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2011年2月21日 (月)

『播磨国風土記』を読む その三 伊和大神

播磨国が、出雲と密接な関係があったことは、この風土記に記されている伊和大神が出雲の人だからだ。そして、伊和大神は、葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと)と記されている。なんと大国主命(おおくにぬしのみこと)のことだ。ところが、彼は出雲王朝の六代目だったとも云われる。すなわち、伊和大神は、大国主命その人ではなく、大国主命の流れを汲む人物であったと推定される。

大国主命は、呪術とか医薬を広めたと言われる。ただ、彼は、後に、戦いに破れて降伏し、大和王朝の天照大御神の孫のニニギノミコトに国を譲り、出雲に逼塞する。彼の代で、出雲王朝は終わりを告げるわけだ。

このことを指して、大国主命は播磨国には来ていないという考え方もある。ただ大国主命が国譲りする前の代から、播磨国には、出雲の王がやってきた可能性は高い。そこで、言い伝えが混乱した可能性も指摘できる。

大体、この風土記には、多くの古老からの言い伝えを、地区ごとに時系列ではなくて、並列にランダムに記されているので、そういう錯覚をするのだろう。流風は、どの代か分からないが、何人かの出雲王は、国譲りする前には、播磨国にやってきていると確信する。

それでは、葦原志挙乎命が、なぜ伊和大神というかは、風土記にも記されていて、もともとは、彼が、若い時に、播磨に来て、酒の醸造を伝え、それを神酒(みわ)と呼んだものが、伊和になまったものらしい。だから、本来は、神酒大神だったのかもしれない。

どういう経路で、播磨国に来たかはわからないが、妻、許乃波奈佐久夜姫神(このはなさくやひめぎみ)を、大山祇神(おおやまつみのかみ。山の神)の娘を迎えていることを考えると、現在の鳥取県経由で、播磨国に向かったのではなかろうか。

しかしながら、初期の播磨の平定は容易ではなく、多くの苦杯を舐めている。当時は、巫女の力が強く、漸う、佐用郡の実力者の姫巫女を籠絡して(笑)、入りこんだ可能性が高い。だが、彼女は大変な呪術の使い手で、それに怖れを成して、後、去っている。その他にも、各地の地元の実力者の多くの姫に粉をかけるが、振られて失恋しているのは人間臭くて面白い(笑)。

播磨に定着して後、朝鮮半島の新羅から王子の天日槍(あまのひぼこ)が、先進的な鉄の刀剣を持ってやってきて、戦争になるが、伊和側の方が、食糧が豊富だったため、この時は、何とか勝って、天日槍を出石の方に追いやっている。最終的には、姫路平野まで手中に収める。

ただ、鉄器、刀剣等、新しい文明の導入が遅れたためか高天原王朝には、戦争に負け続け、ついに出雲における最終的な最終戦争は避け、高天原王朝に国の王権を譲った。その後は出雲にて、神事のみに専心し、全国の神社を束ねることになる。

彼の名前が残ったのは、彼が常に民衆のことを考え、民衆から尊崇されていたこともあるだろうが、出雲王朝最後の王であり、妻もニニギノミコトに奪われ、神事に没頭せざるを得なかった悲劇の人であったからかもしれない。そこから、後の人が、民を守ったという意味で、大国主命と呼ぶことになったのかもしれない。

*注記

この記事は、一部、流風の想像によるもので、いろんな解釈が考えられます。

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