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2011年6月30日 (木)

『播磨国風土記』を読む その七 景行天皇の恋

『播磨国風土記』には、第12代景行天皇の恋が語られている。風土記では、大帯日子(おおたらしひこ)天皇とある。景行天皇の事は、あまり知らなくても、多くの方がヤマトタケルのことはご存じだろう。景行天皇は彼の父である。後、ヤマトタケルは、父と共に、大和朝廷に逆らう熊襲や蝦夷を平定する。

ヤマトタケルの母は、播磨(針間)の印南(いんなみ)の別嬢(わきいらつめ)だ。彼女の表記は、伊那毘能(稲日野)大郎女となっているものもある。彼女は播磨が生んだ唯一の皇后であると云われる。ただ、どういうわけか、皇后になっても、大和朝廷には入らず、氷の川(現在の兵庫県加古川市)周辺に住んだ。よってヤマトタケルも、播磨で育った可能性が高い。

それでは、景行天皇の恋の行方を以下に記してみよう。彼は、多くの天皇がそうであったように、狩りに出かける。そこで、印南別嬢を見染めるのだ。彼女は地方豪族の娘であっだろう(但し、大和朝廷の一族という説もある)。それで、すぐ求婚をするが、頑なに断られる。景行天皇のいろんな悪い噂を聞いていたのだろう。彼女は、多くの中の一人になりたくなかったのかもしれない。

しかしながら、断わられれば、余計に募る景行天皇の恋心。ついには三種の神器を持ち出し、それを身につけ、妻問いに向かう。一体どんな格好だったのだろう。八咫(やた)の剣を吊るした上結帯には八咫の勾玉をつけ、もう一本の帯の下結には、麻布都の鏡をつけてのことらしい。

更に、念には念を入れて、今回は仲人を立てる。賀毛郡の伊志治という者に仲介させているのだ。今は仲人なんて、結婚式でも立てないカップルも多いようだが、縁談は、当人同士が知り合いでも、仲介者を入れることで、話がまとまることが多い。

景行は、どうしても、一目惚れの印南別嬢を妻にしたかったようだ。彼は賀古の郡に向かう。ところが、世間知らずで、その高慢な態度から、船に乗せてもらえない。結局、冠についていた金飾りで、船賃代わりにし、ようやく乗船でき、播磨国の明石に着船。そこで腹ごしらえをして、まもなくして賀古の郡に着く。

それを察知した別嬢は、天皇が来ることを畏れ、逃げてしまう。天皇を拒み続けたから、すなわち、「否む」で、加古川平野一帯を印南野(いなみの)と呼ぶようになったと云う。彼女が逃れた所は、後年、南眦都麻(なびつま)と呼ばれる島だった(現在のどこかは不明)。妻(別嬢)が靡いたという意味だろう(ただ、風土記では、景行天皇が、印南別嬢が隠れた島として、「隠愛妻(なびはしつま)」と言ったことから南眦都麻嶋と名付けたとある)。

天皇は、別嬢が居ないと知って残念がる。なぜ私の気持ちを分かってくれないのか。ところが、そこに別嬢が飼っていた犬が残っており、それが島の向こうに、矢鱈、吠える。別嬢はなぜ、犬を残したのか。密かに急に逃げたため仕方なかったのか、あるいは犬は乗船できなかったのか。

いずれにせよ、これは飼い主が、島に逃げたのだなと分かって、別府港から島に渡り、別嬢に会う。これには別嬢も観念して、そこまで思ってくれるのならと、彼の思いを受ける。やはり女性は押しの一手ですなあ(笑)。男は想いを懸けたら命がけ。惹かれるのは、やはり男女の中に何かがあるのだろう。

最終的には、仲良く引き揚げ、二人の世界構築のため、播磨国内をあちこちを転々とする。まあ、新居の場所は大切。そして、結婚式を挙げ、初夜を迎えるのであった(但し、島から帰って来て、すぐ婚前交渉はあったと記されているので、あくまで儀式上のこと)。めでたし、めでたし。男女の恋は、遠い古代も、現代も変わらない。

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2011年6月28日 (火)

『老子』 第二章 存在たらしめるもの

子供の頃、親から、この世は絶対的なものは存在せず、相対的なものだと教えられた。子供の時は、あまりよく分からなかったが、今になって思うと、正しい示唆だった。世の中は、人間社会であり、絶対的なものはなく、対象に相対化されている。

このことは、『老子』にも指摘してあると知ったのは、後年のことである。すなわち、第二章に記されている。

 天下皆、美の美爲るを知れば、斯れ悪のみ。

 皆、善の善爲るを知れば、斯れ不善のみ。

 故に有無は相生じ、難易は相成し、長短は相較し、高下は相傾き、

 音声は相和し、前後は相随ふ。

 是れを以て聖人は、無為の事に處り、

 不言の教を行ふ。

 萬物作りて而して辞せず。

 生じて而して有せず。

 爲して而して恃まず。

 功成りて而して居らず。

 夫れ唯居らず。

 是を以て去らざるのみ。

解釈としては、次のようになるだろうか。

「世の中の全ての人は、美が美であると認識するには、醜さの存在することを前提としている。また世の中の全ての人が、善が善であると認識するのは、不善の存在を考えている。これは、美醜、善不善だけでなく、有無も、難易も、長短も、高低も、音の高低も、前後についても、同様なことが言える

以上のように、相対的な世の中に住むということは、自己が他者に存在たらしめられているのだから、聖人は、無為の世界に身を置き、あるがままに、言葉なきやり方でやっていく。そのようにすると、万物が興っても、それを押しとどめることはしないし、物が生じても、それを持とうとしないし、自らの力で何事かを成しても、手柄とはしないし、その地位に居ろうともしない。こういうやり方をしていると、自ら去ることもなく、追われることもない」と。

私達は、相対の中で、他者に存在づけれており、自分も他者を存在せしめている。であれば、もっと自然体でいれば、万事、無事に過ごせるのだと説いているのだろう。

もちろん、人間には、見栄もあれば欲もある。あるいは他者によって競争心にも駆られる。そういうことをいろいろ経験して、老子のような考え方に至ることはいいかもしれない。

しかながら、そういうことも経験せず、いきなり老子の考え方に至ることは、若い人に求めない。それは若年寄りと呼ばれて、あまり宜しくない。ただ、頭の片隅に、少し入れていることは無意味ではないだろう。

 

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2011年6月27日 (月)

公助、共助、自助

千葉県で、東日本大震災の影響で、液状化が生じ、家が傾いたということで、国の支援を求めているが、現時点では、国が支援することはおかしい。首相は、二次補正とか、三次補正で検討するとしたが、本来、支援すべき筋合いのものではない。

最近は、何でもかんでも、国に援助を求める人が多いが、災害時の「公助」の範囲は限られる。これをどんどん適用範囲を広げていけば、きりがない。もちろん、家が傾いた方の不幸には同情するが、国に対する過剰なまでの依存心は、自然災害による被災であっても、あまり宜しくない。

国にお金があり余っている時は、そういうことも可能かもしれないが、今は、そんな時でもない。私達は、残念ながら、公助に期待し過ぎてはいけない時代に生きているのだ。今後も、いろんなケースが出てくるかもしれないが、基本的に災害には昔のように自助で取り組まねばならないだろう。

