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2011年5月31日 (火)

兼好の女性観

『徒然草』第百七段に、「女の物言ひかけたる返事、とりあへず、良き程にする男は、有り難き物ぞ」と兼好法師は指摘している。要するに、「女が何か物を言いかけて来た時、その返事を、あまりうまくできる男はいないものだ」と言っているのだ。

ところが、あるテレビ番組を視ていると、プレイボーイの女性に対する適正な相槌の仕方は、「そうだね」、「わかるよ」、「その通り」だそうである。要するに、彼女の話を否定しないことのようだ。全て肯定し、聞いてやる。それが男女のよい関係を維持できる手段なそうだ。

それにしても、男女の思考差、行動差には、お互い戸惑うのは普通だろう。それは個人差ではなく、性差でもある。だが、度々、自分の見方で、相手の異性を見てしまう。そして、大いなる失望感に覆われる。まあ、人類は、そういうことを繰り返してきたのだろう。

ところで、この兼好法師、この後も延々、女性のことを、さんざんに非難している。彼も、女性で苦労したのかもしれない(笑)。引き続き、『徒然草』第百七段の一部を掲載してみる。

「かく、人に恥らるる女、いかばかりいみじき物ぞと思ふに、女の性は、皆僻めり。人我の相深く、貪欲甚だしく、物の理知らず、ただ迷ひの方に心も速く移り、言葉も巧みに、苦しからぬ事をも問ふ時は言わず。用意有るかと見れば、またあさましき事まで、問はず語りに言い出だす。

深く謀り飾れる事は、男の知恵にも勝りたると思へば、その事、後より顕はるるを知らず。素直ならずして、拙き者は、女なり。その心に従いて、良く思はれんことは、心憂かるべし。然れば、何かは女の恥づかしからん。もし賢女有らば、それは物疎く、凄まじかりなん」と。

何を言っているか解説すると、次のようになるかもしれない。

「彼女たちは、他人のアラ探しをして悦にいっているが、実際は、それに値する女性はいない。女の本質は、歪んでいる。自分に拘り、自分中心主義で、あれも、これも欲しがり、物事の道理を説いても、分かろうとしない。ただ現象に惑わされて心をいち早く動かしたり、言葉巧みで、肝心なことは聞かれても言わないのに、こちらが問うていないことも、ぺらぺらしゃべる。

そうかと言って、深い事実を覆い隠そうと嘘をつこうとするのは、男より勝っていると思うから、後から、多くの矛盾から事実が露見しても、本人はまるで気付いていない。素直でなく拙いのは女の性だ。そんな女によく思われようとするのは、本当に嫌だ。よって、女によく思われようとする必要は全くない。それは、仮に賢女であっても近寄りたくはないし、心は萎えていく」と。

兼好法師も大変だったんだね(笑)。こういう思いは、相手に期待し過ぎるからそうなる。男と女の思考回路は別のものと悟れば、問題がない。それが割り切れないから問題なのだけれど。

そして、兼好は次のようにも言う。「ただ、迷ひを主として、彼に従ふ時、優しくも、面白くも、覚ゆべき事なり」と。つまり、「男は女の色香に迷った時だけは、女に従い、その存在が、優しく、面白いものと錯覚するものだ」と。それは、そうだろうね。

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2011年5月30日 (月)

安倍晴明と蘆屋道満の故郷

兵庫県の社団法人ひょうごツーリズム協会が発行している、ひょうごツーリズムガイド「あいたい兵庫」の冊子があったので、もらってくると、県下の主だった観光地の紹介がしてある。それを読んでいると、陰陽師の安倍晴明と蘆屋道満の塚が、兵庫県佐用郡佐用町にあるとの記事があった。

残念ながら、流風は知らなかった。いつの時代も、陰陽師として、一番になった安倍晴明の印象は強い。蘆屋道満については、歌舞伎や浄瑠璃を鑑賞する人は知っていても、一般には、そんなに有名ではない。

蘆屋道満は、藤原道長だけが、いい思いをしているのを嫉妬した左大臣藤原顕光(あきみつ)の依頼で、藤原道長を呪殺しようとした。ところが、安倍晴明に見破られ、生国に追放されたという。ところが、道満は、追放されたが、殺されてもいない。

少しきな臭い感じがする。逆に、藤原道長が、道満を使って、藤原顕光を罠にかけた可能性もある。真偽は藪の中だ。いずれにせよ、その後、安倍晴明は、道長に信頼され、陰陽師としての安倍氏の祖となる。

ところが、このライバルが同郷とは。ただ蘆屋道満については、佐用町が故郷だとはっきりしているが、安倍晴明については、有名になったため、いろんな説がある。出世すれば、親戚が増えるのと同じ現象だ(笑)。

いずれにせよ、この冊子には、晴明塚(佐用郡佐用町甲大木谷)と道満塚(佐用郡佐用町乙大木谷)が写真入りで紹介してある。これらは、約800メートルの距離にある別々の山にあるそうだ。いずれ機会があれば、一度行ってみようと思う。

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2011年5月29日 (日)

部下への目配り

組織において、トップ層は、人材への目配りは欠かせない。部下たちが、それぞれ、どういう気持ちで働いているか、常に関心を持って接することが、いざという時に役に立つ人材にすることだ。

最近は、そういうことが忘れがちだが、昔は、常に部下の心理を把握するように努める上司が多かった。そのために、飲み会に誘われることは多かったと思う。部下にとっては、若干、迷惑なのだが、今から考えると、それは部下の人心掌握術のための必要悪だった思う。

そういうことは、小早川隆景の兄の吉川元春は、智将の弟と異なり、猛将で武辺の者であったが、人材への目配りは、欠かさなかった。彼は次のように述べている。

  人に めをかけられ候て然るべく候、

  人 とおく候仁は、

  いかにも役に立たざる物に候。

人は、上から常々、目をかけられると、いざという時、力を発揮し、そうでなく、上から遠い存在の時は、全く役に立たないと言っているのだ。つまり、人材を活かすも殺すも、上司の心がけ次第ということ。

そういうと、流風も、若い頃、大きな失敗をして、会社に迷惑をかけて、気分も沈みがちで、何回も会社を辞めようと思った時、年末に事業部全体の忘年会があり、嫌々ながら参加した時のことである。周囲は盛り上がっても、自分は居場所のない時間を過ごしていた。

しばらくして、ぼーっと歩いていると、事業担当の取締役にすれ違い、挨拶して、会社に迷惑をかけたことを詫びると、「若い時は色々失敗もある」ということを言われ、そのことはあまり触れずに、私生活について若干尋ねられ、「今後も頑張るように」と励まされた。

当時は、取締役は、雲の上の人。たった、それだけのことだが、流風は、気持ちを新たにして、仕事に取り組むようになったことを覚えている。流風が、その後、それなりの成果を上げられたかはわからないが、少なくとも、考え方は変わった。取締役の一言が、人生を変えたことになる。

トップの人材への目配りは、直属の部下はもちろん、新人に対しても、関心を持ち、常々意識をして声をかけていれば、いつか自分の戦力となる可能性がある。人は、期待されれば、それに応えようとする。そういうことができる人がトップになることが望ましい。

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2011年5月28日 (土)

うまく行かないのは当たり前

うまく行かないのが当たり前なんて言うと、最初から、うまく行かないと思ってやって成功することはないという声も聞こえてくる。もちろん、うまく行かないと思ってやれば、うまく行かないことが多いかもしれない。

確かに、新しいことに取り組むには、ある程度、夢を持って目標設定し、目標に向かって、一歩ずつ近づいていくというのが、普通のやり方だ。そこで、失敗を恐れていては、何もできない。

ただ、一直線にうまく行くかと言えば、必ずしもそうでないだろう。むしろ、うまく行き続けることはなくて、度々行き詰ったり、壁にぶち当たって、それを乗り越えるべく、努力していくというのが普通だ。

だから、あまりにも楽天的に、何もかもうまく行くと考えるのは大きな考え違いと言うものであろう。いつも、うまく行くと考えて、つまづくと、失意は大きくなる。むしろ、いろいろやっていたら、うまく行かないのは当たり前と考えて、それなりの考えを及ぼしていくことは大切なことと思う。

