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2011年11月30日 (水)

クウェートと日本

クウェートから、東日本大震災に対しては、4月18日に、原油500万バーレル(約80万キロリットル)を寄贈すると発表している。これは金額にして、約400億円だ。一国の寄贈としては抜き出ている。半年後の10月にその一部が届いている。

ついでに記すとクウェートがイラクに侵攻された時は、日本は多国籍軍に参加できず、130億ドル(円に換算して、約1兆4千億円)を戦費として拠出させられたが、これはクウェートには、ほとんど行っていない。大半を米国が吸い上げた形で、クウェートに行ったのは日本円にして6億3千万円に過ぎない。クウェートから感謝の意が表せられないのは当然であった(*注)。

それでも、今回、クウェートは日本の多くの原油を寄贈してくれたのだ。ところが、台湾からの義援金が約200憶円で突出していることは、よく報道されるが、このクウェート原油の寄贈は、あまり報道されないように思う。それは最初、不足する電力需要を賄うためと報道されたからかもしれない。

実は、日本政府は代金の相当額を海外救援金として、被災地に割り振り配分している。このことを多くの日本人は知らないのではないか。もっと、クウェートに関心を持っていいと思う。彼らは石油が枯渇する前に、自然エネルギーの開発に注力している。そういう点でも日本はもっと関係を強めて貢献すべきだろう。

また一般人としては、彼の地に、もっと興味を持っていいだろう。大きなビルが林立するイメージが強いが、海岸リゾートは魅力的。海遊びが好きな人には観光先として向いているかも。流風は、クウェート文化に関心がある。もっと文化交流もしてほしいものだ。

*注

後日、感謝されなかったのは違うと言う見解が出たが、当時の雰囲気は、そうであった。後に、感謝の新聞広告が調査もせずに、日本を外したということになっている。よって、当時、どれくらい、クウェート政府が日本に感謝したかは不明。

但し、クウェートは、戦後発行した解放記念切手シートには、日の丸を組み入れているらしい。また現在では、戦争記念館に、日本国旗を掲揚し、支援金額(130憶ドル)を説明するパネル展示もしているという。検証してみて、日本に後で感謝したということだろう。

*平成24年7月19日

クウェート政府は、200万ドルを海外救援金として、赤十字に寄付した。本日、寄贈式があったようだ。日本円に換算して、約1億6千万円。有難いことだ。

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2011年11月29日 (火)

政令指定都市の解体

大阪は長期に低迷している。理由はいろいろあるが、既得権に安住している人が多いからだろう。時代の変化を読みとれていない。特に公務員は重症だ。高い俸給(特に上級職)や手当に、多くの無駄遣い。一般公務員では、労組の権利を要求するが義務を果たさないサボタージュ。

大阪の人たちも、やっと事態の重大さに気付いたのかもしれない。大阪市長選で、大阪維新の会の橋下徹氏が当選した。大阪府も大阪維新の会の幹事長が当選しているから、今後の大阪再生の行方は、大阪府民や大阪市民でなくても、気になる所だ。

公務員の高い俸給と共に指摘されるのは、府や県と政令指定都市の二重行政の無駄だ。昔から言われてきたが、遅々として改められなかった。そこに切り込もうとしたのが橋下徹氏だ。既成政党では、やろうとしなかったことは明らかだ。果たして、大阪維新の会が大阪改革できるだろうか。

ところで、政令指定都市は各地にある。概ね100万以上の人口を抱える。県や府とは関係なく、独自の政策を推し進めることがてきる。ただ弊害も多い。独自の政策はいいが、周囲との協調という意味では問題が多い。

また独自性で住民にアピールするため、ええかっこして、経済計算を無視した政策が行われる。例えば、地下鉄事業は、近畿の政令指定都市では、全て失敗で赤字を積み重ねている。利便性は増したかもしれないが、最終的に住民に対して負担は大きくなる。

財政赤字になれば、政令指定都市と雖も活動は不活性になる。今、多くの政令指定都市は国のお荷物になりつつある。それに住民にとっても、必ずしも住みやすいとは言えない。人口が、基本的に50万人を超えると、市政は隅々まで行き届かないことが多い。

凡そ、サービスの性格からして、行政サービスも、規模が大きくなると、品質レベルが落ちざるを得ないのだ。国は、未だに政令指定都市の認可か続いているようだが、これは明らかに過去の政策を惰性で続けているだけだろう。

今後は、むしろ、政令指定都市制度を廃止して、現在の政令都市は、諸権利を返上させ、人口50万人以下の人口になるよう解体すべきだろう。そして、もう一度、府や県の役割を再認識すべきだ。そうしないと、道州制への移行は無理だろう。

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2011年11月28日 (月)

松平不昧のこと

以前取り上げた宗雅すなわち、酒井雅楽頭家二代目姫路城城主、酒井忠以(ただざね)は、松平不昧(ふまい)を兄と慕ったと伝えられる。宗雅は、不昧に刺激されて、茶の湯を愛するようになる。不昧に対して、茶道具について、いろいろ問いあわせして、教えを乞うている。その往復書簡が残っている。そして、彼に心酔して、自らを小天狗と呼び、不昧に対しては、大天狗と呼んでいた。

さて、今回は、その松下不昧について、少し触れてみよう。彼の正式の名は、松平治郷(はるさと)。不昧は号である。『無門関』の「不落不昧」から取ったようだ。彼が松江藩藩主になった頃は、藩の財政は破綻していた。財政改革の必要性から、家老の朝日茂保丹波守と共に改革を急ぐ。

実は、この改革は、不昧の父の宗衍(むねのぶ)の時から、家老小田切尚足を使って、始まっていた。ところが、既成勢力からの抵抗が激しく、いろんな不幸が重なって、財政改革は失敗し、小田切尚足は責任を問われて失脚する。宗衍も自ら退いて、雰囲気を変えようとする。

その結果、不昧は17歳で第七代目松江藩藩主になる。不昧は、改革担当に朝日茂保丹波守を指名。しかしながら、実際の改革は、息子を正面に出しながら、実質、宗衍が朝日茂保と密な連絡を取りながら改革を推進したようだ。息子の不昧は、リモコンロボットの感じ。でも、そういう役割は必要だった。そういうものかもしれない。

いずれにせよ、大胆な藩政改革を行い、リストラを遂行すると共に、農業政策を強化する。すなわち、治山治水工事と新田開発で、水害の被害を小さくして、農作物の収穫増を図る。更に特産品の開発にも注力している。特に、木綿、薬用人参(朝鮮人参)、楮(野白紙)、ハゼノキ(木蠟)の栽培を奨励した。

財政再建のためには、借金の棒引きもしている。藩札を使用禁止にしたのだ。これに合わせるように、当然ながら、歳出削減のため倹約令を発している。更に優秀な人材を登用し、村役人の既得権になっている特権を取り上げている。これらの対策の結果、数年で、最終的には、借金はなくなり、倉には8万両の金銀が積み上げられたという。

問題はここからだ。これを見た松平不昧は変な安心感から、茶道楽に莫大な、お金を投じていく。朝日茂保丹波守の了解はあったものの、茶道具道楽にのめり込んでいく。彼は若い時は、茶道具収集を馬鹿にしていたから、大いなる変節である。何か特別の裏事情があったのか。

それで、再度、財政は悪化していく。こうなると、財政改革は一体何だったのかと疑いたくなる。当時、幕府の財政も逼迫していた。そういう事情もあるのだろう。財政再建しても、最終的には、幕府に吸い上げられてしまう。それなら、茶道具で持てば、それだけは松江に残せると考えたのだろうか。

なお、彼の集めた高価な茶道具は、死後、雲散霧消していく。そして、松江には、茶の文化だけ残ったとさ(笑)。確かに一度、松江に行ったことがあるが、そういう雰囲気はある。彼のやったことも無駄ではなかったのだろう。

