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2011年2月12日 (土)

『播磨国風土記』を読む その一 概観

風土記の内、『播磨国風土記』に、流風の独断と偏見で、何の裏付けもなく(笑)、若干、妄想的に触れてみる。この風土記は、現存する風土記で、最古のものとも言われる。ただし、原本ではなく、平安時代に作られた写本であるらしい。また、いくつかの欠損がある。編者は、数人の候補はあるが不明である。成立年代は、不詳だが、日本書紀が作られる前と推定される。

播磨国とは、現在の兵庫県の、東は明石市、三木市、小野市、西脇市から、西は赤穂市、佐用市、北は、宍粟市、神河町、多可町辺りまでを指す。

播磨地域は、古くから土地の豊かな地域であったと察せられる。温暖で、比較的自然災害も少ない。平野部が広く、また海側も内海のため台風の被害も少ない。すなわち、住まうのも、食にも困らないから、古代の人が、自然と集まった可能性が高い。

また結構早くから、渡来人が多く入っているだろう。彼らが、この地に注目して、先進的技術を以て、地元の人間と結び付き、文化を形成したと考えられる。この風土記の内容は、実際的で、記紀の神話的要素は薄く、時代を正確に反映していると言われる。

渡来人の流入は、大和朝廷の政策という見方も成り立つが、流風は、それ以前から、かなり流入していたと思う。どういうルートで入ったかはわからないが、一番考えられる大きいルートは、出雲からであろう。

出雲には、朝鮮半島の東側の人々が、何らかの事情で、潮流に乗って、渡来し、定住したと想像できる。そういうことで、当時から、相当、行き来があったのではなかろうか。浦島太郎、竹取物語、羽衣伝説等は、すべて出雲が発祥の話ではないかと思われる。

そのような雰囲気は、この風土記から読みとれる。そして、よくわからないが、出雲と播磨は強い関係であったと考えられる。出雲王朝の権力の源泉の一つが、播磨国から採れる食糧ではなかったか。いずれの時代も、経済的バックがなくては、権力は握れない(*注1)。

それには、まず食糧を押さえる必要がある。日本に最初、住みついた縄文人は、狩猟活動で各地を転々としたかもしれないが、半島から弥生人の流入により、農耕が根付き、いかに生産性を上げて、食糧を多く調達した者が、権力を握ったことは疑いようもない。

播磨地域に大和朝廷が関与してくるのは、後のことで、『播磨国風土記』と記紀の内容にずれがあるのは、そういうことが影響している。大和朝廷が、自らの権威化及び権力維持のため、内容を大きく脚色したことが、各種風土記の多くが残らなかった原因だろう(*注2)。

多分、朝廷は都合の悪い部分は削除か、処分し、地方にも処分を指示していたかもしれない。しかし、控えは、失われることなく、写本であっても、『播磨国風土記』のように、その内容が後世まで伝えられたことは、歴史のためにはよかっただろう。いずれにせよ、史書は権力者によって、都合よく、書き換えられることは、いずれの時代も、間違いない事実だろう。

*注1

後、大和王朝と播磨を巡って、争いが起こっている可能性が高い。

*注2

古事記は、712年に国に上げられたが、稗田阿礼の記憶による口伝であり、情報には限界がある。また一言一句漏らすなという指示があったのか、彼が確認しながら繰り返し述べたことも記したため、重複記事が多い。その内容は脚色はされていないと推定されるが、記録としては不十分である。

日本書紀は、720年に天皇に上程されているが、そもそも天皇の指示で作られたものゆえ、周囲は、それを慮って、内容には、作為が入りやすい。地方の国司に命じて作らせた風土記(実質、郷土史)のような地方情報も加味しても、そこには取捨選択があり、都合の悪いことは記さず、中央官僚によって都合のよい記録以外の別の情報が付加されている可能性が高い。

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