あの漱石も、子供さんとの会話で、「そうはうまく行かないよ」という言葉を残している。子供さんは、その真意を理解したか不明だが、子供にも、そういう言葉を残したのは、漱石らしい。順調だと意外と忘れがちだが、いつも、そういう引っかかりを心に持っておく慎重さは、誰にも求められる。

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2011年5月27日 (金)

判断の基準

人間、色々やっていると、判断が求められる。それを分別と言うかもしれない。それでは、その判断基準、分別基準は、一体、何なのか。案外、分かっているようで、分かっていない。日頃は、理性的判断でやろうと思っていても、いざとなったら感情的判断を下しているかもしれない。

そのことを、黒田如水の息子の長政が、小早川隆景に問うたところ、次のように回答したという。

  分別の判断は仁愛なり、と。

孔子の言葉ではないが、仁愛、すなわち、あらゆるものを哀れみ慈しむ心を以て、深く思考し、判断し、決断すれば、後悔はないということだろう。情理であれば、たとえ理が正しくても、情の部分で同意できなければ、決断してはいけないということだ。

もちろん、情が過ぎれば、危ういことは間違いない。一般的には、情理バランスが大切とされる。しかしながら、情の部分が、若干、理より上回る状態の方がいいかもしれない。それは、多くの人は、情で動くということが多いということも指摘できる。

小早川隆景については、以前にも取り上げたが、中々深い思考の持ち主であったことが分かる。

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2011年5月26日 (木)

ドクダミ茶の効用

ドクダミの白い花が咲きだした。この青白い白さは、葉の匂いと共に、あまり好きではない。ドクダミは、どこにでも生えていて、繁殖力が強い。子供の頃、住んでいた家の近くにも、多くのドクダミが生えており、嫌な臭いに閉口したものだ。

だが、母は、流風がおできがてきたり、擦り傷をすると、ドクダミを採って来て、その絞り液を塗って、「これを塗ると早く治る」とか言って塗布していた。確かに、効果はあったかもしれない。それに鼻詰まりをすると、同様なことをされて嫌だった。臭いは強烈だからだ。

近所のお婆さんも、ドクダミを干して、お茶にすると言っていた。「これは女にいいんよ」と言っていたが、何がいいのかは説明してくれなかった。最近、いろんな書籍を読むと、ドクダミ茶は、肌荒れにいいらしい。また女性に多い冷え性にもいいという。なるほど、そういうことだったのか。

基本的に、便通をよくし、血行をよくするのを助けるらしい。母も、色々試す人だったが、ドクダミ茶を作っているのを見た記憶はないのだが、念のために、作り方を記すと次のようになる。

まず土壌のよい所に生えているものを採取する。そして、よく洗う。浸け置きする人もいるようだ。それを、ある程度、束ねて、陰干しする。乾燥状態は完全なものにする。中途半端な乾燥だとカビが生えて、よくない。

後は、適当に切って、密閉容器に保存。そして、一般の漢方薬を煎じるように、土瓶(漢方薬を煎じる場合、薬缶でも仕方ないが、土瓶が望ましいとされる)に水を入れ、一握りのドクダミ茶を入れ、煎じて、出来上がり。

最近は、飲んだことはないが、子供の頃、そのお婆さんに飲まされた記憶では、あまり飲みたくない代物。飲むには、他の物と混ぜるなどして、工夫が必要と思う。先日、スーパーに行くと、ハト麦茶とミックスした物が売られていた。そいう工夫もいいかもしれない。

こういうお茶を飲んで、美しい女性が増えればいいが、何せ民間伝承薬、効果のほどはわかりません(笑)。名前のような毒はないと思うけれど。

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2011年5月25日 (水)

きつねうどんと落語『狐うどん』

うどんは、関西の食文化と言われる。確かに、美味しいと思う。まず、出汁がいい。以前、東京に行った時、食したうどんは、汁が黒く、味もよくなかった。こんなものを、よく食するなと思ったものだ。

ところで、流風は、きつねうどんが大好きだ。甘辛く煮た、おあげを乗せた、うどんは、美味しい汁と調和していていい。また、関西の、あの出汁の美味しさは、江戸時代から北海道の昆布が関西に流通していたから、生まれたものだろう。料理も、昆布とカツオ節で出汁を取る習慣は、ずっと続いている。

最近の若い主婦の中には、出汁を取ることもしない人が増えているのは残念だ。子供の頃から、味は舌で覚える。インスタントの出汁では、家庭の味は出せない。それぞれの家の出汁があっていい。ちょっとした匙加減で、微妙に味が変わってくるから不思議だ。それに季節によっても異なる。出汁の文化を忘れないでもらいたいものだ。

さて、落語にも、『狐うどん』というものがある。最近は、あまり演じられないかもしれない。備忘録的に触れてみよう。内容は、遊びが過ぎて勘当された若旦那が、路頭に迷う。そこへ、かつて助けてやった狐が、それを見て、若旦那のかつての馴染みのおかめという女性に化けて、色々助けるうちに、情が移り、夫婦になる。

食べていくには何かをせねばということで、うどん屋を始める。始めは、なかなか売れないが、ある時、いなりずしの油揚げを、うどんに乗せて、「狐うどん」として、売り出すと、これが意外にも大あたり。繁盛して、若旦那も、なんとか生活できるようになる。

今までは、外出も控えて、商売に精を出していたが、久しぶりに出てみると、以前、よく行っていた妓楼の婆さんに出会う。婆さんが言うには、「あなたが、最近少しも、お顔を見せてくれないものだから、あのおかめは病気で伏せっています。近頃は、少しよくなっているようですので、時々、行ってやってください」と。

これに、若旦那は、おかめは自分と一緒に住んでいるのに、この婆さんは妙なことを言うと訝しがり、「そんなはずはない」と強弁すると、「いえいえ、本当に、今日は、確か、保養を兼ねて、芝居見物に行っていますよ」と言う。

不思議に思って、芝居小屋に行ってみると、桟敷には、おかめらしき女が坐っている。これは一体どういうことなんだと思い、急ぎ家に帰ってみると、そんなことを知らない、狐が化けたおかめは、まめまめしく、小女を使って働いている。

これは、どちらが本物だろうと思案していると、客が来て、「おい、評判の狐うどんをくれ」と言う。「へーい。狐一杯」。「いや、おかめにしよう」。そんなやり取りを聞いて、「狐がおかめに変わった」と、オチ。

この話の内容は、浄瑠璃に少し倣ったものかもしれない。また仮に、きつねを実際の人間に当てはめて、考えると、ありそでなさそうな話でもある。案外、現代小説でも、似たような題材にされているかもしれない。きつねうどんから、またまた、全然違うことを記すことになった。でも、今日の昼食はきつねうどんにしよう。おにぎり二個つけて(笑)。

*追記

ちなみに、「おかめうどん」とは、上に乗る具が五目うどんより多い物で、かまぼこ二切れ、鳴門二切れ、シイタケ(昔は、松茸だったとか)、筍、三つ葉、湯葉等で、「おかめ」に似せる。まあ、実際は、あまり人の顔には見えないものが多いけれど、そういうことになっている。残念ながら、最近は、あまり食する機会がない。

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2011年5月24日 (火)

播磨国荘園をめぐる遺産相続問題~冷泉家

冷泉家は、藤原道長の流れで、藤原俊成、定家、為家と続き、為家の子、為相の邸宅が冷泉通りにあったところから、そのように呼ばれるようになったそうである。そのいきさつは、結構ややこしく、為家が、宇都宮頼綱の娘を妻にして、為氏、為教をもうけるが、安嘉門院に仕えていた四条と言う女房に手を出したから、ややこしくなる。

彼女は、和歌に通じており美人であったらしく、ついついそのような関係になったようだ(彼女は、後、出家して阿仏尼と呼ばれるようになる)。そして、為相が生まれる。ここから問題が生じる。為家は、四条を殊の外愛していたらしく、遺言で、長男・為氏に与えていた播磨国にある荘園は全て為相に残すと言ったから、揉める原因になっている。

更に、和歌師範家としての家系である「御子左家(みこひだりけ)」までも、為相に渡そうとした。これに怒った為氏は、決して引き渡そうとしない。これは確かにおかしい。愛に溺れて、為家も、大きな判断ミスをしたものだ。こういう遺産相続問題は現代でもある。変な遺書は残さないことだ。

