« 敬老の日について | トップページ | 『播磨国風土記』を読む その十一 根日女のこと »

2011年9月20日 (火)

『播磨国風土記』を読む その十 於奚と袁奚の物語

『播磨国風土記』には、顕宗天皇と仁賢天皇の子供時代のことが描かれている。お二人は兄弟である。なお、後で記すが、二皇子は、弟君が先に第23代顕宗天皇になり、兄君は、後に第24代仁賢天皇になる。

兄弟は、仁徳天皇の孫、市辺之忍歯(いちのべのおしは)の子供で、兄は、於奚(おけ)と、弟、袁奚(をけ)と名乗る。なぜ、この兄弟が播磨の地にいらっしゃったのか。そのためには、まず、天皇家の系譜を知る必要がある。

第16代仁徳天皇には、四人の皇子(内一人の皇子は、仁徳天皇崩御時、反乱して殺される)があり、その後をまず、兄が継ぎ、第17代履中天皇になられる。そして、先ほど記したように、その皇子が市辺之忍歯である。彼の子供が、於奚と、弟、袁奚だ。

普通であれば、履中天皇の後は、皇位継承権のある市辺之忍歯が次の天皇になるべきだが、彼は、大長谷の皇子(後の雄略天皇)に、近江の国の摧綿野(くだわたの)に呼び出され、騙し打ちされ殺され、履中天皇の弟が天皇になる。それが第18代反正天皇だ。

ただ反正天皇には、子供が無く、彼の弟が天皇の位に就く。それが允恭天皇。そして、彼の家系が天皇を引き継ぐ。第20代が安康天皇、第21代が雄略天皇、そして第22代が清寧天皇だ。ところが、清寧には、皇后もなく、もちろん子供も無く、後継者がいないので、問題になっていた。

ところで、於奚と袁奚の二皇子は、琵琶湖の畔で父が殺されたことを目撃した従者、日下部連意美(くさかべのむらじおみ)と共に逃亡する。そして追手から、やっと逃れた地が、志染(しじみ)の洞窟であった。志染は現在の兵庫県三木市。今も、言い伝えの洞窟は存在する。

ただ日下部連意美も、市辺之忍歯殺害には絡んでおり、二皇子の安全を確保したと思ったのか、その罪を恥じて、自害する。頼るべき人もいない異郷の地で、二人の皇子は更に苦労を重ねる。

まず身分を隠して、志染の村長である伊等尾(いとみ)の家に召し使われる。ただし、村長だけは事情を把握していたのだろう。ある時、祝宴にて、燭を命じ、祝辞を述べるように指示する。そうすると、二皇子は、お前がやれ、いや、お前がやれと譲りながら、遂に、弟君が立たれて、次のように詠われる。

  多良知志(たらちし) 吉備の鉄(まかね)の 狭鍬(さぐわ)持ち

  田を打つなす 手拍(う)て 子等

  吾は まさに舞ひ為さむ

これを聞いて、村長は、やはり普通の人ではないと感じ取る。それに、大和の天皇家の後継問題の噂が地方にも聞こえてくる。二皇子の叔母(忍海郎女。実際は、天皇の代行をしていたと伝えられる)が、彼らを探しているらしい。ここは潮時と、皇子たちを、いつまでも隠してはおけないと覚悟する。そこで、まず新築祝いという名目で、大和の山部連小楯(やまべのむらじおだて)を招く。そして、皇子たちに、次の歌を歌わせる。

  淡海(おうみ)は水たまる国

  倭は青垣

  青垣のやまとに坐(ま)しし

  市辺の天皇の御足末(みあなすえ)

  奴僕(やっこ)  良麻(らま)者(は)

これを聞いて山部連小楯はびっくり。急いで帰り、清寧天皇(実際は、二皇子の叔母)に報告する。すぐさま、二皇子は帰還させることになる。そして、まもなく天皇に即位するのだが、一緒に苦労した中なので、譲り合いの精神で一杯。

結局、弟君の袁奚が、まず天皇に就き、後、兄君が、天皇になる。そして、天皇を退いた後、再度、志染を訪れ、宮を造り、近所に住まわれたとのことである。その地を御宅村(みやけむら)と名付ける。

こういう波乱の人生は、誰もが経験するものではない。この話は、子供の頃、母から、読み教えられ、お前は、どう思うとか、感想を求められて困ったことを思い出す。今思うと、高貴な身分に生まれるより、自由気ままに過ごせる人生の方が有難い。

|

« 敬老の日について | トップページ | 『播磨国風土記』を読む その十一 根日女のこと »

姫路と播磨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 敬老の日について | トップページ | 『播磨国風土記』を読む その十一 根日女のこと »