その上で、地域としての共助で、問題を解決する仕組みも求められる。共助は昔は、相互扶助として、その住む地域に限られたが、日本のように災害の多い国では、全国で共助の仕組みを作ることが必要だ。広い意味では、ボランティアも義援金も、それに含まれるかもしれない。そのことにより、公助や自助で、できないことが、ある程度カバーできる。

いずれにせよ、国への依存心を下げることが、全国民に求められていることは確かだ。お上意識が、未だに残っているのは、まだ国にぶら下がる意識が高いからだ。そのため、国民は、災害に対する主体性を失い、政治家は、それを政争ネタに活用する悪循環になっている。

本来、国が何かやってくれることは、あまり期待しない方がいい。それには、まず一人ひとりがリスク管理を強めることが大切だろう。自助とは、本来そういうものだ。

*追記

住宅の再建のためには、共助としての、ほとんど全ての自然災害をカバーする「住宅再建共済」の全国版が必要だ。兵庫県ではフェニックス共済として実施しているが、兵庫県知事が旗振りしても、なかなか他の都道府県の賛同が得られない。しかしながら、公助には限界がある。早く公助から共助への彼らも意識転換が求められる。

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2011年6月26日 (日)

金融庁連帯保証に関する監督新指針について

金融庁が、金融機関が中小企業などに融資する際の連帯保証に関する監督指針を改正するようだ。金融機関は、中小企業経営者に対して、融資の条件として、家族や知人の連帯保証を求めてきた。そのために、多くの悲劇が生じ続けてきた。

今回、経営に直接関与していない個人連帯保証を、原則として禁止するようだ。過去の債務には適用されないが、改善の一歩であろう。新指針で、連帯保証の対象から外すのは、経営に関与していない家族、親族、先代経営者、仕事上の関係者等。

だが、本来は、ノンリコースローンにする時代に、日本を取り巻く経済環境はなっている。銀行は、常にリスクを取ることなく、融資業務をしてきたが、やはり、これが問題。融資した時点で、銀行もリスクを取るべきで、本来、個人保証を取ることが問題。

基本的に、担保がなければ融資しない姿勢を貫けばいい。また経済状況が変わって、担保価値が落ちても、それは銀行が被るべきだろう。逆に例は少ないかもしれないが、担保価値が上がれば、金融機関の利益になる。

時代が変わったのだから、いつまでも昔のやり方を続けるのはおかしい。金融機関も、そういうリスクマネジメントを行う必要がある。今回の金融庁の新指針が、次のノンリコースローンへのステップアップになるよう期待したい。

*追記

ノンリコースローンでは、なかなか融資が得られないと心配する向きがある。しかしながら、日本は成熟社会であり、経済が高度に成長している時代とは違った融資方法が求められる。本来の融資の形にすべきだろう。

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2011年6月25日 (土)

借金は自己責任

東日本大震災の被災地で、二重ローンに苦しむ人がいる。それに対して、ある政党から被災した物件のローンを棒引きしようという暴論まで出たりしている。それはモラルハザードを生むので、いかなる時でも宜しくない(*注)。

基本的に借金は自己責任だ。自然災害で、資産が失われようと、それを公助で助けようとする発想は頂けない。あの阪神淡路大震災でも、同様なことがあったが、国は支援していない。それは当然のことだ。

そもそも借金をするということは一種の博打なのだ。それに、かつての高度成長期と異なり、インフレでない現在では、分不相応の借金をつくるということは、その人の経済・経営センスに問題があると言える。

だが、中小企業では、未だに借金体質が抜けきらず、借金を当たり前と思っている経営者が多いのには呆れる。例えば、本来、設備投資は自己資金で賄うのが当たり前だったが、そのことさえ出来ていない経営者が残念ながら多い。

また個人では、住宅ローンを組んで、家を買う人にも、同じことが言える。国も政策を改めなければならないが、今は、高度成長期ではなく、住宅をローンで買う時代ではないことを国民に知らしめる必要がある。現在の経済状況は、基本的に不動産は現金で買うべきなのだ。

かつて流風も、あのバブル時代でさえ、マンションを買うために、ローンを組もうと思うと父に告げると、「お前は、借りる金額同等の預貯金があるのか」と問われたことがある。父によると、「借金は怖いし、人生何が起こるか分からないから、いつ返せなくなるかもしれない。だから、安易にローンを組むべきではない」と諭された。

確かに、そのように借金をすることは、非常にリスクを伴う。借金をすれば、どんな事態になっても返せるようにしておくことが求められる。二重ローンで、国に泣きつくことは、気持ちは分かるが、現在の融資システムに問題があるとしても、倫理の欠如だと思わなければならない。若い人たちも、借金には、もっと慎重にならなければならない。

*注

二重ローン問題については、阪神淡路大震災と比して、手厚い救済策が取られようとしているが、おかしい。法の前には平等であるべきだ。基本的に、現行の法制度の枠内で処理すれば十分だ。それでも、阪神淡路大震災の時より、救済される程度は大きい。

あの阪神淡路大震災時に、当時の政府が個人や中小企業に対して、どれほど厳しかったことか。いや、国は無関心だったと断言できる。政府が東京にあるから、そうなのだろうと皆、思ったものだ。またマスコミの論調も、今回とはまったく違うかった。マスコミも東京中心だからだ。

今回は、東京に近いことから、与野党共に、非常に優しい態度を取っている(特に自公)。それは皆、国民の負担になる。不公平この上ない。なお被災経済規模は、福島の原発事故被害を除けば、阪神淡路より小さい。

*追記

昔、銀行の拘束預金が問題になったが、この預金の本来の目的は、借り手が無理な借金をしないための方策であった(金融機関側からすると、不良債権を少なくするということだが)。いつ頃からか、金融機関が安易に融資し過ぎるようになった。借り手にとって、なかなか貸さない銀行が、借り手に本当はよいのかもしれない。逆に借りてくれ、借りてくれと言う銀行は悪い銀行だろう。

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2011年6月24日 (金)

『きけ わだつみのこえ』を読む

昨日、6月23日は沖縄慰霊の日で、「沖縄全戦没者追悼式」が催された。太平洋戦争で、沖縄は、連合軍の日本本土上陸作戦により、本土を守るため、多くの犠牲を出した。それは一般市民、女性、子供も含めてだ。真偽のほどは不明だが、軍から玉砕の命令が出ていたとか、言われる。いずれにせよ、そういう雰囲気はあったであろう。

今でも、沖縄県民が米軍アレルギーが強いのは、そういうこともある。ところが、本土側は、十分、それを理解していない。本土を守るため、沖縄で最後の抵抗として働いた当時の軍人は、後世、沖縄に対して、それ相応の配慮をお願いしたいと言って、戦死していった。それを果たして、戦後の政権が守ってきたか、多くの疑念を沖縄県民は感じているのだろう。

その県民の感情を十分理解しない限り、日米同盟も機能しないということを、日米の政府当局者が知るべきだろう。単に経済的支援をするだけでは何も解決はしない。真に沖縄県民の心を慮り、その上で、日本の防衛が議論されないといけない。