ついでに記すと、「御子左家」は、藤原道長の子の長家が、醍醐天皇の皇子の兼明親王の邸宅「御子左第」を伝領したことから、その名を受け継いでいる。特に俊成、定家、為家から和歌師範家の家系として、強調するようになったようだ。

その揉める原因になったのが、播磨国にある細川荘という荘園であった(現在の兵庫県三木市)。現在の三木市の三分の一を占める広さだ。為氏は、先に為家から与えられていた。それを阿仏尼が、遺言を理由に、引き渡しを求めたが、為氏が引き渡さないので、鎌倉幕府まで、訴えに行く。そのことは、阿仏尼が記した『十六夜日記』に詳しい。

だが、鎌倉では、為氏の母の親の宇都宮頼綱の勢力が強く、彼女の訴えは届かなかった。結局、「御子左家」は、為氏が継ぎ、為教は、京極家として、為相は、冷泉家というように、分派していく。しかしながら、阿仏尼の死後、鎌倉の勢力変更に伴い、彼女の希望通りになる。播磨国の荘園は、冷泉家の所有になる。

まあ、流風には全く関係ないけれど、ここら辺の人間模様は他人事で面白い。今回は、播磨に関係あるということで、一応記してみた。地域興しのネタとしては、少し弱いが、兵庫県も、折角、こういう歴史があるのだから、京都の冷泉家を招いて、いろいろ催しをやってみるのもいいかもしれない(*注)。

*注記

京都の冷泉家は、「上冷泉家」で、播磨国に居た冷泉家は、「下冷泉家」で、分家しているけれど、地域興しのネタで、別に分けることもない。

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2011年5月23日 (月)

電子レンジ使用中止にする

昨年末、電子レンジを初めて購入したが、電気を結構使うことになるので、使用中止することにした。今時、電子レンジを使わないのは、遅れていると指摘されて買ってみたが、確かに便利なことは便利だが、熱源を電気に変え、それを、また熱源に変換して利用するのは、やはりおかしいと感じたからだ。

もちろん、これはガス会社が主張していることと重なるが、彼らの主張に概ね同意できる。大体、それまで、電子レンジなしの生活で、そんなに支障がなかったこともある。複雑な料理はしないし、流風の作る料理は、極めて簡単な料理。電子レンジがなければということもない。

それに最近の節電ということもある。でも、流風の場合は、どちらかというと、「断電」だ。まずクーラーの使用を中止することを決めたし、湯沸かし保温ポットも使用を中止した。電子レンジの中止は、それに続くものだ。

後は何があるかな。長い間、数年前引越しするまで、テレビを視なかったから、テレビの視聴を止めるというのもあるが、今は、映画やニュースは視たいから、ちょっと無理。まあ、これくらいで、当面打ち止めになるのかな(笑)。

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2011年5月22日 (日)

近畿・中国・四国B-1グランプリに行く

第6回B-1グランプリが、今年、兵庫県姫路市で、11月12日・13日開催される。その前哨戦として、5月21日・22日、近畿・中国・四国B-1グランプリが開催されるということで、昨日行ってきた。流風は、以前にも記したが、B級グルメという呼び方は好きではない。誰もが、最初から二流、三流の商品を作ろうとすることはないからだ。

しかしながら、今さら、この浸透したネーミングを変更することは難しいかもしれない。ただ今回は、「LOCAL  GOURMET   B-1 GRAND PRIX 2011」としており、開催者も、多少、それを意識しているかもしれない。

さて、昨日、行ってきた内容を記しておこう。いや、見てきたというべきか。その会場は2箇所設営されており、姫路城近くの大手前公園(第一会場)と東屋敷跡公園(第二会場)であった。そして、人が滅茶苦茶多い。開始が10時というので、10時半くらいに、のっそりと(笑)、出かけたのだが、あまりの多さに面食らった。

以前、似たような催しがあった時も人は多かったが、とても、その比ではない。どこから人が湧いて出たのかというような雰囲気。後から知ったのだが、前日から並んでいたとのこと。えらい人気。人々の関心は、そんなに強いのか、流風には意外な感じ。

確かに基本単価が300円から400円くらいだから、手軽なことは確か。どこも、長い列だ。しかし、現金での購入はできないから、まず、1000円単位(100円チケット10枚綴り)でイベントチケットを購入しなければならない。その列も会場ごとにあるのだが、長い。並ぶ習慣のない流風はパスせざるを得ない。それに昨日は真夏の暑さだった。

それにしても、関西人は、かつて並んで食事をすることはなかった。これは過去のことなのか。皆さん、長い列を作って並んでいる。若い人たちは抵抗がないようだ。特に人気は、ゴールドグランプリを受賞している、厚木シロコロ・ホルモン、横手やきそば、富士宮やきそば、甲府鳥もつ煮だ(第二会場)。待ち時間、数時間とか。凄い。

流風は、圧倒されて、とても並ぶ気になれない。更に、被災地から招いた、なみえ焼きそば、石巻焼きそば、も同じ会場で、長い列。う~ん、これも凄い。被災地の励ますには十分だ。なお、この催しの収益の一部は、被災地に寄付されるという。

第一会場では、14種類の団体が出展。開催地の姫路おでん、日生(ひなせ。岡山県備前市)カキオコ(お好み焼きに牡蠣の入った物)、高砂にくてん(兵庫県高砂市周辺にある昔からある、甘辛く煮たすじ肉を使ったお好み焼き風)、あかし玉子焼き(兵庫県明石市の名物で、たこ焼きと似て、あらざるもの)、佐用ホルモン焼きうどん(兵庫県佐用町の名物をお爺さんたちがアピールに一役)、伏見稲荷寿司(京都市)など、これらは以前、食した経験のあるものだ。

その他には、まだ食したことがない、鳥取とうふちくわ膳(鳥取県鳥取市)、出雲ぜんざい(島根県出雲市)、津山ホルモンうどん(岡山県津山市)、今治焼豚玉子飯(愛媛県今治市)、呉細うどんカレー(広島県呉市)、須崎「鍋焼きラーメン」(高知県須崎市)、ひるぜん焼きそば(岡山県真庭市)などあったが、また別の機会があれば、食してみようと思う。

しかしながら、B-1グランプリが、こんなに集客力があるとは知らなかった。以前、別の地区でB-1グランプリが開催されていて、集客が凄いとテレビ等では、見知っていたが、現実を目の当たりにすると、これは驚きでもある。

これは手軽なレジャーであるからかもしれない。単価も安いし、イベントチケットの残りは、5月末まで、姫路市内の多くの利用可能店で使えるようにしているのも賢明な策だ。この食の形態の催しは、当面、全国で続いていくのだろう。

*追記

家老屋敷跡公園では、別途「ご当地グルメフェスタ」も併設していた。これは例年開催しているものだが、ここにも、多くの人が集まっていた(ここもチケット制)。

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2011年5月21日 (土)

『播磨国風土記』を読む その五 野見宿禰

震災で、あまり読む気になれず、中断していた『播磨国風土記』を、改めて読み進めていくと、その中に、野見宿禰が播磨国で亡くなったことが記されている。今回は、彼のことについて、多少触れてみようと思う。

この風土記では、野見宿禰という文字ではなく、土師弩美宿禰(はにしのみのすくね)となっている。彼が、揖保郡●(日の下に下という文字。「日下」と同じで、くさかと読む)部の里の立野(現在の兵庫県たつの市)で、病を得て、亡くなったとある。

彼は、大和と出雲国と行き来して、途中、「くさかべ野」に泊まり、そこで亡くなったのだ。病気になったから、泊まったのだろう。養生しても治らず、そのまま死を迎えたのかもしれない。彼が亡くなると、多くの出雲の人々がやって来て、まず山に遺体を運ぶため、連なって立ち、手から手へ運んだという。

そして、同様に、川の石も、そのように運んで、墓山を造って、それは「出雲の墓屋」となったという。その人が立ち並んだことから、この地を、「立野」と呼ばれるようになったという。風土記に記されているのは、それだけである。「立野」は、現在の兵庫県たつの市龍野町立町辺りだ。