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2011年11月27日 (日)

平清盛と神戸 その十一 須磨各所(二)

須磨各所の続き。

●平重衡とらわれの松跡

平清盛の五男で、生田大手門を守る副将・重衡は形勢が悪いと判断し、須磨に逃れる。しかし、源氏方の梶原源太景季(かげすえ)によって馬を射られ、捕われる。その時、大きな松の根に腰をおろして無念の涙を流した。それを見て、村人が、濁酒を一杯差し出すと、彼は大変喜んだという。そして、次の歌を詠ったという。

   ささほろや 波のここもと 打ちすぎて

      須磨でのむこそ 濁酒なれ

かつては、「腰掛の松」と云われる大きな松があったらしいが、今はない。なお、重衡は、捕虜になって、鎌倉に送られ、奈良で処刑されている。なお、彼が捕われたことで、平家の没落は決定的になった。これで宮中も平家に手を差し伸べることは不可能になったと伝えられる。

山陽電車須磨寺駅下車すぐだが、あまり知られていない。

●安徳帝内裏跡伝説地

源氏との戦いに敗れ追われた平家は、第八十一代安徳天皇を奉じて、西走する。その途中、一の谷に陣を構えて、反攻の機会を窺うが、義経の奇策により破れ、屋島に逃れる。この時に、一の谷に内裏(御所)が置かれたと伝えられる。そして、寿永四年、壇ノ浦の戦いに海中に七歳で、祖母の二位尼に抱かれて身を投じられ亡くなった。安徳天皇のご冥福を祈るために、祀られた。これを安徳宮という。

山陽電車、須磨浦公園駅から徒歩約15分。

●勝福寺

清盛が寄進したと伝えられる密教法具や清盛の築島供養の幡や松王丸が父に宛てた手紙と称する文書もあるらしいが、公開はされていない。水害で倒壊していた本堂が、71年ぶりに、2009年に再建された。

山陽電車 東須磨駅下車

●聖霊大権現 證誠神社

清盛を初め、平家一門は、1182年、遷都するにあたり、当地の守護神として、聖霊大権現に対して崇敬篤かったという。明治時代に、證誠神社と改められた。

山陽電車 東須磨駅下車

●妙法寺

清盛が、福原遷都の際、平安京の鞍馬になぞらえ、ここを新鞍馬と称したという。彼は、この地を鎮守の森として保護した。

地下鉄妙法寺駅下車、徒歩約10分。

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2011年11月26日 (土)

平清盛と神戸 その十 須磨各所(一)

今回は、平家と須磨の関係各所を紹介しておこう。ただし、須磨は平家にとって、あまりいいところではない。源氏に追い詰められた地であり、多くの平氏関係者が亡くなったところだ。その滅んでいく姿を清盛は見ていない。それでも、一応記す。

●須磨寺

源平の庭、敦盛首洗いの池、敦盛の首塚がある。源平の庭は、一の谷で平敦盛と熊谷直実が一騎打ちで戦った場面を再現した庭。敦盛首洗いの池は、熊谷直実によって平敦盛の首を洗ったと伝えられるところ。敦盛の首塚で、毎年旧2月7日に敦盛忌の法要がある。

なお笛の名手だった敦盛の遺品として伝わる「青葉の笛」も、この寺に所蔵されている。その他にも、清盛寄進の鼓も展示されている。

なお、境内には、出世稲荷神社がある。元々は、清盛が、福原の守護神として湊川の畔に奉安したもの。後に彼が、太政大臣まで上り詰めたものだから、出世稲荷と呼ばれるようになったという。

山陽電車、須磨寺駅下車。智恵の道・須磨寺商店街を歩いていくとある。

●平家一門の供養塔、敦盛塚

源平合戦で、多くの散って行った若武者を供養する塚がある。五輪の石塔だ。高さが約3.5mある。別名、敦盛の胴塚とか敦盛塚と呼ばれる。彼は、清盛の弟・経盛の子。江戸時代には、西国街道を通る旅人や参勤交代の大名が手を合わせたという。

沖の船を目指し逃げようとする武者に対して、熊谷直実が、「敵に背を向けるとは、何とも見苦しい。お戻りなされませ」と声を掛ける。そして、打ちあい兜を押し上げ、顔を見ると、年端も行かぬ十代の若者。それが敦盛だ。当時16歳。

44歳だった直実の自分の息子と同じぐらいだ。思わず逃がそうとするが、敦盛は源氏の他の武将たちが近づくのを見て、「早く討て」と言う。止む無く、直実が討取った話は有名過ぎるぐらい有名。彼は、このことで出家する。

なお、この塚は、本来、北条貞時が平家一門を供養するため建立されたものらしい。当初は、「あつめ塚」と呼ばれていた。それが、なまって「あつもり塚」になったらしいとのこと。

江戸時代には、近くにあった茶屋で、敦盛蕎麦を食べて休息したという。残念ながら、今はない。一時的に再現しても面白いと思う。

山陽電車、須磨浦公園駅から徒歩約3分。

次回に続く。

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2011年11月25日 (金)

年末の掃除の準備と年始の手配 2011

今朝は大変寒い。夜は何回も目が覚めた。昨晩、ショウガ湯を飲んだが、あまり効果なし。急に冷え込むと、長時間、温かさを保ってくれないらしい。二度寝、三度寝して、朝目覚めても、寝間から出るのが辛い。子供の頃、母から「早く起きなさい」と、掛け布団をめくられたことを思い出す。

さて、今年も、11月が終わろうとしている。大掃除の準備も、そろそろしなくてはならない。大掃除は、年二回する。お盆前の夏と正月前になってからだ。年末に、何もかもとなると寒いし、大変だ。だから、夏に半分くらいやっておくと、年末の大掃除は楽になる。結局、そんなに大騒ぎする必要はない。普通の掃除を若干、場所を広げて掃除するくらいだ。

掃除のため、この時期に買うのは、新しい雑巾、磨き材、重曹、消毒用エタノールくらいだろうか。この中で、重曹は、母が茶渋を落しすのに使っていたのを思い出して、今年から、使い始めた。

重曹、すなわち炭酸水素ナトリウムは、弱アルカリ性で、安全だ。酸性の汚れを重曹で中和するわけだ。ただ、汚れの強い所は、なかなか落ちないこともある。その場合は、お酢を付加する。何と言っても、価格が安い。最近は、100均でも売っている。スプレー型も売っている。

茶渋落しにも使っているが、キッチンの排水口、風呂の排水口、洗面の排水口に、今まで使っていた洗剤の代わりに、振りかけて、しばらくして、水を流すと、排水口だけでなく、排水パイプも綺麗になる(多分)。

排水口には、細菌が貯まるので、これを適切に処理することは大切な掃除だ。夏ほどの頻度ではないにしろ、やはり定期的なメンテナンスは必要だ。特に流風が住んでいるような古い家にありがちな下水からのメタンガスの逆流を防ぐ効果もあるようだ。聞いたところでは、放置すると、メタンガスを生じて健康を害す危険性もあるので、それを防ぐ効果もある。

これからは他の場所にも重曹を使おうと思う。従来は、消毒用エタノールを使っていたのだが、どちらが、より有効か試してみたい。聞いたところでは、ガスコンロとか、風呂の掃除にも有効だそうだ。となると、スプレー型が必要だから、先日買ってきた。重曹を使った掃除の範囲が広がりそうだ。今まで使っていた各種掃除用洗剤は不要になるかもしれない(*注)。

