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2011年6月28日 (火)

『老子』 第二章 存在たらしめるもの

子供の頃、親から、この世は絶対的なものは存在せず、相対的なものだと教えられた。子供の時は、あまりよく分からなかったが、今になって思うと、正しい示唆だった。世の中は、人間社会であり、絶対的なものはなく、対象に相対化されている。

このことは、『老子』にも指摘してあると知ったのは、後年のことである。すなわち、第二章に記されている。

 天下皆、美の美爲るを知れば、斯れ悪のみ。

 皆、善の善爲るを知れば、斯れ不善のみ。

 故に有無は相生じ、難易は相成し、長短は相較し、高下は相傾き、

 音声は相和し、前後は相随ふ。

 是れを以て聖人は、無為の事に處り、

 不言の教を行ふ。

 萬物作りて而して辞せず。

 生じて而して有せず。

 爲して而して恃まず。

 功成りて而して居らず。

 夫れ唯居らず。

 是を以て去らざるのみ。

解釈としては、次のようになるだろうか。

「世の中の全ての人は、美が美であると認識するには、醜さの存在することを前提としている。また世の中の全ての人が、善が善であると認識するのは、不善の存在を考えている。これは、美醜、善不善だけでなく、有無も、難易も、長短も、高低も、音の高低も、前後についても、同様なことが言える

以上のように、相対的な世の中に住むということは、自己が他者に存在たらしめられているのだから、聖人は、無為の世界に身を置き、あるがままに、言葉なきやり方でやっていく。そのようにすると、万物が興っても、それを押しとどめることはしないし、物が生じても、それを持とうとしないし、自らの力で何事かを成しても、手柄とはしないし、その地位に居ろうともしない。こういうやり方をしていると、自ら去ることもなく、追われることもない」と。

私達は、相対の中で、他者に存在づけれており、自分も他者を存在せしめている。であれば、もっと自然体でいれば、万事、無事に過ごせるのだと説いているのだろう。

もちろん、人間には、見栄もあれば欲もある。あるいは他者によって競争心にも駆られる。そういうことをいろいろ経験して、老子のような考え方に至ることはいいかもしれない。

しかながら、そういうことも経験せず、いきなり老子の考え方に至ることは、若い人に求めない。それは若年寄りと呼ばれて、あまり宜しくない。ただ、頭の片隅に、少し入れていることは無意味ではないだろう。

 

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