そもそも、野見宿禰は、出雲国出身で、垂仁天皇の頃、大和朝廷と行き来したようだ。当時一番強いと言われていた強力当麻蹴速(たぎまのけはや)と競わせるため、出雲から召し出されたからだ。結局、蹴速に角力、要するに相撲で勝ち、朝廷に仕えることになる。

後、彼は皇后の葬礼の際に、天皇が殉死を禁じたので、埴輪の原型となるものを人の代わりに並べることを提案し、それまでの多くの哀しみを取り去った。もちろん、これは先に天皇に提案して、天皇が了とした可能性もある。

いずれにせよ、このことで彼は評価され、以後、天皇の葬祭を司ることになる土師(はにし)の職に任じられる。当時、悪い慣習を打ち破ったことは革新的だと思う。その後も、一族は葬祭や古墳築造に関わることになる。その祖先となる彼が、播磨の地で、最後を迎えたのは、不思議な縁だ。

彼は、兵庫県たつの市にある野見宿禰神社に祀られている。龍野神社に合祀されており、神社奥の山に神社があり、墓所となっている。実際は、拝観できないようで、手前までしか行けない。それでも、現在でも、多くの力士が参拝するようだ。いずれ機会があったら、かなり石段を上らねばならないようだけれど、参拝してみたい。

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2011年5月20日 (金)

今年の家庭菜園はトマト

子供の頃、あまり好きでなかったトマトも、大人になってからは、よく食べる。夏にトマトを食すると、不思議と元気が出る。冬のほうれん草みたいなものだ。大抵が湯剥きして、そのまま食することが多い。一応、夏の野菜なので、冬は控えるようにしている。どうしても食したい時は、温め料理に使う。

さて、今年の家庭菜園は、失敗の少ない、というより滅多に失敗しないトマトにした。トマトとミニトマトの苗を買ってきて、先日、植えつけた。ところが、昨日、見ると、トマトの苗が折れている。理由はわからない。想像できるのは、野良猫の仕業かもしれない。

今、トマトの苗を買い直すか迷っている。一度、ケチのついたものには、嫌な感じなのだ。変更して、キュウリかナスの苗に変えるかもしれない。いずれにせよ、ミニトマトだけでは、物足りない。今年の家庭菜園は、スタートから、つまづいてしまった。ちょっと、慎重に事を運ばねばという気分になっている。

*追記

結局、折られたトマトの苗の分は、買い直すこととした。そして、追加はシシトウを。

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2011年5月19日 (木)

待機電力削減はどれくらい可能なのか

節電ということで、待機電力について、うるさく言う人もいる。確かに、わずかな電力消費でも、全世帯にすれば、チリも積もればで、相当な量になることはわかる。だが、電気製品で、コンセントを抜くことができないものも結構ある。

それに、コンセントを一々抜くのは結構手間だ。母は、いつ頃からか分からないけれど、スイッチ付きコードタップを使っていた。流風も、その流れで、そのようにしている。でも、コンセントを抜くような家電製品は、そんなにないことが問題だ。

パソコンにしても、電話にしても、デジタルテレビ、冷蔵庫はもちろん抜くことはできない。最近は、製品で電力消費を調整してくれるものも多いので、あまり待機電力に注意を払うのもどうかと思うのだが。

ただ、空調は、基本的にあまり使わないこともあり、ブレーカーも落としている。今年も多分、1週間くらいしか使わないだろう。どうも無用の長物になっている。待機電力で注意を払うのはこれくらい。そういうことで、流風家では、あまり待機電力の削減はあまり期待できない感じだ。

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2011年5月17日 (火)

自分の心、他人の心

他人が何を考えているか、分かる人は凄いと思う。でも、それは本当に分かっているのだろうか。占い師に頼る女性を見ていると、危うい感じがする。宗教に嵌る女性が多いのも、それと似ている。彼女らは、大きな錯覚をしているのだ。

他者の心を推察する時、それは自分の心の目で観察している。そこで、すでに齟齬をきたしている。自分の心の目と他人の心の目は、どんなに親しい間柄でも異なる。それが血の繋がった親子でも違う。

一つの組織から独立した個体の心は、似ていても同じということはない。多くの人々は勘違いしているのだろう。最も身近な例では、親は子供の心がわかるようで分かっていないし、その逆も同じだ。私達は、もう一度、そのことを確認したいものだ。

魚に非ざれば、魚の心を知らず。我に非ざれば、我が心を知らず、と。

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2011年5月16日 (月)

第41回神戸まつりと東北物産展

神戸まつりに行ってきた。神戸まつりというと、大体、天気が悪いのだが、今年は、いい天気。そのためか、人の出足も良く、多くの人で早くから賑わっていた。内容は、ある程度パターン化しているので、新鮮味に乏しいが、まあ、これは、ある意味、市民の「大型学芸会」みたいなもの。本当は、参加していないと、本当には楽しめないのかもしれない。

お昼頃に行ったのだが、本当に人が多い。例年とは違う感じ。まあ、祭りには相応しい。いつものように、一通り、観覧して歩いて回った。でも、坐るスペースは皆、塞がっている。通りでは食事も落ち着いてできそうにないので、一時避難して、別の所でゆっくり食事した。こういう時は、穴場を押さえておくと楽だ。

そして、今回の目的の一つである東北大物産展に行く。京町通りのサンバストリートに併設されていた。サンバは、今年は、そのためにスペースを取られて、少し地味か。まあ、それも仕方ない。それにしても、物産展は、芋の子を洗う状態。人々は試食に群がり、先を争って品定め。

関西の人間は、まず試食。それは分かる。基本的に舌に合うものしか手を出さない。流風も、いくつか試食。実用的に、らっきょう、梅干し、母が好きだったゆべし、父が比較的好きだった羊羹を買った。後、お酒も欲しかったが、出品はされていなかった。少し残念。

ただ、その時、もらったチラシによると、後日、百貨店等で開催される東北物産展(*注)で販売されるらしい。その時まで、待つとしよう。その後も、荷物を持ってうろうろ。今回は、天気がよかったのがいい。祭りは晴れが望ましい。それなりに楽しめました。

*注  東北物産展 in 兵庫

今回の祭りでの物産展は、3時で、売り切れ。全国どこでも、同じ状況が続いているのだろう。早く、被災地が元気になってもらいたいものだ。下記の物産展では、出品商品は多そうだ。ただ、催し会場ではなく、一般売り場のようだから、販売スペースは狭いかもしれない。様子見として、仕方ないことか。

 そごう神戸店 B1食料品売り場 5月24日~30日 10:00~20:00

  ヤマトヤシキ姫路店 1F販売コーナー 6月4日~5日 10:00~18:30

  ソリオ宝塚 1GFメインプラザ 6月4日~5日 10:00~19:00

また東北という以上、被災が大きかった被災県でなくても、今後は秋田、青森、山形の物産展も加えるのが、本来のやり方だろう。被災地だけの物産展では限界がある。取扱品目や店の数は被災県を優先するとしても、発想を変えて欲しいものだ。

今のままでは、従来、関西と強い関係のある北海道物産展に打ち勝つことはできないだろう。東北物産展という以上、規模を大きくして特設会場で開催することが望まれる。東北地方にとって、関西は新しい市場のなのだから、もう少し先を見据えて企画する必要がある(関西の業者にとっても、新しい取り組み機会でもあるのだから)。

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2011年5月15日 (日)

後の千金にならないように

必要な時に必要な物が欲しいけれども、そうならない場合がある。東日本大震災に対する支援は各地からいろいろなされたが、今は、日にちも相当経ったので改善されたが、当初は、ちぐはぐさが目立った。

あの阪神淡路大震災を経験した兵庫県でさえもそうだ。公的空き家住宅を、みなし仮設住宅として、早くから、提供を申し出たが、遠方ということもあり、必ずしも十分に活用されていないと聞く。県内にも、避難所を急ごしらえで作ったが、利用者は誰もいないという市町村もある。

基本的には、以前のブログでも記したが、情報が、被災地の被災者に伝わらなかったことも大きい。被災地の役所の担当が、情報を止めたこともある。見方を変えれば、混乱している被災地の役所に代わって、被災者に直接伝える努力を怠ったと指摘できる。

その後でも、各地から送られる物資は、被災地に必要な物は日に日に変わるのに、相変わらず、毛布とかタオルを送ろうとした自治体が多いと聞く。最初は被災地に行けないこともあるが、被災地の動向は、ある程度、パターンがあるから予測できそうなものではないか。