そして、来年の準備をせねばと、先日、手帳を購入した。最近は、100均で買う。いろんな内容が詰め込まれた高い立派な手帳もいいが、若干使いづらい。100均で売っているようなシンプルな方が使いやすい。今回は、B5のノートサイズと普通の手帳を購入。カレンダーについては、未定。毎年、業者の方から、いくつかもらうので、いいものがあれば使うので、なければ購入することになる。多分、押し迫ってから購入するかも。

そして、お節は、今年は購入することにした。冊子を渡されて見ていると、「田舎お節」風のお節が今年から登場していた。市販のお節は全般的に甘辛く味が濃い。腐りにくくするため、そうするのであろうが、歳と共に、糖分や塩分は控えねばならない。となると、市販のお節はどうしても敬遠がちになる。果たして、今回のお節は、どのような味付けだろうか。期待と不安。いずれせよ、今年も、はや終わりに近づきつつある。一年が経つのが早いなあ。

*注

スプレーは、スプレー型のボトルを買わなくても、スプレーボトル容器かあれば、自分で作ることもできる。スプレーボトル容器を用意し、200ccの水に、重曹を小さじ2,3杯程度入れて溶かし、スプレーボトルに入れるだけでいいらしい。

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2011年11月24日 (木)

落語『権助提灯』から見る男の悲哀

前の記事で、「分を知る」について記したが、この落語、『権助提灯』は、それをよく表している。若い人には、現代の感覚では、分からない人もいるかもしれない。あらすじは次のようになっている。

ある大家の主人が、ある所に、お花という妾を囲っていた。本妻も公認の仲で、妬いたふりも見せず、嫉妬などは、おくびにも出さなかった。昔の人は、そういう人が多かったが、本当の胸の内は分からない。ただ、昔の水商売上りの女性は、それをよく心得ていたという。明治維新をやった人たちは、それが分かっていたので、花柳界から妻を迎えている人が多い。

話を本題に戻すと、妾の方も、自分の立場をわきまえ、本妻をきちんと立てていた。ある晩、主人が妾の所から戻ってくると、本妻は、「今夜みたいな夜は、火の元が不用心だから、お花と女中だけでは心配です。あちらの宅に行っておやりなさい」と言う。

なるほどと思った主人が、権助に提灯をつけさせて、お花の元に行くと、お花は、本妻の心配りに感謝して、「このままお泊めしたのでは、お内儀さんに申し訳ない。今夜は本宅にお帰りください」と言う。それもそうだなと思い、本宅に帰ると、「お花は、なんといじらしいこと。今夜は、是非、お花の元に帰っておやりなさい」と本妻が言う。

こうして、主人が本宅と妾宅を、延々と何回も行き来したりしていたが、「権助、また提灯をつけな」と言うと、「いや、提灯は必要ありません。夜が明けましただよ」、という筋。このように主人は妾を囲ったものの、本妻と妾に、うまく遊ばれてしまって、くたくた。もちろん、裏には、双方の女性の見えない嫉妬があるのだろう。

これでは、主人に付きそう権助も、たまらない。どんなに賢婦人を装っても、その心の実はわからない。心は、煮えくりかえっているかもしれない。公認の浮気でも、女性には、許せないということだろう。妾の方も、表面的には分を守っても、主人を独占したい欲がある。

女性は、どんなに教養があったり、美人でも、皆同じで、男が浮気するには、相当な覚悟がいるということを、この落語は、冷やかしている。そして、別の見方では、男とは、女性に、うまく、あしらわれている時が、案外、うまく行くことを示しているのかもしれない。仏の掌ではなく、せいぜい女性の手の上で、もてあそばれる男は、哀しい動物だ(笑)。

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分を知るということ

今は、一応、平等社会で、「分を知る」と言っても、なかなか通用しないようになっている。それでも、「分相応」という言葉は時々使われている。「分」とは「身分」のことだ。江戸時代の身分社会では、それぞれの身分で、己の分を守ることは常識と考えられた。

だから、戦国時代のような下剋上もない、競争のない社会と言えよう。そういった社会では、分さえ守っていれば安全だ。分は、士農工商だけにとどまらない。商家では、主人と従業員は、きちんと身分として区分されていた。よって、主人の娘と従業員の恋愛は御法度。これを犯せば、「お夏・清十郎」のような事件に発展する。

また商家の旦那は妾を囲うことはよくあったが、本妻の扱いは明らかに違い、妾も、その分を守ることが、よしとされた。盆、正月には、妾は本妻に挨拶に行き、十分な土産とお小遣いが渡された。格がきちんと認識されていた。最近のように、愛人が威張るようなことはなく、妾は一歩引いていた。よって、「日蔭者」と自ら卑下していた。

そのような社会に、別に戻せとは言わない。ただ、もう少し落ち着いた社会を望むなら、それぞれの分野で頑張り、それをお互いに評価する必要がある。現代のように、自由競争が横行すると、やたら騒がしく、落ち着かなくて、ぎすぎすした社会になりがちだ。

身分社会がいいとは言わないけれど、現代的に、「分」をもう一度、考える時代に来ているのではないだろうか。義務を放棄して、責任を押し付け合うのではなく、それぞれの自分の持ち場を大切に生きることは意味がある。

そのためには、高い地位にいる人や、責任者は、リーダーとして、それに相応しい考え方を持ち、行動を起こし、人々を正しく導かねばならない。それは国際社会でも同様だろう(*注)。

*注

但し、「分を知る」(ここでは、道理を知ると意味での「分を弁える」という言葉と若干ニュアンスを異にして、一応分けている)が行き過ぎると、社会は停滞する。特に駄目なリーダーだと、社会が不安定になる。良くも悪くも、リーダーによって、大きく影響を受ける。バランスは必要だ。

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2011年11月23日 (水)

平清盛と神戸 その九 兵庫津・山側(二)

兵庫津・山側の続き。

●雪の御所旧跡

これは雪御所町、湊山小学校の校庭に碑がある。清盛の邸宅があり、彼は、14年間のほとんどを、この地で過ごしている。そして、大事業の計画の各政令は、ここから出されたと云う。ただ、平家都落ちの際、悉く灰塵に帰した。本皇居は、雪の御所の北にあったようだ。

福原京の中心であった平野、荒田、宇治野、石井、夢野地区には、平家一門の別邸があったと伝えられる。

市バス利用時は、市バス石井町下車 東200m

●清盛が使った温泉

「本皇居から一町の所に湯屋がある」と伝えられている。清盛が日常的に利用、湯治した温泉があったと考えられる。天王温泉、湊山温泉辺りか。天王温泉は廃業している。

なお、湊山温泉は泉源は、無色透明で炭酸ガスが泡立つ。全ての浴槽で、掛け流しを行っている(大人630円)。JR神戸駅よりバス。平野バス停下車。

●安徳天皇行在所跡 荒田八幡神社

平清盛の弟の池の大納言、頼盛の山荘があったのは、現在の荒田八幡神社の境内だ。清盛が、治承四年(1180年)6月3日、福原に遷都を行った際、6月23日、安徳天皇の行在所(あんざいしょ)になった。

荒田町3丁目。バス利用時は、市バス大学病院前 西200m

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2011年11月22日 (火)

平清盛と神戸 その八 兵庫津・山側(一)

神戸の平清盛ゆかりの地として、今回は、神戸駅(JR神戸駅、高速神戸駅、高速神戸新開地地駅)の山側にある各所を紹介しよう。

●厳島神社

清盛は、平家一族の守護神として、広島・安芸にある厳島明神を篤く信仰した。彼の厳島明神に対する思いは並々ならぬものだ。彼にとって、厳島明神は海の神様のように捉えているのではないかとも思える。

兵庫津築港に尽力した清盛は、安芸国厳島神社から、ご祭神を勧請したのが創建の始まり。厳島の七浦になぞらえて、七弁天として、七社の厳島神社があったと云う。すなわち、花隈弁天、佐久江弁天、夢野弁天、西宮内弁天、真野弁天、渦輪弁天、そして、ここの外弁天。

