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2011年6月16日 (木)

『木のうつわ六千年の技』展を鑑賞

兵庫県立考古博物館に初めて行ってきた。2007年に、遺跡数日本に一という兵庫県の考古学の拠点として、大中遺跡の隣に、オープンしたのらしいのだが、全く知らなかった。ただ、『播磨国風土記』を読むにつれて、このところ、古代に関心が深まっていて、たまたま美術館で、見つけたパンフレットが行くきっかけになった。

そこで開催されている『木のうつわ六千年の技』展を鑑賞してきた。日本は、古代、森に蓋われた島国だった。そのため、六千年以上前の縄文時代から、木を活かす文明は存在した。初めは、倒木した腐った木々を乾かして、切り取りなど幾分加工して、使ったのだろう。現在、残っているものは、七千年前の物らしい。皿のようなもののようだ。もちろん、基本的には、食のための道具だ。

確かに、当初の意図は、神のようなものに供える道具だったかもしれない。と言うより、野生動物から襲われる危険から身を守るための手段だったのかもしれない。そして、単に宗教的な神ではなく、自然に対する畏敬に念と共存という思いを込めて、何かを供えたことは想像がつく。

時代が進むにつれて、最初は食物に直接、手で掬って食していたものが、器に盛って食するようになっていく。更に、大きな器から小さな器に取り分けるための掬う道具はあったようだ。

いつの時代も、器用な人間はいる。最初は、道具を作れるものだけが利用したのだろう。その造りは粗いけれど、段々、多く作られるようになって普及していく。六千年前くらいになると、更に進化して、刳(く)り物容器が出現する。石で刳るわけだ。そして、そのような器に、更に漆を施す技術まで進歩している。

と考えれば、残念ながら、工芸の分野では、人類は、それから、あまり進歩していない。それは人間の形の変化がないということにつながるのかもしれない。人間のサイズに、物は合わせられる。それにしても、当時の皿、盤、鉢、高台、三足足のついた物等の中には、精巧な技術で作られた物も多いのだ。

弥生・古墳時代の器になると、高杯が出現し、祭祀のためにか、一部には模様が施される。そして、道具が石器から鉄器に変化することは、学生時代にも学んだことだ。もちろん、一度に変わったのではなく、徐々に新しい文明の道具が浸透していった軌跡が見て取れる。

もっと時代が進んで、中国に倣って律令国家になると、権力者のために、地域の職人たちは、呼び集められ、多くの貴人のために、量産は進んだことだろう。更に身分ごとに仕上がりに違いを設けるため、いろんな種類の器が作られる。

中には、貴人に、もっと気に入られるように、手の込んだ美術品まがいの物が作られる。多分、それらを所有することは、権力者にとっての象徴につながっていく。ただ、中世になると、多くの職人が生まれ、彼らは自立していき、官の工房から離れていく。そこで、初めて、民間の需要に対応する物作りが実質スタートするわけだ。

以上のように見ていくと、日本では、いかに長期に木の文明が、川の流れのように綿々と続いてきたかが分かる。でも、基本は、「食べる」行為に対する便利グッズだ。食と器の関係の中で、今一度、木の食器を見直してみるのもいいかもしれない。

食器には、食した人の魂が籠るともいう。それが木でできているなら、なおのことだ。古代の日本人は、身近な木で作った食のための器に何を感じとったのだろうか。器への感謝は、そのルーツの木への感謝でもある。常に自然と共にあった日本が偲ばれる。私達は、何かを忘れていないだろうか。

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