さて、そのことはさておき、この時期になると、『きけ わだつみのこえ~日本戦没学生の手記』(岩波書店刊)を読むことにしている。ただし、全てを読むことはなかなか難しいので、飛ばし読みではあるが。この『きけ わだつみのこえ』の評価は、様々だ。当時の学徒動員で、戦場に赴き、戦死、病死、あるいは戦犯として、亡くなった人々の生の声を記したものだが、見方によっては、政治的に利用されているという向きもある。

しかしながら、読み進めると、必ずしもそうとは思えない。若い人たちが、戦うことの無駄を知りながら、それでも戦わざるを得ない無念さの心の叫びが正直に記されていると感じる。それは知識人故の、過酷な精神葛藤の表現だ。

母も、戦前から、多くの知識人や学生は、「この戦争は負ける」と言っていたのを聞いた、と言っていた(当時、特高警察の監視もあり、そういう発言は憚られたが、内々では、そういう話をしていたらしい)。そういう雰囲気の中で、犬死になることを覚悟して、戦争に赴き、無念の死を迎えている人々の声を確認することは、この戦争を知らない人間の使命だろう。

今回は、要領よく立ちまわれず、他者の罪を被せられ、戦犯にされてしまった木村久夫氏の声の一部を以下に紹介しておこう。

「日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人類の気晴らしの一つとして死んでいくのである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである」

彼は、この言葉を遺して、シンガポールのチャンギー刑務所にて処刑されている。享年28歳であった。

*追記

戦争は、「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉で表現されるように、今でも、あらゆる分野で通用する。戦争する以上、勝たねばならない。あるいは負けないようにしなければならない。そのためには、その可能性をとことん合理的に分析せねば、戦争に突入してはならない。

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2011年6月23日 (木)

夏バテしないことが節電に

子供の頃、現在のようにクーラーなんてなくて、夏の暑さをしのぐには、せいぜい扇風機と団扇くらいしかなかった。後は、夕方に近所で、申し合わせたように、打ち水をしていた。子供たちは、お昼ごはんの後、昼寝をさせ、昼寝をしていると、子供たちは、暑さを忘れると母は、常々笑いながら言っていた。

暑さなんて、そんなものかもしれない。寒さと比べれば、どうってことはない。ただ直射日光に当たることは、避けよとよく言われたものだ。できるだけ日蔭を歩きなさいと。それでエネルギーの消耗を小さくするわけだ。そして帽子の着用も必須だった。

最近、節電、節電とうるさいが、基本的な生活習慣を改めれば、身体は楽になる。夏には、早寝早起きは必須だろう。朝の涼しい時間に、いろんなことを処理してしまえば、後は楽に過ごせる。それは仕事でも、勉学でも、日常生活でもだ。

またクーラーを使わなければ、大幅な節電は可能。もともとクーラー自体、あまり使わないから、流風家はあまり影響がないが、使わないようにする方法はある。昔から言われてきたように、冷たい物の摂取を控えることだ。そうすれば、夏バテは避けられる。

夏バテはクーラー使用の元凶だ。いくら夏バテ対策だと言って、カロリーの高いものを食しても、冷たいビール等を飲めば、夏バテは、防げない。暴飲暴食を止めるというのは、そういう意味も含んでいる。

そんなことを言えば、ビールメーカーや飲料メーカーは困るかもしれないが、夏は温かいものを摂取すれば、夏バテは、ある程度、防げることは明らか。むしろ、日本酒の熱燗の方が体にいい。

でも、冷酒は、あまり宜しくない。冷やしたビール類を全く、飲むなとは言わないが、適量に控えたほうがいい。いずれにせよ、節電には、夏バテ要因対策を徹底することが、効果があると知るべきだろう。

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2011年6月22日 (水)

天然鰤が大漁とか

最近の魚の捕獲量は、震災前後にわたって、一部の魚について、変調をきたしているようだ。季節外れに大漁になったり、本来獲れない魚が獲れたり、いろんなことが起こっている。海流の変化とか、海底の変化のためなのか、わからないが、一時的に漁場が賑やかになることは歓迎すべきなのだろうか。

もちろん、消費者にとってはありがたい。昨日も、天然鰤が大漁になったとかで、大変手頃な値段で売られていた。いつもより多めに買って、少し季節外れだがブリ大根にしたり、鰤の照り焼きにしてみた。油の乗りは少し足りないかなとは思うが、美味しく頂きました。

いくら大漁でも、関西の市場に並ばないケースもままある。そういうことで、今回は一応、ラッキーだ。でも、しばらくは、鰤関係の食事が増えそうだ。まあ、いいか。

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2011年6月21日 (火)

他人の世話になるということ

他人に世話になるということを父は嫌った。流風にも、できるだけ他人には世話になるな、とよく言っていた。それには、まず、国の世話になるようなことはするなと。つまり国を煩わせることはやるなということ。それは、警察の世話になったり、救急車を呼んだり、生活保護を受けたりすること。

でも、人生何が起こるか分からない。父が言ったのは、できるだけ世話になるようなことはするなと言うことだろう。そのためには、君子、危うきに近寄らずだったり、健康管理を十分にし、生活設計をしっかりせよということだ。

ところで、この「世話」という文字は、「世」と「話」から成り立っている。「世」は一般的には、世の中とか社会の意味だが、30年とか、一代という意味を持つ。また人の一生という意味もある。「話」は、字面通り、言葉であり、また噂話という意味も含んでいる。流風は、合わせて、人生の話、転じて、相談に乗って、面倒を見るという意味が強いのではと感じる。

また、ラジオで、親切とお節介の境界がわからないとコマーシャルが打たれていたが、世話の意味には、親切とお節介も含まれているニュアンスがある。受け手により、親切と受け取られたり、お節介と受け取られたりする。

世話をするということは、人間社会のややこしいことを引き受けるということなのだろうか。でも、日本人は基本的に、第三者の世話は避けるようにしてきた。今回、大震災に際しては、多くの国々から支援を受けたが、日本人の心情としては、受けたくないけれど、止むを得なかった感じが強い。

他人の世話をしても、他人からの世話を受けないように努力する。そういう精神は、今後も、日本人として、持ち続けた方がいいのではなかろうか。

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2011年6月20日 (月)

大任に不向きな人~『管子』より

『管子』には、大任に向かない人を挙げている。それは、まず嫉み深い人。嫉みは、何も女性の世界だけではない。男の嫉みは、もっと厭らしいものがある。嫉みが深いと、真実が見えなくなるし、客観的に物事が見えなくなるから、判断を誤る可能性が高い。このようなタイプに重要な役割を任せてはならないと言っている。

次に、えこひいきの強い人物には、大任を任せてはならないとする。彼らは、結局、私心で何事も事を進めるため、大局が見えなくなる。概ね、イエスマンを周囲に侍らせ、徒党を組むようになる。それは大きな弊害を生む。これらのタイプは、たとえ有能であっても、登用してはいけないのだ。

これらを避けるように人材を育成するには、遠くの未来を見定め、大きな計画を持つように仕向けることが大切だ。目前の小さなことに捉われずにいれば、心はいつも明るく健全に保たれる。そして、幸之助も言っていたように思うが、自然体で正しい心を持つことが大切だ。

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2011年6月19日 (日)