永沢町四丁目。神戸高速鉄道・新開地駅、南西2分程度。

尚、兵庫県下では、室津にある厳島神社も勧請して創建している。これも、やはり海の傍だ。この神社については、別の機会に触れてみたい。

●平通盛・小宰相の局・呉葉五輪塔 願成寺

願成寺の墓地に、一の谷の源平合戦に戦死した越前の三位、平通盛の塔、その妻の小宰相の局の塔、局の乳母、呉葉(くれは)の塔がある。通盛と小宰相のエピソードは有名で、以前取り上げた。

そして、小宰相の局の塔と呉葉の塔の間にに、一際大きい住蓮上人の五輪塔がある。住蓮上人は、法然上人の高弟。呉葉は住蓮上人の妹(義妹の可能性もあり)とされるが、はっきりしたことは分かっていない。また、この寺には、小宰相の局の念持仏である延命地蔵尊がまつられている。

松本通二丁目。地下鉄湊川公園駅、北西200m

●平業盛塚 善光寺

業盛は、清盛の弟の教盛の末子。源氏方の泥屋四郎、五郎の兄弟と組んで戦い、討取られる。17歳だった。この寺に祀られている。

会下山町。市バス利用時は東山町下車、西600m

次回に続く。

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2011年11月21日 (月)

ジュディ・オングさんの講演会に行く

久しぶりに講演会を聞きに行ってきた。長い間、講演会には行っていないので、何年振りだろう。いや、十年ぶりかな。若い頃は、仕事が終わってから、よく講演会に行った。会社にいると、どうしても世間が狭くなるので、世界が、日本が、経済界が、どのように動いているのか、若干、背伸びして、講演会を聞きに行ったのだ。仕事とは直接関係ないので、上司から、少し色々言われたが、容認してくれた。

さて、今回の講演会の講師はジュディ・オングさん。明石市立文化博物館での『ジュディ・オング倩玉~木版画の世界展』では、ミニセミナー聞くことができなかった所、丁度、彼女の講演会があるというので、早速、申し込んだところ、当選。今回は、並ぶ必要もなく、席を気にしなければ、大丈夫なので安心していた。それでも、念の為、開場より30分早く駆けつけると、すでに100人程、並んでいた。やれやれ、彼女は、どこでも人気が高い。

その講演会のテーマは、「輝いて生きる」だ。姫路市が催している「生涯現役フォーラム」の中での講演になったので、そういう内容になったのだろう。実際、来ている人たちは、流風より年齢の高い層がほとんど。ジュディ・オングさんは、60歳だから、兄や姉さんの方々への講演であるかもしれない。流風からすると、彼女は、少しお姉さんだが(笑)。

実物のジュディ・オングさんにお会いするのは初めてだが、実に若々しい。お顔や外見は、遠くの席から確認したので、その実態は分からないけれど(笑)、実にきれいだ。それに声が通って若い。何が、彼女をそうさせるのだろう。

まあ、講演内容は、結果的に、その原因を話された。まず、「魅せられて」を万里の長城やザ・ベストテンで歌った時のエピソードや、時代劇出演のエピソードなどを面白おかしく話され、掴みは十分。思わず引き込まれる。うまいなあ。

彼女は、3歳で台湾から日本に来た時、父親が台湾のアイデンティティーを失わないような教育の結果、小さい頃から、内外で、日本語と台湾語を使い分けた経験。どうも、これが彼女の原点のようだ。結果的に、いろんなことに好奇心を持つことになる。

彼女は、人間には、いつも好奇心が大切と説く。好奇心は、人を前に進ませ、行動へのパワーの素になる。別の言葉では、国際人になるには、好奇心がまず大切で、語学は道具に過ぎないと断言する。見たい、聞きたい、知りたいという好奇心が新しい世界に導く。

また高齢者には、25歳の精神を持てと説く。すなわち、あの頃の好奇心、少し社会が分かった感じ、何かやりたいという意欲。また肉体年齢も自己管理で遅くすることができる。戸籍上の年齢は、「単なる数字」と割り切れと。なるほど。男は八掛け、女は七掛けと考えよ、とよく言われるけれど、常に25歳の精神を持つとは、新しい発見だ。

そして、最も大切なことが、「笑顔をわすれないように」ということ。笑顔のある所にが人は集まる。そのためには、まず、年齢と共に下がる口角筋を上げることだ。これは、よく言われることですね。流風でも知っている。できていないけれど。

そして、彼女が説くには、やるべきことは、夜、寝る前に、鏡を見て、にっこり笑うことを三回続ける。その顔で就寝する。朝起きたら、夜やったことを三回続ける。それで一日がいいスタートを切れる、と。このことは、以前、温泉旅館の女将が、若女将に、そのような教育をしていると聞いたことがある。

更に、朝のその笑顔という気を強く押し出す。例えば、近所の人への挨拶は、明るく、いい声でする。ついでに、気分が明るくなるように、いいことを話す。そうすることで、自らの心が開き、相手の心さえも開いてしまう。そうすると、そこに笑顔が残って、一日が豊かになる。

次に言っておられたのが、人間、どんな年齢になっても、夢や挑戦を持ち続けることが大切と説く。やれそうだったら、やりたいことを強く思い続けることが大切だ。気持が枯れないように努める。夢を持って、楽しくなると、世の中が明るく見える。ただ夢は簡単に、あきらめてはならない。特に、やらずに諦めるのはいけない。

挑戦して、やってみて、駄目だったら、それは仕方ない。ただ、一の矢に撃たれても仕方ないが、二の矢に撃たれてはいけない。くよくよして、時間を浪費するのが一番いけない。二の矢に撃たれないようにしよう、と。ふむふむ。

20年前に大病を患われたようだが、彼女は、最初は、なぜ、こんな大切な時に、病気になって、どうしようと悶々としたが、ある日、看護師に掛けたられた言葉で、新しい発見をする。それは多くの人が彼女を支えているということが分かったから。そこから周囲への感謝の気持ちが強まる。転んでも、ただでは起きぬとは、商人の心得だが、常に学ぶ姿勢で前向きに。感心、感心。

最後に、中国の詩人、劉海鮑氏の詩を紹介された。台湾語は分からなかったが、詩の内容は、「食は腹七分目で満足し(全ての欲をほどほどにする)、全てのことに処するに好ましくし、善を為すことが最も快楽である思うことが、健康に歳を重ねる最もいい方法である」と。なるほどね。

以上が、流風が理解した講演会の概要だ(但し、版画をやるようになった経緯も述べられたが、ここは省略)。確かに対象は、高齢者であったが、若い人たちにも参考になる内容だろう。久しぶりに、気分が明るくなる内容だった。ジュディ・オングさんに感謝したい。そして、主催者にも。

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2011年11月20日 (日)

世帯仏法腹念仏ということ

坊さんが念仏を唱えるのも生活のためだ。それは、世帯仏法腹念仏という言葉で、表される。父が、よくいっていたことに、お寺とは適切な距離を置けということがあった。宗教団体と宗教は別物という考えだ。

人が生きるには、それぞれ宗教や哲学が必要があるかもしれないが、それは各個人の問題で、宗教団体とは本来関係ない。宗教団体は、ある意味、ビジネスなのであって、彼らは、それを職業にすることによって飯を食っていることをよく知るべきだろう。宗教団体や宗教者に過大な期待をしてはならない。

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2011年11月19日 (土)

テレビの時代劇ブームは再び来るか

大衆劇では、今、静かなブームだそうで、若い女性の観客も増えているという。そして、改めて、時代劇の楽しさを再確認している。宝塚でも、そういう催しがあるようだが、料金も高いし、敷居が高い。若い人たちの懐具合を考えると、大衆演劇は、ちょうどいいのだろう。