その鈍感さは、どうにかならないものか。特に被災経験のない地域の支援は、タイミングが遅れがちだ。日頃から、住民の要望のマーケティングを怠るから、こういう時でも、適切な対応ができないことになる。

それに役所は、法律のルール通り動くが、平時と緊急時での対応方法がきちんと分けられていない所も多い。早く、各自治体の平時と緊急時の対応を柔軟に切り替える仕組みを作ってもらいたいものだ。

支援したつもりが支援になっていないと指摘されるようでは情けない。緊急時の提供物資が「後の千金」にならないようにしてもらいたい。折角の誠意が、被災地に伝わらないのは、残念だ(*注)。

*注

但し、あまりにもガチガチな仕組みを作ると逆に弊害がある。基本的な対応方法は決めておくにしても、それぞれの災害に応じて柔軟に対応できる仕組みが望まれる。

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2011年5月14日 (土)

太陽光発電と蓄電池

家庭用エネルギーは、今後、自己調達することが当たり前になるのだろう。そうすれば、電力会社に振り回されることもなくなる。家庭ごとに、それぞれ調達するのか、あるいは複数の家庭が共同で調達するのかは、わからないが、そのように流れていくと予測する。

そして、今、ポスト原子力発電が注目されているが、太陽光発電を始め、自然エネルギーは、不安定だ。それに全国で均一に得られる自然エネルギーはない。地域に相応しい自然エネルギーを各家庭で調達しながら、その不安定さを解消するには、それぞれの自然エネルギーを蓄積するシステムが望まれる。

そこで大型家庭用蓄電池が開発されつつある。これが低価格で普及すれば、自然エネルギーとのセットで、新しいエネルギーの形が増えていく。一番の注目は、太陽光発電したものを大型家庭用蓄電池に蓄積できればいい。

そうすれば、不安定さを、ある程度解消できる。後はコストと耐用年数の問題だろう。10年もつのか20年もつのかで経済計算が違ってくるが、これに言及することはあまりなされない。コストも大切だが耐用年数のバランスは大切だ。

そして、それぞれ、いろんな容量の製品が早く出てくることを望みたい(現在も、すでに、容量を継ぎ足せるタイプは出ている)。今こそ、家電メーカーの出番だろう。そして家電メーカーは、家庭用電力メンテナンス企業にもなるかもしれない。

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2011年5月12日 (木)

生誕130年『松岡映丘』展を鑑賞

今年、生誕130年になるという松岡映丘の回顧展を開催しているというので、姫路市立美術館に行ってきた。昔にも、何かの催しで、鑑賞しに行ったが、確か誰かと共催だったと思うが、今回は映丘のみの展覧会であった。

彼は、八人兄弟で、兵庫県神崎郡福崎町生まれ。夭折した三人の兄を除いた他の兄弟には、医師の松岡鼎、国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田国男、言語学者の松岡静雄がいる。それぞれが違う分野で、第一人者になったのは、凄いことだと思う。

映丘は、後、東京に行き、橋本雅邦に師事して、絵を学び、後、山名貫義に大和絵を習う。東京美術学校日本画科は首席で卒業している。その後、母校の助教授として教えている。

彼の初期の若い頃の作品は、王朝文化を、そのまま楽しんでいて、観る方も楽しい。例えば、『源氏物語』の「宇治十帖」の橋姫に題材をとった「宇治の宮の姫君たち」とか、「澪標」に題材をとった「住吉詣」、『今昔物語』から「伊衡の少将」など、明治から大正にかけて描かれたものだ。それらは純粋に楽しめる。

彼の絵は、基本的に鎌倉期の大和絵がベースなのだが、それに近代的な解釈を加えて、描くようになっている。そういうやり方には周囲との軋轢があったようだが、いつの時代にも、新しい取り組みには、大きな抵抗があるものだと思う。新境地を開くことに躊躇はなかった。それは後、「新興大和絵」の運動につながる。

残念ながら、流風には、普通の大和絵と新興大和絵がどう違うのか、明確には分かりかねる。ただ感じるのは、静の中の動かなという感じはある。特に人物像は、細部を見ていくと、その表現は細かい。そこには人物への映丘の意思が見て取れる。でも、意識しないと、それはわからない。

だから、ざっと見ていくと、見落としてしまう感じだ。なぜそれがわかったかというと、帰って図録を見ると、そんな感じがするのだ。彼が歳を取るにつれて、その感は強くなる。美術館では、余程注意しないと、わからない。それが映丘の何を意味することなのだろうか。

古典を題材にしながら、その切り口、解釈に深い意味を込めているのかもしれない。特に、晩年、とは言っても、彼は56歳までしか生きていないが、彼の描く題材は、悲劇のヒーローを描くことが多くなっている。

例えば、後鳥羽天皇、源実朝、平重衡、佐藤継信、源義経、楠正成等である。時代は、国に怪しい雰囲気が漂い始めた頃。芸術家の性として、何か悲劇的なものを感じ取ったのかもしれない。

あるいは、彼自身、多くの画家と同様、生命の危機が作風に影響を与えていた可能性もある。そういうところから出てくる無常観の表れかもしれない。それに反して、映丘は、本意か不本意かは、わかりかねるが、表舞台で、国を背負った画家として、活動せざるを得なかった。

それでも、表現の自由を許されなかった中で、苦心して少し自分の意思を反映させようとしたのかもしれない。表現の自由がある現代日本に感謝だ。だが、現代は、それだけ表現が直接的になり、芸術に深みが無くなっているのは、何たる皮肉か。彼の生涯と、その時代背景による表現の苦心を何となく感じてしまう展覧会であった。

*参考

姫路市立美術館での兵庫展は5月29日まで。なお島根展が、島根県立美術館で、2011年6月10日から7月18日まで、東京展が、練馬区立美術館で、2011年10月9日から11月23日まで、展示される。

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2011年5月11日 (水)

牡丹と蕪村

  方百里 雨雲よせぬ ぼたん哉   

これから、しばらく天候不順な日が続くという。沖縄では梅雨入りとか。でも、今回の雨は台風の影響らしい。そんな雨の中でも、夏の花である牡丹の花は、しっかり咲いている。

今年は大輪ではないけれど、その咲きっぷりは見事だ。堂々としている。年季の入った女将さん風(笑)。先に挙げた蕪村の俳句も、そういう意味なのかな。どんな色の牡丹だったのだろう。表現方法は違うが、彼の句には次のようなものもある。

  金屏の かくやくとして ぼたんかな

そうか、牡丹は金屏風か。花の王様。そう見えないこともない。もうすぐ咲くであろう芍薬と、比較されるが、牡丹の方が、どっしりとしているのは確か。なにせ「座れば牡丹」だから、それも当然か。流風はすらりとした芍薬も好きだが。ついでに百合もね(笑)。

でも、花の命が短いのは牡丹も同じ。先日、切り花にして、いい匂いを発していたものも、今は、花弁が一枚、二枚と落ちていく。無惨と言えば無惨。それを蕪村も俳句にしている。

  牡丹散りて 打(うち)かさなり   二三片

どんな美しい物も、終わりがある。でも、桜のように、小さい花びらが、はらはらと落ちて行くのもいいが、いつの間にか落ちた大きな花片が重なっているのも風情がある。後の掃除が大変だけれど(笑)。

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2011年5月10日 (火)

他社の社員は優秀?

