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2011年9月11日 (日)

播磨の織物~播州織

播磨の織物としては、播州織がある。それは兵庫県西脇市を中心として生産されている。先日、西脇市の学生が、東日本大震災で被災した小学校に、自らデザインして、作ったエプロンを贈呈していたが、評判も上々のようであったと聞く。

播州織は素材は木綿だ。作られ普及するようになったのは江戸時代後期。西脇周辺は、水が少なく、ため池に依存していた。だから、雨が降らなくなると、農業生産は滞る。そこで干ばつに強い綿花を生産するようになる。

となれば、自然の成り行きで、大きな農家では、自家用に、糸を紡いで染めて織物を織っていた。それは主として農家で働く農閑期の女性の役割だ。ただ、ほとんど手作業で効率が悪く、せいぜい自家用が限界。

ところで、この地、比延村(現在の兵庫県西脇市比延町)に建築がうまい飛騨出身の宮大工の匠が住んでいた。名を出身地にちなんで、飛田安兵衛という。彼は仕事で京に上り、御所の仕事などをするが、その関係で西陣辺りにも通りかかる。当時、西陣織は、足踏み式が普及していた。

その時は、何となく見ていたのだが、西脇に帰ると、そこでの織物のやり方は、相変わらず座って織っているから、なかなかはかどらないのを発見する。それならと、扱う生地は違うけれど、同じやり方をすれば、もっと楽ができるではないかと閃く。

元々大工だから、木工の扱いはお手の物。それでも、いろいろ試行錯誤しながら、仕事の合間に、数年かけて、やっと作り上げた。そうすると、それを使うと、生産力は数倍になり、余りを売ることができるようになる。それは、やがて、「播州縞(じま)」と呼ばれ、いつの間にか、「播州織」と呼ばれるのが普通になる。

また、当時、織物は、普通、糸を紡ぐこと、染色すること、織ることは分業されていたが、播州織は一貫生産だったことが、コストを下げたのは確かだろう。価格的にも、庶民向けにちょうど良い。これに着目して、全国に広めたのは姫路藩家老河合道臣(みちおみ、後、隠退して、寸翁と名乗る)だ。彼は一手に取り扱い、全国に広め、財政再建の一助にしたと云う。

*追記

それにしても、不思議な縁を感じる。まず、飛騨出身の飛田安兵衛が出てきて、比延町に移り住んだこと。彼が京都で仕事をして、西陣織の現場を見たこと。アイデアを実現しやすい大工だったこと。そして、財政再建にあえぐ姫路藩が探し求めていた商材になったことなど。

*追記

最近、播州織の端切れを使って、扇子を作ったところ、価格も比較的安く設定したため、好評で引き合いが多かったらしい。アイデアのチャンスは、足下にあるということだろう。

*追記

なお、2016年に、飛田安兵衛没後200年を迎える。何か行事が行われるのかな。

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