流風も、舞台を観に行くことはあまりないが、どこの国の時代劇テレビドラマが好きだ。それぞれの国の思いが感じられて、ふんふん、なるほど、そういう考え方か、と思わせる。韓国の時代劇テレビドラマも、ある程度、ワンパターンだが、支持されるのは、そういうところもある。

もちろん、これらは、制作者の意図があり、国民を代表する意見ではないかもしれない。でも、各国民の琴線に触れなければ、作られることもないだろう。時代劇ドラマは、その国の国民性が出てくる。それはアジアの人々に共通する思いであることも多い。

ところが、日本の民放は、ついに『水戸黄門』の制作中止を発表している。スポンサーで、メーカーのオーナーだった松下幸之助は、大変好きだったらしいが、彼と共に、忘れ去られるのだろうか。これで、民放の時代劇は、ほぼ全て無くなってしまった。

だが、テレビ局は、時代が読めていないというか、マーケティングが出来ていないと思う。また彼らは、時代劇の存在価値を知らないのかもしれない。時代劇は、ある意味、教養娯楽番組であると考えれば、いつの時代も必要な物である。

世の中、なかなか、勧善懲悪とは、行かないものだが、それでも、人々の心には、そうあって欲しいと望む気持ちがある。現実の憂さを晴らす時代劇の存在は、それなりに意味を持つ。そして、子供たちには、人として、あるべき姿を伝えられる。かつて、テレビのない時代は、落語、講談、浪曲が、その役割を果たした。

現代は、これらを聞くのにも、割と金がかかる。テレビ局は、もう一度、時代劇ドラマの意味や価値を再考してもいいと思うのだが、流風は古いのだろうか。

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2011年11月18日 (金)

平清盛と神戸 その七 兵庫津辺り(四)

兵庫津辺りの続き。

●萱の御所跡 薬仙寺

薬仙寺の境内に、萱の御所跡がある。現在は碑が立っている。清盛が、後白河法皇をここに押し込めていたことから、そのように呼ばれた伝えられる。別名、牢の御所と言われたようだ。但し、実際の場所は、夢野にあった平教盛邸とする説が有力になっている。碑は薬仙寺の霊泉跡の東手にある。元々は新川運河の地にあったが、工事に伴い移設された。

なお、「萱の御所」は、清盛の邸宅であったと考えられたが、最近の調査では、夢野にあった平教盛邸ではなかろうかと指摘されている。

今出在家町四丁目。JR兵庫駅より約15分。

●「歴史館」

なお、中央市場前駅下車すると、中央卸売市場西側跡地に、2012年1月21日オープン予定(~2013年1月14日まで)の「歴史館」が造られる。内容としては、平清盛に関する歴史的な展示や映像紹介をする。平安時代の暮らしの紹介や、遺跡や出土品の紹介あり。

交通の便を考え、また兵庫津エリアの案内拠点になるので、それを視てから観光に回るのもいいだろう。各種イベントや、神戸の物産品の販売もある。地元グルメの提供もするとか。入場料、大人300円。但し、ドラマ館と共通で700円(*注)。

以上で、兵庫津辺りの案内を終える。兵庫津は、要するに海側。次回からは、山側を紹介しよう。

*注

なお、ハーバーランドセンタービル内(JR神戸駅近く)に、同じ期間で「ドラマ館」が造られるそうだ。要するに、大河ドラマのアピール館だ。出演者紹介やドラマ映像やパネル展示。その他には、衣装、小道具の展示もあるそうだ。入場料、大人600円。ただし、歴史館と共通で700円。お金取るんだ(笑)。関心のある方はどうぞ。

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2011年11月17日 (木)

急がれる教育界のリストラ

少子化が進行しているのに、文部科学省は、予算を肥大化させている。これは決して望ましいことではない。小学校では、50人学級を30人級にして、余剰教員のリストラにも着手していない。それは中学校も同様だ。

更に義務教育ではない高校教育も、現在の国の実情とはかけ離れた教育が、未だ施されて、形骸化している。特に普通科の学生は、学習の意義を見失っている者も多い。高校改革には、一部の専門職業高校を除いては、未だメスが入れられていない。

大学も同様だ。昔も駅弁大学と揶揄された私立大学はあったが、現在は、更に、小泉政権の規制緩和後、それが拡大している。そんな大学の学生の学力は、高校卒以下だという。それでも、卒業すれば学士様だ。何の能力もなくても、一応、大卒の資格を得る。

企業には、そんな人材は要らない。ただ大学を出ただけで、教養もなく知識もないのに、プライドだけは高くなり、仕事を選び過ぎて、若年失業者の予備軍になって、ついには、一部には、生活保護を受けるまでになっている。

大学を出ても、能力はないのに、変なプライドばかりついて、能力とはかけ離れた就職を望み、それが叶えられないと就職しない人々は、西欧に見られるように、やがて反社会勢力になる危険性もある。

全ての人が大学を出る必要もない。そんなに大卒が必要だろうか。もっと専門職業能力を磨いて、高卒で就職してもらった方が世のためになるだろう。まして、日本では大学院出身は、あまり企業に評価されない。大学出と大して能力は変わらないからだ。むしろコストが高くつき、社会に出るのが遅れて、見劣りするぐらいだ。

企業も、採用基準を見直す時期に来ている。別に大学を出ていなくても、専門職業能力が優れていれば、採用する姿勢が望まれる。その方が長期的に見れば、費用対効果では、企業にプラスになるはずだ。

今後、就職率の悪い大学や、就職後の定着率の悪い大学は、財政支援を打ち切り、リストラ整理するべきだろう。これ以上、税金を無駄に投与することは許されない。それができないなら、文部科学省自体のリストラが求められる。

*追記

なお、大学側は、大学余りと少子化で、教員は余っている。そこで、余りの大学教員を雇用維持するため、大学院を増設して、無理やり雇用を維持している状態だ。実質、彼らは、それほど世の中に貢献していないだろう。特に文系の大学は、大幅に縮減が求められる。これは韓国では、先行して、そのことをやっているようだ。

大学教員の余剰人員の行き先は、小学校とか中学校の臨時教員がいいかもしれない。教員同士、もっと切磋琢磨する、いい機会だ。教員のレベルを上げる必要がある。教育の内、小学校教育が最も重要なことを忘れてはならない(ただし、知識教育のみでは駄目で、人間教育が大切)。優秀な人材こそ、小学校の教育に直接、間接にタッチすべきだ。

*平成24年4月10日追記

政府は、国家戦略会議を開き、産業界が求める人材と教育機関が育成する人材のミスマッチ解消するため、民間議員が教育システムの抜本改革を提言し、大学の統廃合や高等専門学校の増設を求めたようだ。やっと危機感を感じて、国も動き出した感じた。

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2011年11月16日 (水)

平清盛と神戸 その六 兵庫津辺り(三)

前回に続き、兵庫津辺りの観光名所。

●能福寺

この寺は、高さ11メートルの兵庫大仏で有名な所だ。清盛は出家するが、彼が剃髪入道したのが、この寺とされる。1180年の遷都計画の折には、平家一門の祈願寺に定められて、大伽藍が創建された。

この寺の初代住職、円実法眼は、養和元年(1181年)、清盛が亡くなると、その遺言により、清盛の遺骨を首にかけて、京都から、この地に持ち帰り、法華堂に納めたと云う。そういうわけで、彼の遺骨が納められているとも云われるが、まだ確認はされていない。境内には、清盛を弔った平相国廟がある。

