« 菊と慕情 | トップページ | ノグチ・イサムの母~映画 『レオニー』 »

2010年10月21日 (木)

藤田東湖の『夜坐』

   泰平の眠りを覚ます上喜撰

   たった四杯で夜も眠れず

              (狂歌)

この狂歌は大変有名で、教科書にも載っていた。「上喜撰」は当時有名な玉露の銘柄らしいが、どのような味だったのだろう。そうかといって、夜、緑茶を四杯も飲むと眠れなくなる。

もちろん、ここでは「上喜撰」は、米国からペリーが率いてやって来た黒船四隻を「蒸気船」に掛けている。世間では、上から下まで、そのことで持ちきりで、夜もおちおち眠れない。誰が作ったのか知らないが、うまい狂歌だ。

さて、今回は、そのような騒がしい時期の幕末の儒者でテロリスト思考の持ち主だった、藤田東湖の詩を取り上げよう。彼は、種々問題のあった水戸藩に仕え、常に藩主の徳川斉昭とともにあった。藩政改革も推進している。尊王攘夷も唱え、徳川斉昭が文書に初めて認(したた)めた。徳川斉昭が無能だったので、それを利用したとも言える。

ただ、やり方が急進的なため、強い反発を招き、藩主と共に不遇の時もあった。その彼の詩の題は、『夜坐(やざ)』。秋の月は美しい。それは澄み切った空が引き立てるのだろう。気分は、気温も影響して、沈思黙考に向いている。室内から月を眺めながら、詠ったものらしい。

  金風颯颯として 群陰を醸し

  玉露溥溥(たんたん)として 万林凋(しぼ)む

  独坐すれば 三更天地静なり

  一輪の名月丹心を照す

金風の金は、五行説で、秋にあたる。よって、秋風のこと。五行説なんて、最近は、あまり聞かないから、理解が難しい。群陰は陰が集まって、寂しい感じ。これは易経の影響か。解釈としては、「秋風が、さっと吹きわたり、寂しい感じを為して、玉のような露が、遍(あまね)く、木々を蓋い、萎んだように見える。一人寂しく端坐すれば、深夜の天地は静かだ。そこに名月が、私の誠心を照らすように輝いている」と。

果たして、どういう心境だったのだろうか。ただ、「玉露」は、狂歌で歌われた意味も含まれているとしたら、若干違う解釈になる。そういう意味にも取れる。もし狂歌の作者が東湖だとしたら。そういう仮説は止めておこう(*注)。

それはそれとして、自分の心は、天地神明に誓って、透き通っていると言いたかったのだろうか。実際、彼に会った人々は、その純粋な心に打たれたらしい。普通、学者らしい生き方は、胸を打つが、処世としては、拙ないものだ。彼がテロを肯定する狂信的な思想の持ち主であったことを忘れてはならない。

世間を見ず、頭で考えたことだけで、無理を通せば、多くの理解は得られにくい。観念論は、確かに聞こえはいいが、急激な改革には、人々の意識は、なかなかついていけない。世の中は、単純ではない。

ところが、東湖に会った人は皆、世間ずれした人々であっても、その純粋性に感化されたらしい。そういう意味では、傑物であったのだろう。もちろん、時代が彼を生んだのかもれしない。当時、日本は喫緊の課題が山積みだった。

彼の思いは、途中で終わってしまったが、彼の意思は、誤って、長州の人々に引き継がれ、テロによるクーデターで明治維新へとつながる。やがて、それは終戦による日本の廃墟という悲惨な結果になる。一人の人間の影響力を感じる。

果たして、東湖の観た月はどのような月だったのだろうか。日本人は、月を心の鏡のように観てきた。月は、今の人々の心にどのように映るのだろうか。東湖の人生の皮肉を知り、月を愛でながら自分自身の心を再確認したいものだ。

*注

ペリーの来航が1853年。東湖は、1855年に亡くなっているがあり得ないことではない。だが、最近、日本橋書店主山城屋佐兵衛が、国学者色川三中に宛てた書簡に記されていることが判明。日付は1853年6月30日付。残念ながら、東湖の作ではないらしい。

*追記

彼の最後は悲惨な亡くなり方だ。安政の大地震の時、一旦、家から逃れたのに、戻ったがために、梁の下敷きになって絶命したという。彼の母親が戻ろうとしたのを追いかけて行き、母を救うために代わりに命を落としたのだ。テロ思考の持ち主らしい悲惨な終わり方と言えようか。あるいは天罰だったのか。享年五十歳。

|

« 菊と慕情 | トップページ | ノグチ・イサムの母~映画 『レオニー』 »

古典文学・演芸」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 菊と慕情 | トップページ | ノグチ・イサムの母~映画 『レオニー』 »