隣の芝生が青いとは、よく言われる。ところが芝生は見る角度で、青く見えたりするので、錯覚に過ぎない。結局、実際は自分の家の芝生も、隣の芝生も、そんなに変わらない。

ところが、社員についても同様のことを経営者も往々にして勘違いするらしい。経営者は、社員についても、誤解をしがちだ。すなわち自社の社員より、他社の社員の方が優秀に見えたりする。それは経営者にとっても、社員にとっても不幸なことだ。

戦国時代から江戸時代にかけて活躍し、織田家、豊臣家、徳川家に仕え、明治まで続いた池田家繁栄の祖となった池田輝政(俗称、三左衛門)も同様な過ちをしていた。輝政は、他家の武士や浪人について、少し評判を聞くと、法外な禄で、召抱えようとした。

もちろん、家中の人材だけでは足りないと感じていたのかもしれない。将来を見据えると、不足を補うのはトップの役割でもある。だが、やり過ぎると、家中の反発を招くし、家中の雰囲気も悪くなり、招いた人間も居づらくなるものだ。

そのことを心配していた家老の伊木清兵衛は、病に倒れ、もう駄目だという時、輝政に言い残したいことがあると周りのものに伝えると、輝政が何事かと、早速やってきた。そこで、最後の諫言を伝えた。

それは、他家や浪人の召抱えを止め、もっと家中の人材をもっと俸禄を上げて、大切にしてください、ということだった。つまり家臣たちを信用して、重用することにより、やる気を引き出し、お家の安泰を目指せと忠言したのだ。

さすがに臨終の時に、そのようなことを言われて、輝政は恥じ、その忠言は生涯、守ると約束した。このようなことは、現代の企業でも、よく見られることだ。他社からスカウトしたり、中途採用して、より高い成果を望もうとする。

しかしながら、企業文化の違った所で育った人材が、新しい環境に馴染むには時間がかかるし、今までの企業文化で育った人が簡単にやり方を変えられないのも事実だ。そこで、うまく行かないと、前の企業でのやり方の変な自信から、失望したり、入社前に持っていた、やる気を失ったりする。

スカウトによる人材獲得や中途採用は、創業期の場合は、それはまだ自社の確たる文化ができていないからいいが、ある程度、企業文化が確立すれば、子会社で全く毛色の違う事業を起こすのでなければ、他社から人材を持ってくるのは、慎んだ方がいい。企業文化は、一朝一夕に作られるものではないということを経営者は心しなければならない。

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2011年5月 9日 (月)

防災・減災に関する書籍

私たち一般人は、案外、防災教育や減災教育を受けていない。これだけ災害の多い日本に住んでいながら、災害に対して、無防備かもしれない。そして、実際、被害を受けないと、身体で覚えないものらしい。寺田寅彦ではないが、「震災は忘れた頃にやってくる」のだろう。

そして、災害を受けて、国も地方も住民もあたふたする。これの繰り返しをしているようだ。今回の災害でも、あれだけひどい目に遭っておきながら、元の所に住みたいという人々はいる。仕事のためだと言うが、それだけだろうか。一種の諦めがそうさせるのだろうか。でも、それでいいのだろうか。

話題になった吉村昭著『三陸海岸大津波』(元の題は、『海の壁』、文春文庫刊)には、明治29年の津波、昭和8年の津波、チリ地震津波について、経験者の発言を集めた記録文学だ。これを読めば、津波の恐ろしさが伝わってくる。そして、今回の津波も同じことを繰り返しているのだが、なぜか対処していないことから、大きな被害を蒙ることになった。

現実の生活に追われてしまうと、過去の被災記録は忘れてしまうのかもしれない。でも、同じことを繰り返してはいけないだろう。将来の世代にきちんと伝えていく役目が、現代の人々に求められる。

そして、具体的な対処の指針としては、河田惠昭著『これからの防災・減災がわかる本』(岩波ジュニア新書)がある。これは本来、中学生、高校生を対象に書かれたもののようだが、一般人にも十分参考になる。

防災・減災に対して、あるべき姿が簡明に記されている。一読するだけで、全体像が把握でき、防災・減災が理解できる。これを読めば、現在、日本が抱えている災害対応について理解ができるだろう。

以上のような知識を持っていれば、少なくとも、防災訓練の意味は理解できるだろう(但し、氏は毎年、同じ訓練では意味がないと説く)。

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黒田八虎の後藤又兵衛

今回は、「黒田八虎」の一人、後藤又兵衛を取り上げる。後藤又兵衛は、同じく姫路市山田町出身で、官兵衛が育てた。後、黒田官兵衛の息子、長政と折り合い悪く、黒田家を去り、大阪の陣で、豊臣方につき、戦死している。

長政と折り合いが悪かったのは、長政がお坊ちゃん育ちだから。それは武田勝頼と似ている。両方とも、親は、ユニークな考えの持ち主で、癖のある人材も使いこなすほど器が大きい。

それに対して、息子たちは、大事に育てられた平凡な人たち。無能ではないかもしれないが、優秀でもない。そういう人たちに、個性の強い人材は使いこなせない。彼らが発する少し嫌味な発言や行動に敵意を持ってしまう。

後藤又兵衛も、官兵衛に対しては、自由闊達に発言していたから、代が変わったからと言って、簡単にそれを変えられない。その辺が難しい所。上司が変われば、対応も変えなければならないのだろうが、そんなに器用に変えられない。それが戦国武将の彼の持ち味でもある。

また彼には、黒田家を去った後、彼を百人力と高く評価していた諸国から多くの誘いがあったが、それは断っている。それが黒田家に対する恩顧という思いがあったのかもしれない。世渡りが下手と言えばそうだが、それが武人というものだろう。

結局、黒田家は、大切な人材を失ってしまい、又兵衛にしても、不本意な人生を送らざるを得なかった。この辺の人生模様は、人間の哀しさであろう。今でも、トップの代替わりでちょっとした行き違いから人間関係が悪くなることがある。歴史に学びたいものだ。

*追記

この人間関係の難しさを解決するには、いろんなやり方がある。

まず、事業を将来継がそうとする子供たちには、他人の飯を食わして、従業員の気持ちを習得させる。次に、子供が事業を継ぐ場合は、古参の幹部には、全て引退してもらう。

というような手が打たれた例が多い。もちろん、これでも万全ではない。子供に経営するセンスが無ければ、事業を引き継がせてはならない。親ができて、子供ができるとは限らない。そこで、大阪船場では、従業員の中から優秀な者を選び、養子として迎え、事業を継がせるということがやられてきた。

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2011年5月 8日 (日)

黒田八虎の母里太兵衛

黒田官兵衛が黒田家草創期の頃、姫路時代の子飼いの家臣たち24人を「黒田二十四騎」と呼んだことは先日のブログで記した。その中でも、「黒田八虎」と呼ばれた人たちは出色の働きをしたらしい。黒田八虎とは、次の人々。

  黒田(利高)兵庫助

    黒田(利則)修理亮

  黒田(直之)図書助

  黒田(一成)三左衛門

  栗山(利安)四郎右衛門

  井上(元房)九郎右衛門

  母里(友信)太兵衛

    後藤又兵衛

残念ながら、流風に強い印象があるのは、母里太兵衛と後藤又兵衛ぐらい。今回は、母里太兵衛について、少し触れてみよう。彼は、姫路市飾磨区妻鹿(めが)の出身。名前からすると一族は出雲出身か。そして、母里(友信)太兵衛は、誰でも知ってる『黒田節』を生んだきっかけとなった人。

  酒は呑め呑め 呑むならば 日本(ひのもと)一のこの槍を

  呑み取るほどに 呑むならば これぞ真の黒田節

秀吉が朝鮮出兵した、文禄・慶長の役で、休戦中の時、太兵衛は、官兵衛の息子の長政の使者として、福島正則のもとに使わされる。そこで、酒論議となり、福島正則が、酒を勧めると、使者ということで一旦断る。

ところが、正則が、少し茶化し気味に、「黒田武士は酒が弱い」とからかうと、最初は使者の身ゆえ、遠慮していたが、もともと酒に自信のある太兵衛は、正則が秀吉から拝領した秘蔵の槍「日本号」を頂けるのなら、大杯の酒を数杯飲み干しましょうと言う。

正則も、行きがかり上、断ることもできず応じると、太兵衛は見事飲み干し、件の槍をせしめた話。酒の上の話とは言え、飲み干せば、槍をやるという約束を守った正則も偉いが、両者とも豪傑で、豪傑は豪傑を知るということか。

彼は、単に酒が強いだけでなく、戦場での働きも一番だった。それを正則も認めていて、自分より高く評価していたから、大事な槍を彼にやったのだろう。酒は単に口実で、始めから、やるつもりだったかもしれない。何かと脇の甘い正則だが、人間的にはわかりやすい。流風は、どちらの豪傑も大好きだ(*注)。

