« 鶴と五絃弾 | トップページ | 姫路城と天空の白鷺(しらさぎ) »

2010年11月18日 (木)

謡曲『経正』のこと

数日来、ブログで、「琵琶名器、青山のこと」、「五絃弾の琴」、「鶴と五絃弾」を記したが、これらを取り上げたのは、実は、謡曲『経正(つねまさ)』を鑑賞するための予習であった。能は、謡と舞から成り立つが、謡の自分なりの解釈と、舞の理解なくては、楽しめないものだ。舞の理解からは、まだほど遠いが、謡曲の解釈は、自分なりにできないこともない。

さて、この謡曲では、今は亡き経正の追善供養のために、僧都行慶が、青山を仏前に供え、管絃音楽で、法事を営むことから始まる。後は、能によくあるパターンで、行慶は、経正が幻のように現れたように感じられ、言葉を交わす。

そして、経正は、供えられた青山を弾き、懐かしむ。彼は琵琶への妄執に惹かれてやってきた。彼のことは次のように表される。

  されば、かの経正は、されば、かの経正は

  未だ若年の昔より

  外には仁義礼智信の五常を守りつつ、

  内には、花鳥風月、詩歌管弦を専らとし、

  春秋を松蔭の草乃露水のあわれ

  世乃心に洩るる花もなし 洩るる花もなし

彼は、風流に通じ、世の中のあらゆる自然現象に対して、それらは皆、風雅の種になった。彼は夜半楽を舞う。しかし、やがて、修羅道に襲われ、娑婆の管弦の遊びも、それまでになり、業火に苦しむ姿を見られるのを恥じて、消えていくという筋になっている。

平家は都落ちの際、和歌を届けたり、いろいろ逸話を残しているが、平家が文人化していたのは確かなようである。それが衰退した要因であるが皮肉にも、後世に、これらの逸話は延々と語り継がれている。

母は、平家は、武士が公家化して、武士の領分を忘れたから滅んだのだと、流風が小さい子どもの頃から幾度も聞かされた。母が何を伝えたかったのかは、当時はわからなかったが、本分を守れということだろう。

これは商人にも言えることで、芸術や文化に現をぬかすと、本業を忘れて、無駄遣いするようになり、本業が傾く。商人が、文化に傾倒してもいいのは、引退してからだろう。それも、ある範囲内でするのが望ましい。芸術・文化はキリが無い。

これは西鶴も、くどいくらいに、彼の本で説いている。本業が嫌になって、ついつい別の事に関心が行くのだろうが、それが大きな誤りの始まりなのだ。また余技のつもりが、それに嵌ってしまって、本業が疎かになる例も多い。

まさか、『経正』の作者(一応、世阿弥とされる)も、そのような解釈をされるとは思わなかっただろう。いろいろに解釈できるところが謡曲の楽しさだ。でも、これは真に音楽を理解できない者の僻みでもある(苦笑)。

|

« 鶴と五絃弾 | トップページ | 姫路城と天空の白鷺(しらさぎ) »

古典文学・演芸」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 鶴と五絃弾 | トップページ | 姫路城と天空の白鷺(しらさぎ) »