるのは、わかるが、長期的に見た場合、人類に必ずしもプラスにならないと考えれば、海底地下資源開発について、国際的に、何らかの制限を課すべきだろう。それはむしろ禁止にした方がいい。

それに海底資源開発は、コスト面でも多分合わないから、非経済的行為であるのも確かであろう。技術的には進化するかもしれないが、最近、騒がしい生物多様性と言う観点から見ても、海底地下資源開発について、世界の共通認識として、禁止が望ましい。

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2010年10月 9日 (土)

戦国時代の人使いから

戦国大名の朝倉家を支えた朝倉教景は、亡くなる数年前に『朝倉宗滴話記』を記した。その中で、戦国の人使いのうまい者として、七名挙げている。その七名とは、今川義元、武田晴信(信玄)、三好修理大夫(長慶)、長尾輝虎(謙信)、毛利元就、織田信長、正木大膳亮だ。

彼は朝倉家のライバルたちをよく観察したのだろう。彼は、朝倉家に将来、危機を及ぼすライバルを知っていた。彼らは、それぞれに人使いがうまく、結局、それが彼らを成功に導いている。敏景も、そのことをひしひしと感じていたのだろう。

朝倉家の将来に一抹の不安を感じていたのかもしれない。他家に比べて、人材の使い方に危うさを感じていたのかもしれない。その予見は当たり、彼の死後、朝倉家は、信長に滅ぼされる。

朝倉家に、何が欠けていたのか。残念ながら浅学な流風にはわからない。ただ言えることは、人を使うには、きちんとした組織と、それを運営する仕組みが必要だ。人事は、その中で重要な意味を持つ。こういうシステムを作ることが、中途半端では成功は覚束ない。

また、俗に女たらしというのがいるが、人たらしというのもいる。人たらしは、人間が好きだから、女たらしに通ずるものがあるかもしれない。彼らの発する言葉は心地よいので、ついつい騙されてしまう。あるいは同意させられてしまう。

日本で有名なのは、豊臣秀吉だ。彼は長い間、下積みの時代があるから、人の機微に通じていた。相手の心の動きに合わせて、気持ちのよい言葉を発していたから、皆、気持ちがいい。その結果、彼の意見に最終的に同じる。それゆえ、人たらしと言われたのであろう。

以上のことから見えることは、今でもそうだが、最終的に、事業は人だということ。それには、人を動かすには、システム(組織と運営)に加えて、人の情を加えれば、大業が成るということだろう。人を使うというのは、あるゆる組織で、もっと真剣に考えられていいはずだ。

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2010年10月 6日 (水)

沢庵禅師の歌

沢庵禅師の道歌に、次のようなものがある。

  心こそ、心惑わす、心なれ

  心に心、心許すな。

心を六つも詠み込んでいる。人間は、弱いものだから、少し、けつまずいただけで、自信を失ったりする。そして、ちょっしたことで、自信過剰になったりする。しっかり自分を見失わないようにしなければならない。自制心で、自分をコントロールするということは大切と説いているのだろう。

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2010年10月 3日 (日)

初来日した女優

最近、有名な海外女優で、口の大きい人が来日していた。笑うと、人を呑み込みそうな口を開けて笑って豪快だ。一般に大口の女性は、収入も多く、支出も多いとされる。彼女も、そうだろう。彼女の名前は、ジュリア・ロバーツ。初来日で、映画『食べて、祈って、恋をして』のプロモーションにやって来たようだ。

一応、ファンだけれど、実を言うと、彼女の映画は、そんなに観ていないと思う。映画の題名もあまり思い出せない。『プリティー・ウーマン』は有名だけど。コールガールと実業家の恋。日本も、娼婦との恋を扱った物語は昔から多いが、大体、悲恋が多い。海外の映画は、ハッピーエンドが多いようだ。

先日、テレビ放送していた、オードリー・ヘップバーン主演の『ティファニーで朝食を』も、そうだろう。『プリティー・ウーマン』も、シンデレラ・ストーリーだから、ハッピーエンド。確かに観ていて楽しいのは、ハッピーエンドかもしれない。

もう一つは、『ノッティングヒルの恋人』。。これは最近でも、テレビで放送していたようだ。これも少しあり得ないラブ・コメ。ハリウッド女優と英国の下町の冴えない本屋の主人の恋だからだ。だから面白い。ラブコメは、結構、好きな人が多いようだ。皆、夢を一瞬でも見たいしね。この映画音楽、エルヴィス・コステロの『She』も、よかった。

売り込みに来た映画は、女性向けのようだし、ちょっとね。ただ女性の感性を探るにはいいかも。食(イタリア)、宗教(インド)、恋(バリ)。いずれも女性は関心が強いのだろうか。何事も、ほどほどがいいと思うよ。それはそれとして、あの大口女優を観に映画館に行こうか迷っている。

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2010年10月 1日 (金)

政宗の五訓

伊達政宗は、次のような有名な五訓を残している。

  仁にすぐれば弱くなる。

  義にすぐれば固くなる。

  礼にすぐれば諂(へつらい)となる。

  智にすぐれば嘘をつく。

  信にすぐれば損をする。

すなわち、孔子の説いた「仁義礼智信」について、理想は大切だが、現実的な対応として、その危うさを指摘したものだ。国の外交でも、個人にも当てはまることであろう。これらをよく理解して、世渡りすることは、適切と感じる。

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