*注

ただ、次のような話も伝わる。福島正則は酒が覚めて起きると「日本号」がない。家臣に問うと、「酒宴の後で、殿が約束された通り、母里太兵衛殿が持ち帰られました」と。これにはびっくりして、太兵衛に返してくれと頼むも、「武士に二言はないはず」と返そうとしなかった。

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2011年5月 6日 (金)

官兵衛と黒田二十四騎

黒田官兵衛が黒田家草創期の頃、支えた24人を「黒田二十四騎」と呼んだ。そのメンバーと略歴は次の通りだ。

◎黒田(利高)兵庫助

官兵衛の同母弟。官兵衛の八歳下の弟。姫路城生まれ。小一郎と名乗る。官兵衛に従っていたが、官兵衛が秀吉に仕えた時、秀吉に仕えている。その時、兵庫助という官名を名乗る。各地を転戦して活躍。豊前入国後は、再び、黒田家に戻って、若くして中津城主になった長政の後見人になっている。人望があり、家中から慕われた。

◎黒田(利則)修理亮

官兵衛の異母弟(母は神吉氏)。官兵衛より十五歳下の弟。姫路生まれ。官兵衛が秀吉に仕えた時、秀吉・秀長に仕え、修理亮という官名を名乗る。官兵衛の豊前入りに伴い、黒田家に戻り家来になる。関ヶ原の役では、九州各地を転戦。官兵衛没後、菩提を弔うため、その画像を崇福寺に奉納。

◎黒田(直之)図書助

官兵衛の異母弟(母は母里氏)。官兵衛より十八歳下の弟。姫路生まれ。兄たちと同様、秀吉に仕えるが、後、黒田家に戻っている。図書助という官名は、官兵衛が亡くなってから名乗っている。官兵衛の影響でキリスト教に入信し、秀吉の禁教令以後も、最後まで信仰を貫いた。洗礼名は、ミゲル。

◎黒田(一成)三左衛門

官兵衛が有岡城に、謀反を起こした荒木村重を説得に行くが、逆に幽閉されていた時、看守であった彼の父が官兵衛を庇護。後、官兵衛は、その恩に報いるため、遺児の一成を引き取り、養子として迎えた。芸術的側面も有り、黒田長政騎馬図を製作した。

◎栗山(利安)四郎右衛門

姫路市栗山町生まれ。知恵も有り、実戦に強く、官兵衛にとって第一の家来。官兵衛は、四郎右衛門と何かと問題を起こす猪武者の母里を義兄弟にさせている。四郎右衛門は、度々、母里を諭しているが、仲はずっとよかった。有岡城に幽閉されていた官兵衛を母里と一緒に救出。官兵衛臨終の際、愛用の鎧兜を与えられ、長政の補佐役を託される。彼の息子は、後、黒田騒動の中心人物になる。

◎井上(元房)九郎右衛門

姫路市白浜町松原の生まれ。官兵衛の父、職隆、官兵衛、長政と三代に仕える。丈も低く非力であったが、知略を重んじる戦術家で、その才を官兵衛、長政に見込まれた。朝鮮の役で、戦功あり。

◎母里(友信)太兵衛

姫路市飾磨区妻鹿の出身の地侍。親は黒田家初代家老の曽我大隅守。官兵衛の、またいとこになる。一番の酒呑みで、大杯の酒を呑み干し、福島正則の秘蔵の槍をせしめ、民謡「黒田節」に歌い継がれている。

◎後藤又兵衛

姫路市山田町生まれ。官兵衛が養育。多くの戦功を挙げたが、官兵衛亡き後は、黒田家を去って、大坂の夏の陣で豊臣方について、戦死。

◎久野四兵衛

播磨国生まれ。父の代から、黒田家に仕え、官兵衛の小姓になり、後、秀吉の九州平定後、戦乱で荒廃した博多の復興に力を注ぐ。

◎野村太郎兵衛

母里(友信)太兵衛の弟で姫路生まれで、妻の姓を継ぐ。幼児から黒田家に仕え、九州の陣で活躍し、宇都宮鎮房を討伐に功を挙げる。朝鮮の役でも戦功。

◎桐山孫兵衛

元々は近江の国の人。後、播磨国に下り、黒田三代に仕える。官兵衛に従い、青山の合戦で初陣。朝鮮の役では、長政の下で高名を上げる。

◎吉田六郎太夫

姫路市八代の生まれで、官兵衛に仕える。彼の母は官兵衛の乳母。本姓は八代氏で、代々赤松家の家臣だった。官名は壱岐。二間半の槍を持ち歩き、多くの戦功を挙げた。備中高松城の水攻めでは、船の底に穴を開けて船をを沈めて、川をせき止める。

◎小河(おごう)伝右衛門

播磨国美囊郡の生まれと伝えられ、小城主の弟。小寺氏に仕えた後、官兵衛に従い、九州の役で高名を挙げる。その他にも各地で戦功あり。朝鮮の役の働きでは、小西行長から「日本一の勇士」と称賛される。

◎菅六之助

美作の出身。生まれは、たつの市新宮町。官名は和泉。幼時から黒田家に仕え、宮本武蔵の父に学んだ剣の達人だった。朝鮮の役では、虎を一刀のもとに切り伏せた。関ヶ原の役では、小早川秀秋の寝返りを画策する使者になった。

◎三宅山太夫

姫路市飾磨区三宅の生まれの地侍。官兵衛が、孫子の「不動如山」から名付け、三太夫名乗らせたという。官名は若狭。豪胆であったからという。後、黒田水軍を任される。

◎野口左助

加古川市野口町生まれ。父は教信寺の僧で、官兵衛の囲碁友達。母里(友信)太兵衛は義兄にあたる。官兵衛に仕え、佐用城や三木城攻めで功績。九州の陣や朝鮮の役でも活躍。

◎竹森新右衛門

姫路市上大野の生まれ。元々、豪農の出。姫路にやってきた黒田家を何かと支えた家柄。職人軍団を組織化。佐用城攻めで、城主兄弟を討ち取る働きをする。別府城の戦いで、左手を負傷し、官兵衛が気遣い、旗奉行に任じる。

◎益田与助

印南郡益田(加古川市東神吉町)の生まれ。貧農の出身。官兵衛の下僕であったが取り立てられ、後、数々の手柄を立てる。足軽の扱いがうまく、足軽大将にまでなった。生涯、律儀で正直者で通した。ただ文字が書けず、話し方も変わっていたので、出世の邪魔になっている。

◎林太郎右衛門

信濃国軽井沢の出身。本姓は松本氏。松本氏は、元々は武田家の家来であったが、長篠の役で大敗した後、播磨国に移り住み、次男の太郎右衛門は官兵衛に養育され、仕える。槍の達人で、朝鮮の役では、虎を突き殺し、講談「加藤清正の虎狩り」のモデルになった。関ヶ原の合戦では、長政に従軍し、戦功を上げる。兄がいたが能力が無く、後に福岡で、彼の家来になっている。

◎原弥左衛門

筑前国の名族宝珠山氏の支流出身で、本姓は原田氏。九州の陣後、秀吉の命により、官兵衛に仕える。九州の地理に明るい点が活用され、黒田軍を大いに救った。

◎堀平右衛門

播磨国の生まれ。農民出身のため姓はなかったが、官兵衛に仕えて、官兵衛の母親の明石氏の姓をもらっている。栗山備後の娘を妻に迎えている。長政の従卒から朝鮮出兵時に異例の抜擢で直参になった。朝鮮の役で、晋州(ちんじゅ)城の一番乗りになるなど、堀際での戦功が多かったため、それで堀姓に変えた。後に秋月藩の家老。領地経営の能力は高かったが、藩主から煙たがられる。

◎衣笠久右衛門

播磨国明石郡の生まれで小城主の弟。元々、小寺氏に仕え、明石郡端谷城主。後に与力として黒田家に属した。官兵衛が、小寺政職の遺児を呼び寄せる際には使者になった。朝鮮の役でも奮戦し、九州の陣で戦功あり。

◎毛屋主水

近江国神埼郡の出身。本姓は田原氏。柴田勝家、佐々成政などに仕えた後、長政に従う。戦争のプロで傭兵であった。気象状況や敵情の視察に優れていた。朝鮮の役で活躍。

◎村田兵助

姫路市井の口の生まれ。本姓は井口氏。姫路近郊の豪農の出身。ただ、がさつ者で周囲からは嫌われていたらしい。広峯神社の神主・井口太夫の甥。幼児から官兵衛に仕え、長政が信長の人質に送られた時、付きそう。

