« 義援金分配の対象 | トップページ | マスコミ災害報道の限界 »

2011年4月 4日 (月)

『播磨国風土記』を読む その四 神功皇后

『播磨国風土記』で、度々、登場するのが神功皇后だ。彼女は十四代仲哀天皇の后だが、天皇より有名だ。この皇后は、とても男勝りだったようで、自ら戦場で走り回ったようだ。彼女が神話で語られるが、多分、実在の人物と思う。確かに、大げさには伝えられているが、一廉(ひとかど)の人物であったことは間違いなさそうだ。

そして、この『風土記』に、皇后のいろんな言い伝えが記されている。まず、先日のブログに示したように、流風は、そうは思わないが、彼女が、「播磨」という地名に絡んでいるという意見の根拠になっているもの。彼女は主として船で移動するのだが、度々、時化(しけ)に見舞われて、難渋している。その度に、明石や淡路の港に避難する。福泊(姫路市)にも風待ちのため避難し、入港すると、雲の間から晴れ間が見えたので、「おお、晴れ間なり」と仰ったというのだ。

そして、それが播磨の呼び名の元になったというのだが、後付けの感じが強くする。根拠としては、かなり薄いと思う。昔、子どもたちが、お婆さんに、色々尋ねても、分からないことは、適当に話を作るのと同じだ。もちろん、この言い伝えを全て否定することもできないが。

また彼女は、新羅征討の途上、時化に会い、宇頭川という所に泊まったが、海はなかなか静まらない。再度、出港しようとすると、また強い風が吹く。船はなかなか進まないので、民を徴用して、引っ張るよう言いつける。だが、そんなことは、土台無理なこと。そうすると、幼女を抱えた女が、人柱になると進み出て、海を鎮めたこともあったようだ。人柱と言う悲しい物語は、この頃から、あったようだ。

なかなか宇頭川から進めないことを指して、「宇須伎津」(姫路市網干、魚吹神社辺りと言われる)と呼ぶようになったという。現在の、たつの市の御津の謂われも、神功皇后の船が、停泊して宿にされた所から、名がついたという。

その他にも、印南(いなみ)の郡の謂われとして、天皇と后は、筑紫の熊襲を平定しようとする。その時に、途中、印南の浦に停泊される。ちょうど、その時、波が静かで、そこで「入り波」から印南の郡と名付けられたとか。

天皇が、亡くなられた時、墓石を求められ、石作連大来を率いて、讃岐の国に探しに行かれが、見つからず、こちらに来て、やっと伊保山にて、大来が見つけた。それで、見つけたという意味で、伊保山と言うようになったという。ここら辺は、「みほやま」が「いほやま」に替っている。

このように見ていくと、いずれにせよ、神功皇后は海の人のように感じられる。日本の各港に停泊しつつ、国内平定のために動きまわり、新羅征伐にも行くバイタリティー溢れる女性。現代のキャリアウーマンの先駆けなのだろう。今も昔も、日本は女性が開拓している。

そういうと、新しい時代を嗅ぎ取り、フットワーク宜しく、海外で活躍している女性は多い。まあ、せいぜい男は、その後姿を追いかけ、女性を神様に祭り上げて、その実権を奪うぐらいしかないのかな(笑)。男にも、それなりの役割もあるけどね。

|

« 義援金分配の対象 | トップページ | マスコミ災害報道の限界 »

姫路と播磨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 義援金分配の対象 | トップページ | マスコミ災害報道の限界 »