ざっくばらん、という言葉

若い頃、年配者に会って緊張していると、「流風君、もっと、ざっくばらんに話しなさい」と言われて、ほっとしたことがある。心の壁を打ち破る、いい言葉だ。でも、この「ざっくばらん」は、どこから来ている言葉だろう。

日本語の語源は、いろんなものが積み重なってできているのは分かるが、平生、いつも意識している訳でもない。先に挙げた、「ざっくばらんに話せ」の「ざっくばらん」はどこから来ているのか。辞書を引いても、「心中をさらけ出して隠さない様」とか「遠慮がないさま、あけすけ」というようなことしか記されていない。

辞書としては、それでいいのだが、言葉の生成過程は、これではわからない。実は、この言葉は、「四角張る」の否定型らしい。すなわち、「四角張らん」。でも、これでは遠い感じ。前の「四角」が、「しか」になり、更に「さく」になり、「ざっく」と変化していったらしい。

元々、「四角」という発想は、日本にはなく、中国からの輸入文化だ。律令国家の真似をした時、一緒に入ってきた。でも輸入したはいいが、少し堅苦しい。大体、法律というものは、そうだろう。法治は、為政者とっては都合がいいが、法治される側は、行き過ぎれば息が詰まる。

それは人間関係でもそうで、建前ばかりだと、何も進展しないこともよくある。本音を出し合って、打ち解ければ、何事も何もなかったかのように進んでいく。後は、建前として、「顔を立てる」だけだ。それが「礼」というものではないか。そのような現実的な人間関係の処理の仕方から、生まれた言葉と推定される。

*追記

残念ながら、日本も、法治が行き届き過ぎて、公務員は、もちろん、民間も、「四角張る」人が増殖しているようだ。特に政治家が「四角張る」ようでは情けない。法治の前に人間社会なんだから。

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2011年6月18日 (土)

家の節電の成果

節電、節電とうるさいので、流風も2か月前から、節電に取り組んでいる。と言っても、基本的に使用する電力量はそんなに多くない。それを減らそうと言うのだから、以前にも記したように、「断電」しかない。すなわち、電気製品の使用を止めること。

2か月前より電子レンジの使用を止めた。そして、電気湯沸かし・保温ポットの使用も止めた。後は空調のブレーカーを落とした。それだけで、電気代は、2か月連続で昨対比約15%ダウンになっていた。

その他の電気製品は、そのまま使用を続けているから、ちょっと不思議な感じ。今後の課題としては、電気釜で炊いたご飯を保温しないこと。随時、蒸し器で温めることにする。また照明は昼間は点灯させないこととする(但し、曇天、雨の日は除く)。温水便座の電源を切ることとする。とりあえず、それくらいか。今後の電気料金の減り具合が楽しみ。

*追記

後は、太陽光・充電器を使って、携帯電話を使い、最近、一部のメーカーから発売された充電型デジタルテレビを使うことだが、当面、購入は未定だ。その他には、パソコン、一般の掃除機(ハンディータイプは既に充電式である)、照明器具(もちろんLED光源)も、そのようなタイプも、いずれ充電式が売られるかもしれない。後に残るのは、冷蔵庫、洗濯機ぐらいか。となれば、電力会社から購入する電気は、わずかなものになっていく。

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2011年6月17日 (金)

原子力発電と電力会社の行方

関西でも、関西電力が、節電15%を民間に要望している。大阪府知事は、根拠を明確にしない要請であると批判していた。その後の関西電力の要請内容の詳細では、実質要望節電11%が確かなようだ。この要望の裏には、努力せずに利益を獲得したい思惑が見え隠れする(今回は、特別な意見ではなく、一般的な流れを備忘録的に記す)。

ライフラインの提供という公共的ビジネスでありながら、民間企業である限界があるのかもしれない。でも、電力会社には、いろんな思惑があるだろうが、最早、原子力発電推進による利益確保は諦めた方がよさそうだ。

そもそも電力会社が強力に原子力推進に乗り出したのは、中曽根政権以降の原子力推進の政策に乗ったものだ(もちろん、原子力発電の着工は、中曽根氏が政権を握るずっと前の佐藤栄作政権の頃に始まっている。ただ中曽根氏は、1954年に、稲葉修、斎藤憲三、川崎秀二氏等と共に、原子力発電を強硬に提案したのが初めだ)。

米国が、国内需要以外に、原子力発電ビジネスを推進したかった所に、中曽根首相が、日米同盟強化の意味もあって、乗ったのが実情だろう。当時の政府は、電力会社が原子力発電を推進すれば、努力せずに儲かるように仕組んだ。

それは経営者を何の努力もせずに利益が上がるという痴呆化させてしまう。そういう状態が延々と続いた結果、経営能力のない官僚の天下りでも経営できるようになったと言える(それは経営と言えるものではないが)。

そして、安易な原子力発電の推進は、日本側に、原子力発電の技術を十分消化できずに、借り物の技術を鵜呑みしたことが、日本の技術を充実・進展させなかった大きな理由だ。その他の民間ビジネスは、輸入ビジネスも日本化して、大きく発展するのに、不思議と原子力発電は、そうはならなかったのは経営の怠慢と指摘できる。

確かに、米国の技術者は、自らの技術を信奉し、日本がそれに加工するのを拒否したとも伝えられる。結局、日本の環境条件(立地条件や自然環境等)の実情も把握せず、また放射性廃棄物(使用済み核燃料)の処理方法も確立できないまま、原子力のような未熟な技術を使って、いきなり大規模の発電所を作ったことが、今回の事故の遠因でもある。

だから、自然災害が少なく、地震もなく、津波のない国家では、通用したかもしれないが、日本に対しては、明らかに、技術をそのまま移植することに誤りがあったと指摘できる。つまり日本には、まだ、それらに十分対応できるシステムが作られておらず、基礎研究も不十分であり、予備実験も十分にこなさず(日本は領土が狭く、適切な実験場所が無いので難しい)、リスク管理も無視したまま(無責任過ぎる責任の所在の無さ)、事業として推進した中曽根政権の罪は大きい。これは政治主導の悪い面が出たと言えるだろう。

以上のことを踏まえれば、電力会社も、脱原発を推進せざるを得ない。そもそも日本の電力需要は低下傾向にあり、それほど電力は必要とされなくなる。そもそも原子力発電導入時から、電力は余っていた。よって原子力発電がなくても、実際はそんなに困ることはない。

また原子力発電は、国が補助してくれるから、コストが安く見えるが、実質のコストは、遥かに高いことを考えれば、ビジネスとしては成り立たない。基本的に市場価格を無視した、「人為的な」価格で、コスト計算するのは、明らかにおかしい。電力業界も、まともな原価計算に基づく経営が求められる。

更に、経営面全般で見ると、電力会社は殿様経営で、コスト管理が若干いい加減だ。原油等が上がれば、安易に値上げして、消費者に転嫁する姿勢も、見直すべきだ。資源の輸入も言い値で買っているという噂もある。経営努力が足りない。もちろん、国や商社等外部の力を利用せざるを得ないのは分かるが、コスト管理は、もっとシビアにするべきだろう。

それに人件費も非常に高く、一般企業より昔から2~3割高い。こういうことは、改善して、強い企業体質にしないと、いずれ発電・送電分離になると、発電会社が生き残れるか、疑問が多い。電力会社も、正念場を迎えたと言えるだろう。各社共に、早期に将来を見越して、手を打つ必要があるだろう。

