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2011年2月13日 (日)

『播磨国風土記』を読む その二 播磨という名の由来

それでは、なぜ「播磨」と呼ぶようになったのか。ところが、『播磨国風土記』の初めの部分が欠損しており、残念ながら、その由来を知ることはできない。風土記に残った記録には、播磨国の表記の外に、針間国(*注)という表記もある。しかしながら、この辺の経緯は、表紙が抜け落ちているために、定かではない。

参考文献(*)によると、『播磨鑑』には、「日本の中間にて針の如し」とか、「神宮皇后が、ある日の晴れ間に御船を出し」とか、「神宮皇后が御幡の手を開き上げさせ」とか、「海辺を弓を張った国の如く」とかあるとか。

いろんな説があるわけだが、どれが近いだろうか。まず言えることは、あまり文字に左右されてはいけないということだろう。それは万葉集にも言える。音(おん)で考えるべきではないか。渡来者の言葉が、呼び名に影響された可能性がある。

古代朝鮮語について知識はないが、音で考えれば、「ha・ri・ma」に何らかの意味があると推定される。ただ、音の表記は違うかもしれない。類推すると、何とも言えないが、ヤマカン(笑)で、この土地の形状を指した可能性が高い。

そうだとすれば、「海辺を弓を張った国の如く」と言うことだろうか。陸側か、海からか見えた風景。いずれにせよ、土地の形状を指したものだろう。残念ながら、流風には、それ以上のことは記せない。研究者に託すしかない。ただ、古代に思いをはせ、妄想的に色々、想像することはなかなか面白いと思う。

* 参考文献

   『「播磨国風土記」を楽しむ』 田井恭一編著 

    神戸新聞総合出版センター刊

*注

針間国とは、この風土記中にある、「萩原の里」について記されていることに、つながりがあるのかもしれないという見方もある。皇后が朝鮮から、船で還られて、現在の、たつの市揖保町萩原に寄る。一夜のうちに背の高い萩が成長し、その間に井戸を掘られて、萩間井が作られた、とある。これは「萩間井」が、「針間井」となったのか。ただ、これを以て、播磨国となったというのは無理が感じられる。

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