北逆瀬川町。地下鉄海岸線 中央市場前駅から北。

●平経俊塚 鎮守稲荷神社

経俊の塚がある。彼は平清盛の弟、経盛の子で、敦盛の兄で、経正の弟にあたる。彼は一の谷の決戦で、知盛指揮の下、源氏と対戦するが戦果なく、やがて敵陣に追い迫られ、敵陣に突入し、奮戦するが、源範頼の郎党、名和太郎と組み打ちし、討ち取られ戦死する。若干18歳だった。

兵庫区西出町。JR神戸駅から国道2号線を西に10分ほど歩く。

●清盛塚・琵琶塚

西に行くと、清盛塚がある。兵庫運河にかかる清盛橋の袂にある。総高8.5mの十三重の石塔だ。石塔には清盛の遺骨が納められているとされたが、1923年の調査ては、墳墓でないことが判明している。だが、弘安九年(1286年)の銘を持つ整った塔であるため、県の指定文化財になっている。また、この塚で、平家一門追善大法会が行われている。

また琵琶塚の碑もある。これは、平経正の塚と呼ばれる。彼は琵琶の名手で、あの敦盛の兄だ。ただ。元々は、この場所に、前方後円式の古墳があったようで、「琵琶塚」と呼ばれていたのを、後の人が、無理やり、こじつけたようだ。

琵琶塚の横には、清盛像が立っている。これは1968年に設置され、柳原義達氏のよる作品。

切戸町。JR兵庫駅から南東へ約10分

次回に続く。

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2011年11月15日 (火)

日本とトルコ~山田寅次郎

トルコ地震では、10月31日現在で、2601戸の全壊と、18335戸の半壊が確認されている。これはトルコの建築事情が影響しているらしい。なお、日本赤十字社は、すでに1億円相当の物資を送り、2000万円の資金援助をしている(*注)。東日本大震災では、支援を受けており、早く復興してほしいものだ。

ところで、日本とトルコは友好国である。別に地震繋がりというわけではない。明治時代、日本とトルコは、共にロシアの南下政策に脅威を抱いていた。明治23年 親善友好のため、オスマン・トルコのスルタン アブドゥル・ハミト2世が、横浜に木造軍艦エルトゥールル号の派遣する。

その帰途、不幸にも、紀州串本の沖で台風に巻き込まれ座礁する。乗組員650人の内、実に581人が死亡する事態になった。その時、付近の漁師が船員の救助に当たり、助かった人々には食糧を提供し、献身的な介護をした。そして、亡くなった人たちは、篤く弔った。

生存者たちは、明治天皇の命で、二隻の軍艦でトルコに送り届けた。そういうことで、今でも、和歌山県とトルコは、交流がある。共同で、沈没した船の引き上げなどをしている。ここまでは、美談として、よく知られている。

ただ、これだけでは、トルコとの友好が、ここまで強くならなかっただろう。山田寅次郎という人が旗振りをして、言論界の知人、福本日南、陸羯南の協力の下、各地で講演活動して、義援金を集め、トルコの遺族に直接届けたことは、最近は、あまり知られていない。山田寅次郎は当時27歳。

届けた、その額、現在のお金にして、約1憶円という。トルコの大臣、サイド・パシャに渡すと、彼は感激して、スルタンに、その事を話す。そうすると、やがて、彼はスルタンと拝謁することになり、勲章を授与される。

その後、大臣から、彼の地に留まるよう要請され、日本文化を広めるよう依頼を受ける。元々、茶道家の出身の為、茶道を中心として、日本文化を普及させていく。彼は、本来、茶道家を継ぐ意思は薄かったのだが、これを機に日本文化の重要性を再認識し、茶道を継ぐ決意をする。その後も、日本とトルコを行き来している。

つまり、国ではなく、民間人の彼が直接、トルコのイスタンブールに義援金を届けたものだから、多くの人に、日本を知らしめることになった。日本の青年の志が、トルコとの友好の絆を強めたことになる。志で、不思議な運命が展開されていく。たった一人の力でも軽んじてはいけないということだろう。彼に見習うべきは、その志と行動力だ。

*注

日本赤十字は、現在の所、トルコ赤新月社から、国際的支援要請がないため、特に救援金の募集はしてないとのこと。また義援金口座も開いていない。ただ、一部の人たちは、日本にあるトルコ大使館に直接、義援金を届けているようだ。一部、ネットで、口座らしきものが紹介されているが、義援金を送るのなら、大使館に書留等で直接送った方がよさそうだ。

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2011年11月14日 (月)

平清盛と神戸 その五 兵庫津辺り(二)

前回の続きで、兵庫津辺りの観光地の紹介。

●金光寺

清盛が、福原遷都に向けて準備のため、まず運河の開墾をしようとし時、彼の夢枕に立った童子の「兵庫の海中に霊仏があるので、探し出すよう」という、お告げに従って、大輪田の海に網を下ろさせたところ、海中より、黄金の薬師如来が現れたと云う。彼は、これは、きっと守り仏に違いないと判断し、それを本尊として、大伽藍を建立し、創建されたと伝えられる。

話としては面白い。穿った見方をすれば、仕組まれた話のようにも思える。例えば、住民が、「ここは昔から開墾してはいけないという、昔からの言い伝えがある」などとして反対があれば、それを説得する手段が必要だ。それで、お告げを持ち出した。もちろん、仏像は、あらかじめ、家臣に言って、誰にも分からないように、海中に入れておく。まあ、そんなことではなかろうか。でも、それでは、夢も希望もないから、清盛がお告げを聞いたことにしておこう(笑)。

地下鉄海岸線、中央市場前駅より北東へ

●七宮神社

清盛が、経ヶ島の築造のため、塩槌山を崩したと云われる。そこに祀られていた神の怒りに触れぬように、神社を建立している。それが七宮神社だ。後年、同じことを、神戸市は、山を切り崩して、人工島を作っているから、その是非はともかく、歴史は繰り返すということのようだ。

また、福原京を造営した時、兵庫津を開いて、建築用材を運んだ。その時の地元の人たちの木遣音頭を歌い、踊りながら用材を運んだと云う。それが、この神社のお祭りの名物になっている。

地下鉄海岸線、中央市場前駅とハーバーランド駅の中間あたりにある。

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キャベツの甘酢炒め

時々、手料理やお惣菜に飽きて、新たなレシピを増やそうとする。ところが、あれもこれもと思っていると、なかなか取り組めない。そこで、料理本を、ぱっと開けたところを試している。ただし、手間がかかりそうなのはパスして、やり直し(笑)。

今回は、キャベツの甘酢炒め。料理は簡単だ。まずキャベツの四分の一玉ぐらいを用意して、芯を取って、ざく切り。次に、お酢、大匙3、砂糖、大匙1強、塩少々で甘酢を作っておく。フライパンか中華鍋を熱し、サラダ油適量入れ、キャベツを軽く炒め、しんなりしたら、甘酢を入れ、すばやく炒め、風味づけに、ごま油を少し落して、出来上がり。

キャベツだけでは物足りないという方は、干しエビ(桜エビでもいいし、お好み焼に使う干しエビでもいい)等水で戻したものを先に炒め、後でキャベツを追加して炒めたものに、甘酢で炒めてもいい。とにかく簡単で美味しい。残りは冷蔵庫に入れておき、後で食しても、風味はあまり変わらないのもいい。

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2011年11月13日 (日)

平清盛と神戸 その四 兵庫津辺り(一)

それでは、平清盛と神戸とはどんな関係があるのだろうか。神戸に住んでいる方は大半がご存じだろうが、全国レベルで見れば、神戸に福原京があったことさえ、案外知られていない。確かに『平家物語』には、記されているが、それほど関心は持たれていないないのかもしれない。

今回から、流風なりに、清盛ゆかりの神戸の名所旧跡として、整理した観光候補を紹介しよう。まず兵庫津の辺り。

●来迎寺(築島寺)