*追記

発電・送電分離をやれば、国内市場が活性化されることは間違いなく、自然エネルギーを中心として多様な発電に伴い、地方化、小型化がいろんなビジネスを生むだろう。日本に残された、数少ない活性化の手段には違いない。

*平成23年6月19日追記

海江田大臣が、原発再稼働について言及したため、全国の知事が反発している。当然のことだ。この人は、民間にいた時同様、発言が揺れる。それに今のタイミングで、再稼働はあり得ないだろう。大体、原発は再稼働しなくても、誰も困らない。困るのは、電力会社で、利益が、今までほど過剰に儲からないことだろう。電力会社はリストラが求められる。そのことを十分踏まえて、大臣は発言しなければならない。

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2011年6月16日 (木)

『木のうつわ六千年の技』展を鑑賞

兵庫県立考古博物館に初めて行ってきた。2007年に、遺跡数日本に一という兵庫県の考古学の拠点として、大中遺跡の隣に、オープンしたのらしいのだが、全く知らなかった。ただ、『播磨国風土記』を読むにつれて、このところ、古代に関心が深まっていて、たまたま美術館で、見つけたパンフレットが行くきっかけになった。

そこで開催されている『木のうつわ六千年の技』展を鑑賞してきた。日本は、古代、森に蓋われた島国だった。そのため、六千年以上前の縄文時代から、木を活かす文明は存在した。初めは、倒木した腐った木々を乾かして、切り取りなど幾分加工して、使ったのだろう。現在、残っているものは、七千年前の物らしい。皿のようなもののようだ。もちろん、基本的には、食のための道具だ。

確かに、当初の意図は、神のようなものに供える道具だったかもしれない。と言うより、野生動物から襲われる危険から身を守るための手段だったのかもしれない。そして、単に宗教的な神ではなく、自然に対する畏敬に念と共存という思いを込めて、何かを供えたことは想像がつく。

時代が進むにつれて、最初は食物に直接、手で掬って食していたものが、器に盛って食するようになっていく。更に、大きな器から小さな器に取り分けるための掬う道具はあったようだ。

いつの時代も、器用な人間はいる。最初は、道具を作れるものだけが利用したのだろう。その造りは粗いけれど、段々、多く作られるようになって普及していく。六千年前くらいになると、更に進化して、刳(く)り物容器が出現する。石で刳るわけだ。そして、そのような器に、更に漆を施す技術まで進歩している。

と考えれば、残念ながら、工芸の分野では、人類は、それから、あまり進歩していない。それは人間の形の変化がないということにつながるのかもしれない。人間のサイズに、物は合わせられる。それにしても、当時の皿、盤、鉢、高台、三足足のついた物等の中には、精巧な技術で作られた物も多いのだ。

弥生・古墳時代の器になると、高杯が出現し、祭祀のためにか、一部には模様が施される。そして、道具が石器から鉄器に変化することは、学生時代にも学んだことだ。もちろん、一度に変わったのではなく、徐々に新しい文明の道具が浸透していった軌跡が見て取れる。

もっと時代が進んで、中国に倣って律令国家になると、権力者のために、地域の職人たちは、呼び集められ、多くの貴人のために、量産は進んだことだろう。更に身分ごとに仕上がりに違いを設けるため、いろんな種類の器が作られる。

中には、貴人に、もっと気に入られるように、手の込んだ美術品まがいの物が作られる。多分、それらを所有することは、権力者にとっての象徴につながっていく。ただ、中世になると、多くの職人が生まれ、彼らは自立していき、官の工房から離れていく。そこで、初めて、民間の需要に対応する物作りが実質スタートするわけだ。

以上のように見ていくと、日本では、いかに長期に木の文明が、川の流れのように綿々と続いてきたかが分かる。でも、基本は、「食べる」行為に対する便利グッズだ。食と器の関係の中で、今一度、木の食器を見直してみるのもいいかもしれない。

食器には、食した人の魂が籠るともいう。それが木でできているなら、なおのことだ。古代の日本人は、身近な木で作った食のための器に何を感じとったのだろうか。器への感謝は、そのルーツの木への感謝でもある。常に自然と共にあった日本が偲ばれる。私達は、何かを忘れていないだろうか。

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2011年6月15日 (水)

震災遺児と震災孤老への支援

東日本大震災の被災のレベルは、個々人の事情で様々であり、また、義援金の配布にしても、きめ細かな被災地の行政対応が望まれるが、どうも限界があるようだ。今後は、赤十字等への義援金も、いいのだが、もっと民間レベルで個別の支援が求められる。

例えば、東日本大震災で、残念なことに、多くの震災遺児がいる。現在、多くの支援が呼びかけられている。震災遺児の場合は、より長期の支援が求められる。少なくとも、彼らが成人するまでは、支援が必要だからだ。

だから一時期だけの支援金だけでは、心もとない。建築家の安藤忠雄さんが中心となり、「桃・柿育英会」という名称で、東日本大震災遺児育英資金を集められているものは、一年に一口一万円を10年間続けて寄付する人を集めるものだった。これは、長期に、震災遺児支援という意識を持ちながら、年間金額的負担も少なく、参加しやすいかもしれない。

また、神戸が発祥の「あしなが育英会」も、現地に同様の仕組みを作って、遺児の支援に乗り出しているし、毎日新聞社も、東北孤児募金として、「毎日希望奨学金」制度を創設していた。ただ、金銭的支援だけでは、心もとない。これらに加えて、孤独に陥らないように、精神的なケアをする仕組みも求められる。

震災孤児以外には、震災孤老への支援が求められる。震災時も、多くの高齢者は、諦めから助かろうとしなかった人が多くいるという。もう助からないというのと、もう、この辺でいいやという諦めが、そうさせたのであろう。忌まわしき大震災は、老後の人生を奪い取った。

仮に生き残っても、家族がいれば、まだいいが、なければ、無関心に放置される可能性もある。震災前から、独りで住んでいた人は、まだ耐えられるとしても、家族を失った孤老の存在は、あまり指摘されない。震災孤児と比べれば、これからの人とそうでない人の扱いは違うかもしれない。

現地の行政は、とても目配りできる状況になく、見捨てられる人々がいないか若干心配である。杞憂であればいいが。震災孤児と共に、経済的な困窮の場合は、生活保護ということも必要だが、高齢者には、むしろ心身への目配りが求められる。そこには、彼らを支援する団体への支援金が必要かもしれない。震災遺児と共に支援が求められる。

また震災遺児と震災孤老の交流の場も設定されるといいかもしれない。よく介護は、幼老一体で支援を、と提唱されるが、それに似ている。いずれにせよ、取り残された人々への支援は、国や行政ではなく、きめ細かな対応ができる民間で支援が必要と思う。流風としても、遅ればせながら、そちらに目を向けたい。

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2011年6月12日 (日)

「姫路ゆかたまつり」について

毎年、姫路市では、ゆかたまつりが、6月22日、23日、24日に催される(雨天中止)。現在は、全国各地で、催されているようだが、元祖は、姫路ゆかたまつりだ。ご存じない方に、簡単に紹介しておこう(*注1)。

