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2011年4月 6日 (水)

マスコミ災害報道の限界

東日本大震災の報道を視ていて、感じるのは、阪神淡路大震災の時と同じだということ。つまり、被災地の実情と報道のズレだ。まだ現地から報道しているテレビ等は、現地の状態を時事刻々と伝える感じもあるが、全てを伝えられるわけでもない。結局、テレビ受けのいいセンセーショナルな面を何回も流して、被災地の悲惨さを伝えることになる。

視聴者は、それがすべてと感じ取り、大変なことになったと思う。もちろん、大変なことは大変なのだが、一部にスポットが当たり過ぎて、全体像が理解されない。取材者も、たまたま出会った被災者に意見を求めたりするが、彼らに客観的な意見など求めようもない。結局は、感情的な意見になりがちだ。それを報道したところで、あまり価値はない。

新聞等の場合は、さらに遅れる。ずっと前に取材した物を10日とか二週間も過ぎてから記事として流すが、その時には、現地の事情は大きく変わっていることが多い。そういう報道はあまり価値はないが、その情報に基づき、テレビ等が、やたら騒ぎたてるからおかしくなりがちだ。現場は生ものなのだ。まだ週刊誌・経済誌の方が、生の報道は遅れるが、客観的に分析していることが多い。

今後、災害現場の生情報の流し方には工夫が求められる。緊急専用チャンネルも必要かもしれない。ミニFMも、その形態の一つであろうが、テレビや新聞の報道の在り方も、災害発生と同時に現地に、各社共同ミニ基地局を設置して、被災地の要所要所ごとに全社で2名程度常駐させ、情報の流し方を根本的に見直す必要があるのではないか。

つまり報道各社は、緊急対応の現地での活動の仕組みを考え直すべきと思うのだ。少なくとも、点の報道と、それらから全体像を把握する報道とが求められる。点の報道は各社単独では限界がある。いろんな媒体が協力して、災害の全体像を早期に把握するようにして欲しい。ただ全体像の把握・理解・分析は、各社それぞれでいいと思う。

*注記

上記の記事は、災害が起こってから2週間以内の報道についての話。それ以上になると、段々事実が判明していき、報道も現場とのズレが基本的には縮小していく(時々、それを過ぎても、頓珍漢な報道は散見されるが)。

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