全ての権力は、どの時代でもそうだが、経済的基盤を築いた所が、権力を握っている。平清盛の場合は、日宋貿易から上がる利益であったことは間違いだない。彼は、それを拡大するため、まず目を付けたのが、兵庫の港であった。

当時、大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれていた。ただ、大きな船は出入りできず、当時の大型の宋船が入港できない。それがまずいと思った彼は、人工の島を築こうとする。それが経ヶ島の築造だ。

ところが、いくら築造しようとしても、幾度も東南からの暴風雨と大波という悪天候のため、遅々として工事は進まない。そこで、占い師の言葉によると、海神の怒りをなだめるために三十人の人柱を入れるとおさまるだろうと言う。

そこで関所で、旅人を捕えて、獄につなぐということをやる。それを見ていた讃州香川城主、大井民部の子、松王丸が、見るに見かねて、「私を、この人たちの身代わりにしてください」と申し出る。

当時、彼は若干17歳。彼が、法華経を記したたくさんの石と共に、人柱に立つと、嵐は急に収まり、難工事は進展して完成する。彼の菩提を弔うために建てられたのが、この寺だ。ただ、これが事実かどうかは分からない。ただ、昔、人柱という発想があったことは確かなようだ。

いずれにせよ、この結果、大輪田泊は、日宋貿易で、栄える港になる。これは現在の国際貿易都市である神戸の礎を作ったことになる。この松王丸を弔うために建立されたのが、来迎寺(らいこうじ)と云われる。境内には、「松王小児入海」の碑と墓が残されている。その経緯から、かつては築島寺とも呼ばれていた。

なお、この来迎寺には、祇王・祇女の塔もある。祇王・祇女の姉妹は、清盛より寵愛を受けるが、やがて失い、京都の祇王寺で尼になる。平家滅亡の後、神戸に来て、真福寺で、平家一門を弔った関係で、神戸と関係がある。

兵庫区島上町二丁目。

最寄りの駅は、地下鉄海岸線、中央市場前駅下車。

*注記

なお、今回からの、観光案内は、神戸市の刊行物を参考にしている。また、平成13年に発行された『神戸西国街道まわり道』(神戸市都市計画局計画部まちづくり支援室編集・発行)の冊子は、復刊してもらいたいものだ。平家がらみの観光案内には、ぴったりだからだ。何も新しいものを作る必要はないと思う。

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2011年11月12日 (土)

B-1グランプリ姫路に行く

本日、2稿目。

今日、先日のブログで案内していたB-1グランプリに行ってきた。本日は、昨日までとは、打って変わって、晴天だ。こういう催しにはちょうどいい。比較的早い時間だが、すでにお客さんで一杯。皆さん、ぞろぞろ歩いている。

券売り場は、比較的、空いていた。事前のアピールが効いて、皆さん、すでにイベントチケットは入手済みのようで、それを握りしめて、どこに並ぶか思案している感じだった。並んでいる列を見ると、食べやすい商品の所に並んでいる感が強い。

買ってから食べる場所を見つけるのも、一つの楽しみだ。いかに場所を確保するかは、辛い人もいるだろうけれど、こういう場合は、どこでも食べられるハングリーさが必要。皆さん、ちょっとした隙間を見つけて食していた。

この催しの評価は様々だが、人が集まることは事実だ。人は何か魅力を感じて集まるのだろう。小さな子供さんと一緒の家族連れも大変多い。高齢者も多い。もちろん、若い人もたくさんいる。盆踊りの、食版とも言えないこともない。結局、皆が楽しめる、祭りのような感じ。

そして、一般のお祭りは、催しに屋台などの食の売り場が付随しているが、B-1グランプリという祭りは、食の催しが主体で、多分に、総合展示会的であり、全国の食の紹介の場でもある。もちろん、そこには工夫がある。基本単価が300円程度が多い。それを色々、選んで、つまみ食いする感じ。

B-1グランプリは、今後も、色々工夫して進化しつつ、全国に広がっていくと思う。それは逆に全国の一般の祭りにも、付随事業として拡散していく予感がする。

*平成23年11月13日追記

本日で、B-1グランプリ姫路が終了した。入場者数は、実に51万5千人という。予測では40万人ということであったので、予測をはるかに超えている。お天気が良かったことも幸いしたようだ。来年からも、各地でB-1グランプリフィーバーが続いていくことだろう。

なお、グランプリは、岡山県真庭市の「ひるぜん焼きそば」だった。岡山県からは、10位までに、3つも入賞している(2位「津山ホルモンうどん」、9位「日生(ひなせ)カキオコ」)。これは開催地の影響があるかもしれない。岡山県の味は、開催地の兵庫県姫路市に近いから、味が抵抗なく支持された可能性がある。

また3位入賞の青森八戸の「せんべい汁」は、今後も関西で受け入れられる可能性が高い。青森は8位にも入賞しており、青森の食は、関西に馴染みやすい味なのかもしれない。

*平成24年2月24日追記

昨年のB-1グランプリ姫路の経済効果が算出されたようだ。兵庫県立大学によると、入場者約51万5千人について、分析したところ、宿泊した人が約3万2千人で、宿泊による経済効果、2億4800万円、交通費が16億4200万円、土産代が4憶6300万円だそうだ。その他実質入場料の食券を含むトータルでは、約40憶円の経済効果があったという。今から思い出しても、凄いフィーバーぶりだった。なるほどね。

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平清盛と神戸 その三

清盛は、宋との交易では実利を優先している。多少、宋からの文書に、「賜日本国王」というような侮辱的な言葉があっても、気にせず、返事を与え、答礼物を贈り、いいか悪いかは別にして、建前は朝貢貿易で、相手を立てて、貿易による莫大な利益を優先している。

当時の、交易品は、輸入が、各種香料(沈香、麝香、乳香、白檀等)、薬品、染料、絹織物(綾、錦等)、その他(琥珀、珊瑚、タイマイ、銀等)などであった。世界のかなり広い地域の物まで入っている。それは当時の中国がアラビアと交易があったことを示す証左であろう。

また『太平御覧』のような書物も輸入されている。これは、百科事典のようなもので、千巻もあり、高倉上皇に奉られている。そして、大量の宋銭の輸入がある。これは、その後、国内に流通し、国内経済を発展させる契機になっている。

輸出品としては、砂金、水銀、綿、絹等、素材が多かったようだ。当時は、資源輸出国であったことが分かる。ただ珍しい美術品も輸出されているようだ。これは意外な感じだ。どのような作品だったのだろう。

そういうわけで、清盛は、日宋貿易を強化していく。各種輸入品が日本の文化に与えた影響は大きい。そして、20年近くの栄華の内、清盛は14年近く、福原で過ごしており、神戸と清盛は関係が深い。そして、1180年6月に、多くの反対を押し切り、無理やり福原遷都を実行する(*注)。

しかしながら、北国で源氏方の木曽義仲の挙兵により、清盛は急遽、1180年11月に京都に都を返した。福原京は、そういうことで、半年足らずの運命だった。そして、1181年清盛は亡くなる。義仲の京都攻撃により、平家は都落ち。一時権勢を誇った栄華も20年足らずで、滅ぼされるというような流れだ。

清盛には、予感はあったかもしれないが、平家が滅ぶ姿を見ていない。1167年に太政大臣になったが、お飾りの地位に満足せず、すぐ退位して、病気になり、出家し、神戸に来た。

考え方によれば、1181年閏2月に京都で亡くなるが、神戸にいた時が一番幸せであったのではないか。自分の思いを、多少の困難はあっても、実現に向かって走る時が、楽しいのは誰でもそうであろう。彼にとって、政治より、神戸でのビジネスの方が楽しかったであろう。

