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2010年10月12日 (火)

『フィギュアの系譜(土偶から海洋堂まで)』展、鑑賞

兵庫県立歴史博物館で開催されている『フィギュアの系譜(土偶から海洋堂まで)』を鑑賞してきた。同種の催しは、この博物館で、今年初め、『ミニチュアの世界~小林礫斎と手のひらの宇宙』展がある。拙ブログでも、「日本のミニチュア文化」として、取り上げた。

今回の展覧会も、その流れを汲む物と思う。それは、この催しが、同様に、京都国際マンガミュージアムと連携していることからもわかり、先に、このミュージアムで開催されたようだ。

この展覧会は、フィギュアオタクには堪らないものだろう。ミニチュア、フィギュア、食玩の収集家として知られている森永卓郎氏には、是非鑑賞して、評論して欲しいものだ。すでに京都で鑑賞しているかもしれないが。

流風は、残念ながら、フィギュアの分野には疎い。それにフィギュアに限らず、収集癖はない。それを収集するオタクがいるのには、若干違和感を覚える。流風には、それが何が楽しいのか、全くわからないが、基本的に「集める」ということに快感を覚える人たちがいるのだろう。

オタクは昔からいるのかもしれない。ちょっと侘しい感じもしないではないが、人の趣味は、人それぞれ。否定することもできない。これらの収集は、お金と時間の無駄遣いのように見えるが、当人たちにとっては有効な趣味なのだろう。更に、時を経て、文化が形成されることもあるのだから、あながち収集行為を咎めることもできない。

さて、そのフィギュアだが、解説によると、土偶を初めてとして、昔のフィギュアは、呪術や信仰の対象で、神聖なものであったが、明治以後のフィギュアは、そういうものは一切なく、単なる愛玩とか収集の対象でしかないという。

前近代は、土偶・埴輪、ひとがた、もフィギュアの一種という。その後、土偶・埴輪は土人形や張子に発展し、ひとがたは木製人形になる。これらは宗教性を帯び、信仰の対象だ。

これらが発生した原因としては、多分、自分を存在せしめているものに対する怖れがあったからではないかと思う。人は、暗黒時代から、見えない恐怖と常に戦ってきたことから発したものといえる。それは心を映し出したものとも言えるが、わからないものに対する宗教性を帯びるようになる。そして、それを造形にした物が、前近代のものなのだろう。

ところが、近代以後は、徐々にそういう怖れが薄れ、単にモノとして扱うようになり、収集するという行為が生じたと解説されていた。ある意味、心の扱いが軽くなったのかもしれない。それは人間を存在せしめている何かに対する畏敬の念が薄れたということも言える。

よって、収集や愛玩の対象になった物は、所詮、モノとして消える運命にあるのかもしれない。キャラクター大流行りの時代だが、一面では、社会も軽くなっているのだろう。物事を深く考えず、流されていくというのは、あまり宜しくない現象だ。そういう意味では、この展覧会は、主催者の意図とは異なるだろうが、時代への警鐘と受け取れる。

*参考

  兵庫県立歴史博物館 

  http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/

 海洋堂 http://www.kaiyodo.co.jp/

 海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館

              http://www.ryuyukan.net/

 

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