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2011年10月 9日 (日)

播磨娘子の別れ歌

万葉集に、播磨娘子(はりまのおとめ)の歌がある。詞書きによると、「石河大夫の任遷さえて京に上りし時、播磨娘子の贈れる歌二首」とある。ただ、播磨娘子については、研究者でも、よく分かっていないらしい。

当時、歌を詠えたのは、基本的に漢語の分かる相当の教養がある者とされる。彼女は遊女だとする見方もある。当時の遊女は、それなりの教養があり、巫女であったかもしれない。そういう見方は、あながち否定もできないが、必ずしも、そうとも言い切れない。

石河大夫については、播磨国の二代目国司、石川朝臣君子であったとされる。彼は、初代、播磨国の国司の巨勢朝臣邑治(こせのあそみのおおじ)が始めた、『播磨国風土記』を完成させた。

その彼が、任を終えて、兵部大輔遷任のため、都に帰ることになる。播磨娘子は、彼の恋人か妻であったのだろう。その時に、彼女が歌を贈ったのが次の歌だ(巻九、1776)。

    絶等木(たゆらき)の 山の峰(を)の上(へ)の 桜花

      咲かむ春べは 君を思(しの)はむ

「絶等木」とは、桜木の意味のようで、「桜の山の峰に桜が咲くころには、あなたは行ってしまうのですね。今更ながら、あなたのことを忍ぶことになるのでしょう」ぐらいの意か。桜の山の峰とは、姫路城が建っている姫山と推定される。西の丸辺りだと指摘する人もいる。

もう一つの歌は次のようだ(巻九。1777)。

  君なくは 何(な)ぞ身装はむ くしげなる

      つげの小櫛を 取らむとも思わず

解釈としては、「あなたが行ってしまったら、もうオシャレもする意欲も沸かない。櫛箱から、黄楊の櫛も手にする気にもなれないわ」という感じで、これは現代でも同じだろう。別れた時はそんなもんだろう。

これに対して、石河大夫の返歌もないところから、彼女が遊女だという意見も出るわけだ。しかしながら、多くの古典にも、男女の和歌のやり取りの記録はあるが、返歌が、あまり秀歌でない場合、記録されない場合も多い。ただ、『播磨国風土記』を記したような当時の知識人である、石河大夫が歌を返せないはずもない。

だから、この歌は、彼が去ってから、作られた可能性もある。果たして、本当に、これらの歌が贈られたのだろうか。単なる事後の嘆きにしか聞こえないのだが。

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