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2010年12月 4日 (土)

僧正遍昭のにぎやかな人生(一)

   天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ

        をとめの姿 しばしとどめむ

    (古今集巻十七の八七二、百人一首の十二番、 僧正遍昭)

この歌は以前にも採り上げた。僧正遍昭の歌ということになっているが、厳密には出家する前の良岑宗貞の時の歌。この歌については、古今集の詞書には、「五節の舞姫を見て詠める」とある。五節舞は、新嘗祭の翌日で、旧暦十一月中の辰の日に、天皇が新米を食し、群臣にも賜るという豊明節会(*注)で、四人から五人の少女の姫が舞うもの。

少女は、公卿の娘、受領・殿上人の娘で構成され、名誉なことであった。それだけに、皆、少女には華美な服装をさせ、多くの人々を楽しませた。なお、これは天武天皇が吉野行幸の折、夕方、琴を弾いていると、前峰の洞窟から、雲気が立ち上り、雲間から天女が舞い降り、琴の曲に合わせて、舞ったという伝説に基づくという、なかなかロマンチックな話。

このことがわかっていないと、この歌が、その伝説を踏まえて詠まれたことが全くわからない。よって、解釈は、「空吹く風よ、雲の間の通い路を閉ざしてくれ。そうしないと、あっという間に、天女の舞が終わってしまうから、もうしばらく、留めておいてくれ」という感じ。

この僧正遍昭は、俗名良岑宗貞と言い、桓武天皇の孫にあたり、親の職業を継いで、蔵人頭になり、仁明(にんみょう)天皇に仕え、その学識の豊かさで愛された。五節舞も、彼が天皇に勧めて、行われたという。ただ彼は権力とは距離を置き、天皇から政治がらみの質問を受けても、複雑な立場上、決して答えなかったという。

この頃の天皇の系譜を示せば、五十代が桓武天皇で、五十一代が、彼の息子の平城天皇、五十二代は、平城天皇の兄弟の嵯峨天皇、五十三代は、同じく兄弟の淳和天皇と続く。五十一代から五十三代まで兄弟なのだ。

そして、五十四代には、嵯峨天皇の皇太子が、仁明天皇になる。そこから、妙な葛藤が始まる。すなわち、ここら辺の人間関係は複雑で、いろんな政争が起こっている。例えば、淳和天皇の恒貞親王は、後、謀反の汚名を着せられて僧になっている。

良岑宗貞は、仁明天皇に仕えていたから、中途半端に発言できない立場だったから政治的発言を控えたのだ。それでも、淳和天皇の皇后は、彼を嫌ったという。ついでに記せば、平城天皇の孫である在原行平、業平兄弟も、政争の憂き目にあい、地方に飛ばされている。

この歌は、まだ出家前の歌であるが、この歌を詠んで、一年後ぐらいに、仁明天皇が亡くなっている。天皇が亡くなられると、それを哀しんで出家。しかし、これは単なる出家というより、新しい勢力に追い出される前に、自ら避難したのが真相だろう。それでも、後、彼は遍昭と称し、やがて僧正になった。

ところで、良岑宗貞は、色好みだったから、この歌を詠えたということもできる。まあ、五節舞を御覧になっている方々は、皆、そういう気持ちだっだろうから、彼が代表して詠んだとも言える。これだけでなく、彼には、面白いエピソードがたくさんある。

次回に続く。

*注 五節会を次に示す。

  元日節会 一月一日

  白馬節会 一月七日

  踏歌節会 一月十四日~十六日

  端午節会 五月五日

  豊明節会 十一月中の辰の日

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