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2011年10月 1日 (土)

万理一空ということ

琴奨菊関が、大関昇進を受ける際の挨拶に「万理一空」という言葉を使っていた。宮本武蔵の『五輪書』からの引用だということだ。大関昇進ともなると、難しい言葉を引っ張り出して来て、その決心を述べなければならないのは、大変なことだ。

ただ、『五輪書』の中で、「万理一空」という言葉を使っている訳ではない。確かに、「兵法三十五箇条」の中に、三十五箇条を記して、最後に、「万理一空のこと」という項目があり、「万理一空の所、書あらはしがたく候へば、自身御工夫なさるべきものなり」とある。ここでは、武蔵は、このことについて、説明していない。

多分、この一文は、『五輪書』をまだ記す前に書かれたものだろう。『五輪書』には、この言葉に対して、彼なりの答えらしきものを記している。

例えば、「地の巻」では、「水の巻」の紹介として、「剣術一通の理、さだかに見わけ、一人の敵に自由に勝つ時は、世界の皆に勝つ所也」とか、「一をもつて万と知る事、兵法の利也」とある。

「空の巻」では、「武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也」とある。

ここに、万理一空に対する武蔵の理解が示されているように思う。心眼を開き、空の状態に持っていけば、恐れるものは何もない、ということを言いたかったのだろうか。

ただ、彼は剣術に禅を取り入れたが、人生の究極を求めた、やり方を参考にしたのだろう。流風の理解では、禅さえも、彼にすれば手段に過ぎない。それでも、剣術に究極を追い求めた武蔵の姿勢は、後世の者にも参考になる。

そして、万理一空についての本当の理解は、『五輪書』を通読しないと正しく把握できない。是非とも、未読の方には、『五輪書』を読んで頂きたい。ただ、『五輪書』には、いろんな解説本や、あるいは口語訳の本が出版されている。だが、本来の武蔵の意図と異なる解釈も見受けられる。できるだけ原文を読むことをお薦めする。

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