*注記

以上の内容は、以前に、どこかでもらった「黒田サミット実行委員会事務局」が作成されたパンフレットの内容を参考にした。

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2011年5月 4日 (水)

卵焼き器の買い替え

卵の値上がりが続いている。あまり安い物は購入しないので、流風の場合は、あまり実感はない。外食はあまりしないが、素材は、できるだけ、いい物を買うというのが基本的な方針。生卵で、味わうと、その差は歴然だ。

ただ、子どもの頃は、生卵は食べさせてもらえなかった。刺身も許されなかった。大きくなっても、背の青い魚の刺身は、たとえ新鮮なものでも禁じられた。母の方針は、子どもの食べ物は、全て火を通すというもの。もちろん、肉類の生ものを食させるというのは、あり得なかった。

さて、今では、生卵も食するが、夏場は避けている。基本的に火を通す。スクランブルエッグにするか、目玉焼きか、焼き卵が多い。スクランブルエッグや目玉焼きは、フライパンで調理するからいいが、焼き卵は、卵焼き器が必要だ。

最近、焼き具合があまりよくない。サラダ油では駄目で、オリーブ油をひいて、焼けば、一応焼き上がるが、満足できるものではない。そこで、思い切って買い替えることに。売り場に行くと、安物から高い物まで色々。でも、フライパンほど価格差はなさそうだ。

結局、少し重いけれど、鉄製のものにした。値段も手ごろだった。早速、帰って焼いてみると、きれいな卵焼きができた。いい感じ。これなら、もっと早く買い換えるべきだった。これで、これからの夏の卵料理には困ることもない。

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2011年5月 3日 (火)

即かず離れずのコミュニティ

人間関係は複雑だ。人は基本的に自分が一番だからだ。だから、どんなに好きな友人でも、ずっと一緒に居るのは辛くなる。でも、いつも一人だと寂しい。そういう心の葛藤から、いろんな人間関係が生まれる。

さて、東日本大震災の被災地に対して、一時避難について、神戸の関係者・研究者は、阪神淡路大震災の高齢者の孤独死の多さの経験から、コミュニティごとの移転を促し、提案していたようだが、必ずしも、うまく行かなかった(もちろん、うまく行ったケースもある)。

基本的に、孤独死とコミュニティの密度はあまり関係が無い。好きな人間もいれば、嫌いな人間もいるのがコミュニティだからだ。以前にも記したが、コミュニティの緊密さは地域によっても違う。強い絆のところもあれば、緩い絆のところもある。

大体、コミュニティというのは、自己を束縛するものでもある。そこには自由は制限される。避難所に長期に滞在できないのは、肉体的辛さ以外に、そういう理由もある。だから、人は適度なコミュニティへの参加は望まれるが、どんな時でも、適度な自由度がないと息苦しいのも事実なのだ。

それを神戸の関係者・研究者は、震災の経験から、コミュニティの集団移動を促したのは大きなお世話ということになろう。今回は被災住民の本音を、それぞれに聞き出していない。中には、村八分にならないため、渋々応じている人たちもいる。

できるだけ、他者と近くであることは望まれるが、あまり近くでなくてもいいというのが多くの人の本音でないか。人間の本質を見誤ると、間違った常識を作りかねない。であれば、仮設住宅にしろ、公営住宅にしろ、借上げ賃貸住宅にしろ、あまり固まって移動する必要はない。

人は、新しい環境に慣れるものだ。それに現代は、連絡さえ取れれば、孤独は解消できる通信手段も多い。その辺は、今後の災害において、柔軟に運営する必要がある。基本的には、「即(つ)かず離れずコミュニティ」の推進を目指して欲しいものだ。

*追記

以上のことは、被災地の自治体が、先月から、みなし仮設住宅(民間賃貸住宅の借上げ。2年間無償。保証金とかで手続きが遅れていたようだ)の募集をかけたところ、仮設住宅の当選を辞退して、こちらの方に申し込みが集中していることからも伺える。

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2011年5月 2日 (月)

黒田官兵衛について

姫路文学館で、『黒田官兵衛の魅力~天下をねらった播磨の智将』という展覧会が開かれるということで鑑賞してきた。黒田官兵衛というより、出家後の黒田如水の方が有名かもしれない。彼については、拙ブログでも、取り上げたことがある。豊臣秀吉が、自らの参謀でありながら、最も恐れた人物とされる。

彼については、若い時に、司馬遼太郎の『播磨灘物語』を読んで、始めて、その存在を詳しく知った。何回も読みこんだ訳ではないが、今でも処分せずに蔵書としてある。読んでわかったのは、彼は智将そのもので、頭のよさを表に出すタイプ。

時代を見通す力は確かにあっただろう。目から鼻に抜ける秀才タイプだ。よって第三者に警戒されやすい人物でもある。もちろん、隙あらば天下を取ってやろうと思ったのは、伊達正宗と通ずるものがある。やる気を表に出し続けたのだろう。部下は、その方がついていきやすい。

残念ながら、両者とも、時代のタイミングが合わず、そういう機会には巡りあわなかった。天下を取るというのは、ちょっとした運命のいたずらなのかもしれない。

ただ、トップの資質というものは、若干「ヌケ」というか「隙」の要素が必要だ。仕える者が、一種の母性愛を感じるようでないと、いけない。ちょっと駄目だけれど、なんとか、この愛すべき大将を成功させてやろうという部下の思い。トップには、多方面において、いろいろ支えてくれる人材が必要だ。

そういう意味では、特に参謀型人材の官兵衛は、智将の域を出ない。トップとして君臨するのは難しい。現代で言えば、彼は企画開発型人材。いろんなことに通じていて、広く世間を知っている。そして、情報をさばく技術も持っている。

彼は、実際、文化、茶道、連歌にも通じており、更に切支丹信仰にはまる(*注)。新しいことに関心を示し、次々と取り入れた。革新的ということでは、織田信長に通じるものがあるかもしれない。信長と違うのは、彼が代々の国守の統領でなかったこと。

そして最も大きい課題は、彼の部下に智将はいなかったことだろう。いつまでも、彼は智将であることを求められる。智将の下には智将がつかないのだ。そこに智将がトップになる限界がある。

それでも、官兵衛は、人間的には十分、面白い人物だろう。展覧会では、「官兵衛の生涯(軍師として、武将として)」、「文化人・官兵衛(キリシタン信仰、連歌、茶の湯)」、「官兵衛をめぐる人びと(妻と子、黒田二十四騎)」、「官兵衛をえがく(記録、文学、その他)」として、それぞれ紹介してある。

ずっと見ていくと、当時、なかなか教養のある武人であったと思う。でも、天下を取るには、教養が邪魔をしたかもしれない。あるいは先が見え過ぎることが、がむしゃらに奪い取る思考を妨げたかもしれない。でも、そういうところが、官兵衛の魅力だろう。

なお、彼の辞世の句は次の通り。

  おもひおく 言の葉なくて ついに行

    道はまよはじ なるにまかせて

人間、死を目前にすると、思いは皆、同じようである。享年57歳であった。

*注

このことが秀吉を更に警戒させる。キリスト教の布教者たちは、子どもたちの多くを海外に売り渡していた事実を秀吉は知っていた。彼らの片棒を担ぐキリシタンは信用できないということにつながる。なお、後に、官兵衛は秀吉に言われて、棄教している。

但し、イエズス会は、それは認めていない。むしろ、彼の葬儀を盛大にして、広告塔として利用している。なお官兵衛は、子供長政に、キリスト教を強要していない。その辺は、彼独特の哲学が感じられる。

*参考 官兵衛の経歴および評価(崇福寺、如水居士像に記す)

黒田勘解由次官孝高は、職隆の嫡子なり。母は明石氏、天文十五年丙午の歳十一月二十九日辰の時、孝高を播州姫路に生り。此時雲降て其家おほふ。

是英雄の生まる、気端なるべし。又家門の繁盛すべき前兆なるか、幼よりして大志あり。其天性聡明頴敏にして、才智たくまじく、武略人にすくれたり。勇猛英武なる事も亦世に類すくなし。

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