開催日は固定されていて、どこかの祭りのように、商売優先で、土日にずらしたりはしない。それには訳がある。そもそも、このまつりが始まったきっかけは、江戸時代中期、徳川吉宗が将軍であった時である。

幕府は、財政厳しき折、全国に倹約令を通達する。それに反発したのが、当時の姫路城城主、榊原政岑(まさみね)。それは尾張の殿様と同じ。彼は倹約令を無視し、金は天下の回り物という感じで、豪遊する。吉原で遊興三昧。そして、三浦屋の高尾大夫を、とんでもない金子で身請けする。その他にも、警備に派手な衣装を着せたりする。

このようにして、お金を使いまくったらしい。ということで、風流大名と称せられた。さすがに、正面切って、馬鹿殿様とは言わなかったようだ。しかし、幕府も黙って見逃すはずはなく、ついに、蟄居、転封を命ずる。それに姫路藩は、幕府にとって要所。幕閣は苦り切っていたに違いない。

吉宗の言うような極端な倹約は、経済を不活性にするが、極端な浪費は、これまた藩の経営を自らを苦しくする。当時、幕府も極端、政岑も極端。これでは、お互い、うまくは行かない。

結局、倹約は必要だが、それとは別に新しい経済活性化をして、新しい産業を育成したり、直轄事業を通じて、収入源を作らなければならない。それには民衆のやる気を引き出す施策も必要だ。それが正論だろう。

さて、その政岑、転封前に、長壁(おさかべ)神社(*注2)は、姫山にある姫路城内にあり、武士以外は参拝できないのは、何とかならないのかと考えていた。というのも、昔は、秀吉や池田輝政が姫山に姫路城を築城する前は、長壁神社は、庶民も参拝できた。

ところが、長壁神社は、城内にあり、参拝は武士しかできない。それを彼は、庶民も、昔のようにできることを考えた。そこで、長壁神社を城外の長源寺境内に移設し、庶民も参拝できるように取り計った。

しかし、格式が上がってしまった神社に、庶民は、式服など持っていないから、実際、参拝はできないと言う。それを聞いた、この殿様は、「よし、それなら浴衣で行ってもいい」と許可した。これは、身請けした高尾大夫の入れ知恵があったとされる。まあ、殿さまの助べえ心が働いた結果と言う人もいる(*注3)。

というのは、今は、浴衣で、大手を振って、町中を歩けるが、当時は、下着の一種。そんな恰好で、町内を歩くことは、はしたないとされた。それを殿さまから公認で許されたのだから、庶民は大変喜んだ。現代で言えば、サンバで、裸に近い格好で、女性が練り歩くようなもの。庶民が喜ばないはずがない。そのまつりが、6月22日に始まったとされることから、毎年、この日を始めとして催されるようになったらしい。

幕府にとっては、頭の痛い殿様だったかもしれないが、庶民的な発想ができる人でもあったようだ。そういう偉い人の気まぐれは、時として、庶民に歓迎される。そして、それが今まで、ずっと続いてるのは凄いと思う。まあ、浴衣姿の女性は、今でも、それなりにお色気感じますからね。さあ、貴女も、浴衣姿で是非(笑)。

*注1   姫路ゆかたまつり (雨天中止)

   6月22日 16:30スタート

   6月23日、24日 18:00スタート

場所は、本来、長壁神社のまつりであるが、但し、現在、祭神は天守閣最上階にある(後年、祟りを恐れて、姫路城に戻されたらしい)。今は、姫路城の改修工事のため、行くことはできない。まつり自体は、竪町にある長壁神社や大手前公園等で、各種催しがある。

このまつりには、浴衣で参加すると、様々な特典がある。例えば、姫路市内の文化施設の入場料が無料になる。姫路城、好古園、市立美術館、動物園、姫路文学館、県立歴史博物館。その他では、パスが半額になったり、映画館の入場料が割引になったりする。

*注2   長壁神社について

第49代 光仁天皇の皇子、刑部親王(他戸親王とも)と、娘の富姫が、姫山にある長壁神社(姫路城天守閣最上階)に祀られている。富姫は、幼いころから、姫山に住んでいた。富姫については、泉鏡花が、『天守物語』の題材にしている。

少し、妄想が過ぎている表現になっているが、伝説をベースにしている。それは、そもそも刑部親王が、菅原道真の話と少し似ているが、藤原百川の讒訴で、親王を廃されたことから、その恨みが、姫山に籠っているという発想からだろう。

鏡花は、姫路城に恨みが籠って、親王の代わりに姫を鬼にしている(ただし、これは江戸時代の書籍をベースにしている)。そして、そのような存在があると思うことが、為政者の監視役になったと理解していたのかもしれない。権力者にも、怖い存在は必要だと感じていたのだろう。

*注3

ただし、これらの一連の話は、伝承であり、話としては面白いのだが、根拠が明確ではない。ただ、夏になる衣替えの意味があり、夏を告げる祭りではあったようだ。ちなみに、6月22日は夏至だ(だから、陰暦では、違う日に催され、多分、それを太陽暦に換算した)。そういうことも多分、考慮に入れてある。更に時代が進むにつれて、話が広がって、その持つ意味は変わって行った可能性はある。多くの露店が並ぶ大掛かりな形は、戦後始まったようである。

*追記

例年700店舗の露店が並んでいたが、平成26年の姫路ゆかたまつりから、諸般の事情で、それが大幅に縮小される。本来の祭の形に戻るとも考えられるが、幾分寂しい。

*2016年3月1日追記

2016年3月19日、20日に、兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホールで、『歌劇 天守物語』が催される。泉鏡花の作品が、オペラになると、どうなるのだろうか。ただ、この作品は、話の筋からして歌劇にしやすいかも。

天守夫人・富姫には、角野圭奈子、佐藤路子、姫川図書之助には、中鉢聡、迎肇聡、各氏が演じる。姫路市民としては関心がある。まず、『天守物語』を再読してみようかな。

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2011年6月10日 (金)

葛の葉姫の物語

先日のブログでは、兵庫県佐用町に、陰陽師、蘆屋道満と安倍晴明の塚があることを記した。その安倍晴明の出生の秘密を物語にしたものがある。安倍晴明の母親は、実際は分からないけれと、物語では、葛の葉とされる。

浄瑠璃や歌舞伎で、よく演じられる。事実と創作と入り混じっており、どこまでが事実かは不明ではあるが、話としては面白い。今回は、浄瑠璃『蘆屋道満大内鑑』をベースに、流風の覚えとして、記してみよう。話の人間関係を記すと以下のようになる。

