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2011年5月 2日 (月)

黒田官兵衛について

姫路文学館で、『黒田官兵衛の魅力~天下をねらった播磨の智将』という展覧会が開かれるということで鑑賞してきた。黒田官兵衛というより、出家後の黒田如水の方が有名かもしれない。彼については、拙ブログでも、取り上げたことがある。豊臣秀吉が、自らの参謀でありながら、最も恐れた人物とされる。

彼については、若い時に、司馬遼太郎の『播磨灘物語』を読んで、始めて、その存在を詳しく知った。何回も読みこんだ訳ではないが、今でも処分せずに蔵書としてある。読んでわかったのは、彼は智将そのもので、頭のよさを表に出すタイプ。

時代を見通す力は確かにあっただろう。目から鼻に抜ける秀才タイプだ。よって第三者に警戒されやすい人物でもある。もちろん、隙あらば天下を取ってやろうと思ったのは、伊達正宗と通ずるものがある。やる気を表に出し続けたのだろう。部下は、その方がついていきやすい。

残念ながら、両者とも、時代のタイミングが合わず、そういう機会には巡りあわなかった。天下を取るというのは、ちょっとした運命のいたずらなのかもしれない。

ただ、トップの資質というものは、若干「ヌケ」というか「隙」の要素が必要だ。仕える者が、一種の母性愛を感じるようでないと、いけない。ちょっと駄目だけれど、なんとか、この愛すべき大将を成功させてやろうという部下の思い。トップには、多方面において、いろいろ支えてくれる人材が必要だ。

そういう意味では、特に参謀型人材の官兵衛は、智将の域を出ない。トップとして君臨するのは難しい。現代で言えば、彼は企画開発型人材。いろんなことに通じていて、広く世間を知っている。そして、情報をさばく技術も持っている。

彼は、実際、文化、茶道、連歌にも通じており、更に切支丹信仰にはまる(*注)。新しいことに関心を示し、次々と取り入れた。革新的ということでは、織田信長に通じるものがあるかもしれない。信長と違うのは、彼が代々の国守の統領でなかったこと。

そして最も大きい課題は、彼の部下に智将はいなかったことだろう。いつまでも、彼は智将であることを求められる。智将の下には智将がつかないのだ。そこに智将がトップになる限界がある。

それでも、官兵衛は、人間的には十分、面白い人物だろう。展覧会では、「官兵衛の生涯(軍師として、武将として)」、「文化人・官兵衛(キリシタン信仰、連歌、茶の湯)」、「官兵衛をめぐる人びと(妻と子、黒田二十四騎)」、「官兵衛をえがく(記録、文学、その他)」として、それぞれ紹介してある。

ずっと見ていくと、当時、なかなか教養のある武人であったと思う。でも、天下を取るには、教養が邪魔をしたかもしれない。あるいは先が見え過ぎることが、がむしゃらに奪い取る思考を妨げたかもしれない。でも、そういうところが、官兵衛の魅力だろう。

なお、彼の辞世の句は次の通り。

  おもひおく 言の葉なくて ついに行

    道はまよはじ なるにまかせて

人間、死を目前にすると、思いは皆、同じようである。享年57歳であった。

*注

このことが秀吉を更に警戒させる。キリスト教の布教者たちは、子どもたちの多くを海外に売り渡していた事実を秀吉は知っていた。彼らの片棒を担ぐキリシタンは信用できないということにつながる。なお、後に、官兵衛は秀吉に言われて、棄教している。

但し、イエズス会は、それは認めていない。むしろ、彼の葬儀を盛大にして、広告塔として利用している。なお官兵衛は、子供長政に、キリスト教を強要していない。その辺は、彼独特の哲学が感じられる。

*参考 官兵衛の経歴および評価(崇福寺、如水居士像に記す)

黒田勘解由次官孝高は、職隆の嫡子なり。母は明石氏、天文十五年丙午の歳十一月二十九日辰の時、孝高を播州姫路に生り。此時雲降て其家おほふ。

是英雄の生まる、気端なるべし。又家門の繁盛すべき前兆なるか、幼よりして大志あり。其天性聡明頴敏にして、才智たくまじく、武略人にすくれたり。勇猛英武なる事も亦世に類すくなし。

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