« 今年の家庭菜園はトマト | トップページ | 近畿・中国・四国B-1グランプリに行く »

2011年5月21日 (土)

『播磨国風土記』を読む その五 野見宿禰

震災で、あまり読む気になれず、中断していた『播磨国風土記』を、改めて読み進めていくと、その中に、野見宿禰が播磨国で亡くなったことが記されている。今回は、彼のことについて、多少触れてみようと思う。

この風土記では、野見宿禰という文字ではなく、土師弩美宿禰(はにしのみのすくね)となっている。彼が、揖保郡●(日の下に下という文字。「日下」と同じで、くさかと読む)部の里の立野(現在の兵庫県たつの市)で、病を得て、亡くなったとある。

彼は、大和と出雲国と行き来して、途中、「くさかべ野」に泊まり、そこで亡くなったのだ。病気になったから、泊まったのだろう。養生しても治らず、そのまま死を迎えたのかもしれない。彼が亡くなると、多くの出雲の人々がやって来て、まず山に遺体を運ぶため、連なって立ち、手から手へ運んだという。

そして、同様に、川の石も、そのように運んで、墓山を造って、それは「出雲の墓屋」となったという。その人が立ち並んだことから、この地を、「立野」と呼ばれるようになったという。風土記に記されているのは、それだけである。「立野」は、現在の兵庫県たつの市龍野町立町辺りだ。

そもそも、野見宿禰は、出雲国出身で、垂仁天皇の頃、大和朝廷と行き来したようだ。当時一番強いと言われていた強力当麻蹴速(たぎまのけはや)と競わせるため、出雲から召し出されたからだ。結局、蹴速に角力、要するに相撲で勝ち、朝廷に仕えることになる。

後、彼は皇后の葬礼の際に、天皇が殉死を禁じたので、埴輪の原型となるものを人の代わりに並べることを提案し、それまでの多くの哀しみを取り去った。もちろん、これは先に天皇に提案して、天皇が了とした可能性もある。

いずれにせよ、このことで彼は評価され、以後、天皇の葬祭を司ることになる土師(はにし)の職に任じられる。当時、悪い慣習を打ち破ったことは革新的だと思う。その後も、一族は葬祭や古墳築造に関わることになる。その祖先となる彼が、播磨の地で、最後を迎えたのは、不思議な縁だ。

彼は、兵庫県たつの市にある野見宿禰神社に祀られている。龍野神社に合祀されており、神社奥の山に神社があり、墓所となっている。実際は、拝観できないようで、手前までしか行けない。それでも、現在でも、多くの力士が参拝するようだ。いずれ機会があったら、かなり石段を上らねばならないようだけれど、参拝してみたい。

|

« 今年の家庭菜園はトマト | トップページ | 近畿・中国・四国B-1グランプリに行く »

姫路と播磨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 今年の家庭菜園はトマト | トップページ | 近畿・中国・四国B-1グランプリに行く »