一、天文博士、加茂保憲は、弟子として、安倍保名と蘆屋道満がいる。

二、安倍保名は、小野好古の家来で、蘆屋道満は、左大将橘元方の家来だ。

三、桜木親王(後の村上天皇)の妃には、好古の姫・六の君、元方の姫がなっており、親同士争っている。

四、小野好古の執権は、左近太郎照綱、橘元方の執権は、岩倉治郎大輔だ。

五、蘆屋道満の父は、蘆屋将監で、妹は花町。彼女の夫は左近太郎。

六、岩倉治郎大輔の娘、筑羽根は、蘆屋道満の妻だ。

七、加茂保憲の後妻がおり、彼女の兄が岩倉治郎大輔。

八、安倍保名の家来として、与勘平がいる。

九、葛の葉は、信太庄司の娘で、榊の前の妹だ。

十、榊の前は、天文博士、加茂保憲の養女になる。

十一、岩倉治郎大輔に仕えている家臣、石川悪右衛門は、榊の前や葛の葉の従兄。

十二、安倍保名と榊の前とは許婚の間。

十三、安倍晴明の幼児期の名前は、童子丸。

これでも、分かりやすく記したつもりだが、さらっと読んだので、間違っているかも。別に、実際の人間社会の人間関係からすれば、大したことないのに、加齢に伴い、すっと理解できない哀しさ(*注)。まあ、元々、頭がよくないから仕方ない(苦笑)。

また、どのような筋になっているかは、ここでは記さないが、人間社会の縮小図でもあり、共感できる部分も多い。よくできた話で、いつか鑑賞に行きたい。

*注

凡そ、家系図にしても、女性は、すぐ理解するのに、その点、男は、すぐ混乱する。流風より数段賢かったと思われる父も、母や伯母が話す遠い親戚の複雑な家系図は、何回も確認していた。

その点、女性同士は、お互い、すぐ理解できるようで、傍から聞いていたら、ちんぷんかんぷんの話も、当人たちは、いつも盛り上がっていたのを思い出す。芝居で、人間関係が複雑なものが女性に受けるのは、そういうこともあると思う。

*追記

関西で、「きつねうどん」のことを、「しのだ」とも言うけれど(最近は、あまり言わなくなっている)、これは狐の化身「葛の葉姫」から出たものとされる(大阪府和泉市信太森葛葉稲荷神社)。

   恋しくば 尋ね来て見よ 和泉なる

          信太の森の うらみ葛の葉

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2011年6月 9日 (木)

『播磨国風土記』を読む その六 応神天皇

今回は、『播磨国風土記』に多くの記事がある応神天皇について、触れておこう。応神天皇は、仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた。皇后は、身重を隠して、三韓征伐に赴き、その帰路の途中の筑紫で応神天皇を産んだ。彼は、後、15代天皇になる。仁徳天皇の父である。

ところで、仲哀天皇と神功皇后の夫婦仲は、どうであったかと思いをはせると、彼らは夫婦と言うより、同志としての結びつきが強かったのではと思われる。神功皇后の方が男勝りで、むしろ豪傑の感じがするのに対して、仲哀天皇は、やや頼りなく、彼女にリードされる感じがする。

それゆえ、政治問題では、多くを、武内宿禰と共に神功皇后に頼った可能性はある。もちろん、神功皇后は、それなりに仲哀天皇を愛していたが、仲哀天皇には、若干、頭が上がらないことについて、負担になっていたかもしれない。

そういう環境に育った応神天皇は、どちらに似たのだろうか。彼には異母兄がいたが、争って勝ち、兄を殺したことから禊を受けるために、高志前国(こしのまえのくに、現在の福井県)に行き、神のお告げで、名前を変える。その名前が、ホムダワケ(品陀和気命。品太天皇、ほむだのすめらみこと)という。

このホムダワケの名前が、『播磨国風土記』の随所に出てくるので、兄との争いに勝った後、播磨国に来たようだ。といっても、播磨国全てに巡幸したのではなく、餝磨郡(しかまぐん。現在の姫路市)、揖保郡(いぼぐん。現在のたつの市)中心に動いている。

それらの各所で、いろんな行いや現象が起こるたびに、地名になったという。まあ、これは、どの程度、真実かは、わからない。多分、国司あたりから、地名をつけよということになった折、そういうと、「ホムダワケ様が、巡回された事を聞いているから、古老に詳しく聞いてみる」ということになり、古老が、あることないこと、あるいは、昔から伝わっている話を、ホムダワケ様が仰ったことにしておこうとなり、そのまま地名になったと推定される。

もちろん、中には、ホムダワケの言葉や行動が、そのまま地名になったものがあることも否定はできない。彼は狩猟好きで、各所を回っているので、その間には、いろんな面白い話は発生した可能性がある。それに部下が尾ひれをつけて、面白おかしく伝えたものが、地域に残ったと考えられる。

地名とは、そういったものが多いのだろう。別に、この地区に限らず、古代から、全国で、そのような名前が付けられたのだろう。だが、播磨国には、あまりにもホムダワケが命名したものが多すぎる。人間、あちらこちら、うろうろしないといけませんなあ。まあ、流風がうろついても、地名には残りませんが(笑)。

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2011年6月 8日 (水)

完全な人を求めてはならない

政治の世界では、今、訳のわからない政権闘争をしている。同じ政党内で、気に食わない首相を引きずり降ろそうとする行為も、国民には理解しがたい。鳩山氏も小沢氏も、政権の意味を理解していない。首相を変えたら、自分に都合よくなるという幻想は捨てるべきだろう。今回も、菅首相のやり方を拙いと批判するが、批判する政治家も、評論家になってしまって、本来の役割を忘れている。

凡そ、完全な政策がないように、完全な人もいない。多くは、一長一短がある。リーダーの不足を補い、見えていないものは見えるようにし、聞こえていないことは聞こえるようにするのが、周辺や同志の役割だ。一番、いけないのが傍観者になって、リーダーのやることを批判することだ。

また、批判する外部関係者の内容については、彼らの立場を踏まえ、多面的、短期的・長期的に見て、精査しなければならない。ただ、一面的に批判を鵜呑みする政治家が多いのは残念なことだ。また逆に悪用しようとする輩が多いのは論外だ。

このようなことについて、徳川吉宗は、次のように語っている。

「全徳の人は得難し、一失あれば、一得あり、一善あれば、一過は許すべきなり」と。

次のリーダー選びが始まっているが、民主党内には適任者がいないという。ポスト菅は菅だと皮肉を言う人もいる(彼は、人相学的に見れば、人相が良く、再度、登板もありうる)。いずれにせよ、全ての人の期待に沿える完全な人はいない。今後、どのように次のリーダーが決められるかは分からないが、国民は過大な期待は禁物だ。

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2011年6月 7日 (火)

東北物産展に更なる工夫を

各所で、東北物産展が開催されているが、一般に物産展は、日常的に使うものを除けば、その購買には限界がある。土産物を毎月買うこともできないし、食品にしても、若干、嗜好の問題で、買い続けるのも難しい物もある。

そういう催しは、期間をあけて、定期的に催しするのもいいが、少し飽きないように工夫が必要だ。また全国どこでも通用する料理素材が必要だ。今のところ、被災地で、生産が困難な魚介類の特産物加工品は、販売が難しいだろうが、将来的には検討して欲しいものだ。

また、今後は、食品関係だけでなく、東北の工芸品の展示アピールも求められる。もちろん、そういうものは、即購買につながるものではないかもしれない。ただ、工芸品の製作会社は、マーケティングも兼ねて出品されていかがだろうか。

今であれば、遠慮なく感想を言ってくれるだろうし、関西であれば、特に価格の点では、少しうるさいかもしれないが参考になるだろう。そういうことを通じて、こなれた価格設定に努力して欲しい。そういうことを通じて、本当の「商品」にして欲しい。そして、これは全国の工芸品会社に言えることでもある。

