« 低成長下の社会保障 | トップページ | 炊飯器メーカーとの相性 »

2011年7月 3日 (日)

『播磨国風土記』を読む その八 印南別嬢

前回、景行天皇の皇后に、播磨国の印南別嬢(いなみわきいらつめ)がなったことを記した。今回は、印南別嬢について記してみよう。彼女は、『古事記』では、針間之伊那毘能大郎女と表記される。景行天皇(大帯日子淤斯呂和気命)と結ばれ、大碓命と小碓命(倭建命、ヤマトタケル)を産む。

古事記の天皇家の系譜だと、景行天皇は、八坂之入日売命との間に、後の13代の成務天皇(『播磨国風土記』の表記では、志我高穴穂宮御宇天皇。しがのたかあなのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと)がいる。では、なぜ印南別嬢は皇后になれたのか。多分、彼女は美しかったのに違いない。それも当時としては十分な教養を備えて。

なぜ、わざわざ、そんなことを記したかと言うと、『播磨国風土記』には、印南別嬢の出生について記されているからだ。

つまり、風土記に記されている所によると、成務天皇の頃、丸部臣(わにべのおみ)たちの始祖である、比古汝芧(ひこなむち)を国の境界を定めよと印南郡に派遣させる。その時、迎えに上がったのが、地方豪族であった吉備比古と、その娘の吉備比売だった(*注)。

政略結婚と考えられるが、比古汝芧は吉備比売を娶り、生まれたのが、印南別嬢なのだ。彼女は、親の躾宜しく、女性として、非常に立ち居振る舞いが美しく、教養もあったので、景行天皇が一目で気に入ったのだった。

となると、これらの一連の話には、普通に考えると、多くの矛盾がある。景行天皇の子供である成務天皇の時代に比古汝芧が派遣されたとすれば、景行天皇と印南別嬢との年齢差は相当大きい。もちろん、可能性はゼロではない。

例えば、成務天皇が、まだ皇太子の頃、比古汝芧を派遣していたとしたら、なんとか辻褄は合う。それでも、そこそこの年齢差だ。そして、成務天皇の母、八坂之入日売命が早く亡くなり、印南別嬢を後に皇后に迎え入れたと考えることもできる。

まあ、ここら辺は、全て推量の域だが、老天皇が、播磨国に巡幸中、地方豪族の若い娘に恋をしたと考えられないこともない。となると、印南別嬢は、当時としては、よくあることだが、かなりの年齢差があり、そういう理由で逃げまわったのかな(笑)。

*注

吉備比古と吉備比売とは兄妹で、孝霊天皇の子だと言う説もあるが、比古汝芧を兄妹で迎えるというのも変な感じだ。ここは親子と考えた方が自然。また吉備の名前から、播磨地域と吉備地域の結びつきが感じられる。彼らは、吉備出身の可能性が高い。

大和朝廷としては、当時、経済力を誇る播磨国を手なづけたい気持ちが大きかったから、その地の有力者と血縁で結びつこうとしたに違いない。また、こういう説が流れるのは、多分、印南別嬢の皇后としての正統性を主張する無理やりの後付け理由だろう。

というのは、ヤマトタケルはあんなに活躍したのに、天皇になれなかったのは、皇后の出自を問題にして、朝廷に多くの抵抗勢力があったからかもしれない。更に、いちゃもんをつけるには、格好の材料があった。それはヤマトタケルが双子であったことだ。母によると、印南別嬢が、獣腹であると非難された可能性があると指摘していた。

ちなみに彼の子の仲哀は、成務天皇に子がなかったため、天皇になっている。

*追記

印南別嬢は二人の皇子を産んで後、城宮田村と呼ばれる宮で、亡くなる。その屍を印南川を渡っている時に、強い風で吹き飛ばされ、川の中に巻き込まれ、探しても、その屍はどうしても見つからなかった。景行天皇は嘆いて、この川の年魚(あゆ)は決して食さないと仰せになったと云う。景行天皇が印南別嬢を深く愛していたのは間違いなさそうだ。

|

« 低成長下の社会保障 | トップページ | 炊飯器メーカーとの相性 »

姫路と播磨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 低成長下の社会保障 | トップページ | 炊飯器メーカーとの相性 »