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2011年8月 8日 (月)

繁文縟礼の整理と身を修める教育

文化が熟成してくると、どうしても繁文縟礼(はんぶんじょくれい)になる。最近は、あまり耳にすることが無くなった言葉だが、念のために意味を記すと、次のようになる。すなわち、「規律や規則が細々として多く、礼儀作法がわずらわしいこと」を指す。

北条早雲は、関八州に入った時、その地が、あまりにも京都的な繁文縟礼の弊風が強く、呆れてしまった。そこで、繁文縟礼の弊風の廃止して、組織の風通しを良くしたと伝えられる(*注)。

最近の日本については、礼儀作法については、いい悪いは別にして、あまりうるさく言わなくなった。ところが、法律が細々として多くなりすぎている。何か問題が起これば、大騒ぎして、官庁や議員に言いたてて何でもかんでも法律を作らせる。

それがため、法律でがんじがらめになり、官の組織が複雑になり過ぎて、いざという時、行政が動けないようになっている。恐らく、今回の大震災でも、適切に行政が動けないのも、そこら辺に大きな理由があると思う。法律と組織の整理が急がれる。それは国家プロジェクトでもいいだろう。

そして、そのために、今、日本人に問われているのは、法律の前に、いかに主体的に、適切に正しく動ける教育がされているかということに尽きる。それに関しては、恐らく戦前の小学生に対する修身教育が、戦後、内容の見直しは必要としても、抜け落ちていることが、残念ながら、それを引き起こしている。

結果的に、義務より権利を主張する人が増えているのだ。これらは、今後の日本の改革点であろう。

*注

早雲は、繁文縟礼の弊風を廃止しただけでなく、苛酷な税を免税によって民力を休養させている。すなわち、地租が安くなった。徳川氏は、その後に来るが、税の安さに慣れきった土地柄に苦労したという。

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