つまり伝統的な商品と言うことで、結構高い値付けがされている場合があるが、高いということで、市場から忘れられている物も多い。今一度、価値と価格のバランスを再考して、工芸品ビジネスの戦略を練り直して欲しい。

そうすれば、市場が新たに求めている新商品の開発にもつながっていく。物産展は、何も食べ物ばかりではなかろう。消費者も、こういう話を素直に聞いてくれる機会は滅多にないのだから、このアピールのチャンスを活かして欲しいものだ。

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2011年6月 6日 (月)

東北のお酒を買う

お酒は、そんなに嗜まないのだが、時々、ワインとか日本酒を買う。けれども、最終的には、飲むことは少なく、大概、勿体ないなと思いつつ、高価な料理酒になってしまう。少しの量の晩酌は健康にいいそうだが、あてを作るのが邪魔くさい。まだ冬は、熱燗にすることがあるが、夏に冷酒というのは、あまり体質的に受け付けないようだ。

さて、先日、百貨店で、東北物産展が開かれていた。神戸まつりでは、酒が売られていなかったので、今回は、どうかなと思いながら行ってみると、少しだけ置いてあったので、買ってきた。岩手県の特別純米酒「南部美人」だ。

このブランドは、知っていたので、買うなら、これと思っていたので、売り場にあり、少し嬉しかった。やはり男は美人に弱い。上手いネーミングだ。ところが、これが会社の名前になっているのに、二重の驚き。まあ、思い切ったものだ。

まだ、飾ってあるが、そろそろ開けて味わうとするか。でも、今日はシチューの予定。合うかな。

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2011年6月 5日 (日)

宗雅と抱一

今回は、宗雅と抱一について、少し触れてみよう。彼らは、江戸時代の中期から後期にかけて、花開いた文化の魁だ。

まず宗雅とは、酒井雅楽頭(うたのかみ)家二代目姫路城城主、酒井忠以(ただざね、1755~1790)の号である。彼は、兄と慕う、松江藩主、松平不昧(ふまい)に刺激されて、茶の湯を愛するようになる。不昧については、いずれ詳しく触れてみたいと思うか、当時、かなりの文化人であったようだ。

その不昧に対して、茶道具について、いろいろ問いあわせして、教えを乞うている。その往復書簡が残っているのだが、不昧が朱書して回答しているのは、まるでテストの結果をチェックする先生のようだ。そして、その朱書に対して宗雅は喜んでいる風にも取れる。それほどに心酔して、自らを小天狗と呼び、不昧に対しては、大天狗と呼んでいた。仲のよい先輩、後輩の関係が彷彿とさせられる。

こういうことに熱中したのは、藩政や、幕閣としての重責に対する気分転換の手段であったかもしれない。現代であれば、経営者が、そのストレスを発散させる趣味ということになる。ただ、彼の場合は、かなり質の高い遊びだったようだ。

また祖父、忠恭(ただずみ)は、新しい文化には関心を示し、明楽の楽器の取り入れにも関与しているから、そういう家風が影響していることもある。明楽の楽器は、以前、聞いたことがあるが、少し変わった感じの音色だった。

そういう家風の影響か、宗雅自身も、多くの茶会を催し、そのため、多くの道具を蒐集したり、自ら製作もしたりしている。更に、絵画については、独自の手法を編み出すなどの工夫(中国の写実的画法を踏襲しながらも、西洋的画風の取り入れ)もしている。

絵以外には、大名仲間や家臣たちと、俳句や和歌を楽しんでいる。ここら辺になると、少し道楽が過ぎるのではないかと思えてくる。今でも、若手経営者が集まり、いろんな遊びをしているのと似ている。でも、経営に役立つ遊びでないことが多い。趣味とは、そういうものだと言うかもしれないが、業趣一体でなければ、意味はない。

ただ、彼の下で、11歳から教えを受け、酒井家四代(忠以、忠道、忠実、忠学)に仕えることになる河合道信(後家老になり、寸翁と称する。姫路藩の財政改革に力を発揮した)にも、数寄者としての見識を鍛えたという。ただ、宗雅は、文人大名と呼ばれたが、あり余る才能も開花せず、36歳で亡くなっているのは惜しいことだ。

しかしながら、彼の弟、酒井抱一(1761~1828)にも、大きな影響を与えている。弟故、その気楽さから、より書画、文芸に嵌り、37歳で出家している。彼は、武家文化に捉われず、多くの庶民文化に触れ、当時の多くの文化人に接する。そういう意味では、抱一の方が、より文化を道楽的に楽しんだと言えるだろう。

すなわち、狩野派の技法を学ぶかと思えば、浮世絵も学んだりしている。その結果、描くものは、風俗画も描けば、仏画も描いた。更に貪欲に、応挙や若冲の手法も取り入れようとする。若干、だぼはぜの感も無きにしも非ずだが、いろんなものに関心を持ったということだろう。

その後、100年前の画人、光琳に心酔し、「江戸琳派」なるものを創始までしている。光琳に、つけ加わったものは、いわゆる教養という遊びであろう。絵画に、自分の哲学を持ち込み、より洗練されたものにしている。彼の哲学的見方を付加して、楽しんでいるのだ。それは確かに、外見は似ていても、琳派のものとは似ても似つかないものかもしれない。

それは、いつの時代も、後世の者が楽しむ、その時代の解釈という楽しみ方であろう。そして、彼の優れている所は、更に、それを商業ベースにしたことだろう。絵画から派生して、櫛、盃、印篭等、各種調度品まで、広げて、文化から文明に発展させた。つまり商品開発の名手とも言える。これらは、当時のヒット商品になっているということだ。

そういう意味では、彼は、兄からの薫陶を受けたものを、より発展させた功労者と言うことにもなる。これらを見ていくと、文化も文明というものは、人から人に受け継がれるものが、人によって、新しく解釈され、再構築され続けるものと言うことだろう。

*追記

なお、下記美術館で、酒井抱一生誕250年記念として、展覧会が開催される。

『酒井抱一と江戸琳派の全貌』 粋と雅の競演、待望の酒井抱一大回顧展

姫路市立美術館 平成23年8月30日より10月2日まで。

千葉市立美術館 平成23年10月10日より11月13日まで。

細見美術館    平成24年4月10日より5月13日まで。

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2011年6月 1日 (水)

ずんだ餅と赤福餅

先日、東北物産展で、宮城県の名物という『ずんだ餅』を買って、初めて食した。餅を、枝豆の餡で被ったものだが、枝豆の餡は初めてだった。それでも、どこかで味わった感じもしないわけでもない。また、このような土産物は、多分、東北旅行でも行かない限り食さないだろうが、この震災が食するきっかけになったのは皮肉なものだ。

そして、この食感は、どこかにあったと思ったのが、伊勢の名物『赤福餅』だ。あれは、餅に小豆餡で被ってあるが、少し似ている。さっぱりしていて美味しい。ただ、これは伊勢に行かなくても、百貨店をはじめ、多くの売店で売られており、いつでも手に入る。

その地に行かないと手に入らない土産物と、どこでも手に入る土産物のどちらがいいとも言えない。それぞれ企業の戦略があるだろう。ただ、元々饅頭が好きな流風は、久しぶりに、赤福餅も最近、買ってしまった。

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