*注

福原遷都には、後白河法皇の陰謀や以仁王の平家追討命令に対抗する意味があった。

*追記

従来、神戸市は、不思議なことに、観光に清盛を前面には押し出していなかった。それは福原が歓楽街であるためだと指摘する人もいる。しかし、清盛を初め平家の足跡は、神戸のあちこちにある。こんな観光資源は活用しない手はない。大河ドラマが放映されるということで、やっと本腰を上げて、観光に取り入れるようだ。

次回に続く。

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2011年11月11日 (金)

うまく行かない欧米企業の買収

国内市場が縮小すると云う訳で、海外企業を買収する大企業は多い。しかしながら、成功事例は少ない。特に欧米企業の大型の買収は、ほとんど成功していない。凡そ企業文化の異なる企業の買収は国内企業でも難しいのに、海外企業では、更に入念な準備だが、どうも、そのような努力をした形跡がない。

証券会社や国際ブローカー(コンサルタント)から、話を持ちかけられて、目前の手柄に目が眩み、単純に話に乗ってしまったのではないかと思われるものが多い。その買収が、真に企業価値を高めるものか、精査した足跡が相対的にないのだ。

更に買収価格もいい加減だ。今、問題になっているオリンパスは、損失隠しのための特殊な例としても、買収価格が適正かが疑問と言われるものは多い。買収先の査定の仕方に問題があると言えるだろう。

日本企業は、どうも買収するに際しての、特に見極めやリスク管理が甘いように思う。外国企業の場合、従業員も、日本の従業員のような文化は当然持ち合わせていないし、彼らはドライに判断する。買収した時には、主要なキーになる人材は、ほとんど抜けていることも考えられる。

時間が経てば、仲介する証券会社やブローカーが評価した時より、かなり価値が落ちている可能性が高い。それでも、日本企業は買収価格も仲介コストも値切る事もなく、だだただ彼らをを喜ばせるだけの結果になっている。

そして、買収して、大抵の企業が後悔する。買収したけれど、中身を精査すれば、使い物にならないシステムや人材だったりもしている。そのことを補償する契約にもなっていないから、後々追加のコストが発生する。それが軽ければいいが、大体、システムの見直しとか人材の補給を考えれば、高い買い物になる例が多い。

また、運よく、仮に人材が残っていても、彼らを使いこなせないことも多い。従業員のプライドが高いためか、変な固定観念に捉われて、日本人の指示に従わない例もあるというが、経営者に妙に変な遠慮があるのかもしれない。彼らにきちんと、どのように評価し、これからの経営方針をどうするか、とかが伝わっていないこともある。

総合的に勘案すれば、海外企業の買収には、もっと慎重に取り組むべきだろう。特に相手が大企業の場合は、リスクが大き過ぎる。どうしても買収したい場合は、一部門だけ買収するとか、主要人材をスカウトした方が、効率的な場合もある。

これからは、いきなり数字が上がる企業買収をやるより、まず海外の優秀な人材のスカウトを優先すべきだろう。もちろん、それだったら、現在の経営陣の間に成果が上がらないかもしれない。でも、それでいいではないか。長期的に企業に貢献できれば、その経営陣のやったことは、将来評価される。どんがらだけは大きいが、使い物にならない企業を買収するより、トータルで、はるかに効率が高いだろう。

*平成27年7月28日追記

どうも最近の日本企業の大手の経営者は、米国企業に倣って短絡的な成果を追い求め、次々と失敗している。最近も、東芝が、同様に米国の原発企業を買収して、経営がおかしくなっていることが表面化した。

その他にも、懸念される企業はある。昔は、結構、堅実な経営をしていたところだ。サラリーマン経営者の私欲によって、経営がおかしくなるかもしれない。投資される方も、このような企業には投資しないことだ。仮に投資していた企業が買収案件の話が持ち上がった段階で売却した方がいいだろう。

基本的に買収案件は、提携から入り、内部事情が分り、対象先の企業の査定が出来てから、吟味されるべきものだろう。それでも、相手国の仕組みや従業員の気持ちを考えれば、無闇に買収するべきでないことは明らか。どうも最近の日本の大企業経営者は、どうかしている。

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2011年11月10日 (木)

平清盛と神戸 その二

清盛は、仁安元年、49歳で、権大納言兼東宮大夫になり、翌年には50歳で、太政大臣になる。但し、同年5月には、官位を辞している。病に倒れたこともあるが、公家社会が、ほとほと嫌になったらしい。元々武士の清盛が、公家社会に馴染むとは思えない。だが、彼らの子孫たちは、公家社会に深く入り込み、武家の精神を失い、滅亡への道を歩んだのは皮肉な結果だ。武家が官位など望んでも仕方ないということだろう。

仁安三年(1168年)には、清盛は、重い病気になり、出家して、入道浄海と称するようになる。そして、回復して、神戸の福原に建てた邸宅に移り住むことを決心する。ここで、いわゆる邸宅政治を行う。それをやるに十分な平家一門の陣容であった。また、病に倒れたことで、やり残したことを果たそうと考えたのであろう。人間、先が無いと思うと、考えることは皆同じであろう。生命の危機感が、そうさせた。

その動機は、先にも示したように、若かりし頃の、父と一緒に活動した本人の海賊退治や赴任先の貿易経験が基になっていると思われる。すなわち、海や川を制して、宋船を入れて、貿易を一手に引き受け、各種交易を押さえれば、権力を握れると本能的に理解したのだろう。

では、なぜ、清盛は、1180年6月の遷都先として現在の神戸市の中の現在の兵庫区にあたる福原を選んだのだろうか。実は、ここは、ちょうど経ヶ島(*注)に出るのが便利だったようだ。帝都として最初、計画された「和田京」は、実現していない。何か不都合を感じて、福原京に選び直したニュアンスがある。

その輸出入航路を見ていくと、当時、神戸の大輪田の泊は、その要所であったと言える。つまり、大阪の淀川からの場合は、まず三国川に入り、神崎の川尻で海船に乗り換える。それで大輪田の泊に行き、更に乗り換え、瀬戸内海を下っていく。帰りは、この逆コース。

京都からの場合は、水陸を使い分けながら、基本的に陸行で、神戸に入り、大輪田の泊に入る。そして、同様に、船で、西に下る。神戸の港を押さえることが、何をするにしても好都合だった。彼は、京都に戻って亡くなる前年まで、神戸に実に十数年留まるのだ。清盛が、いかに神戸に執着したかが分かる。

*注

そもそも経ヶ島は、風の被害から船を守るために作られたものだ。清盛は、そこにすぐ行ける居場所を考えたに違いない。残念ながら、経ヶ島は数カ年で壊れてしまった。清盛個人での修築には、技術的にも資金的にも限界があったのだろう。経ヶ島が、現在のどの地かは特定されていないが、JR線が、当時の海岸線とすれば、そこから推定するしかない。

その後、平家滅亡後、十数年を経て、国家予算により、港は修築されることになる。そういう意味でも、国際都市、神戸市は、もっと清盛を評価すべきだろう。清盛顕彰記念館があってもいいくらいだ。

次回に続く。

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2011年11月 9日 (水)

これからの中小企業の重点課題 その三 営業強化

今回は、別に「これからの重点課題」というより、以前から指摘されていることを、述べよう。それは中小企業の営業強化ということ。中小企業は概して営業(マーケティングを含む)が弱い。特に技術系トップの場合、営業に対する認識を改めてもらう必要がある。

先日、テレビを視ていたら、ある技術系の製造会社の中小企業が、現在の大企業の下請け(大企業は輸出企業)だけでは、いずれ事業が行き詰ると予測して、次の一手として、数年前から国内需要を見込んだ新分野に進出しているらしい。ところが、いろんなアイデアを詰め込んで、製品開発されたが、その事業に苦労されているという話だった。

なぜ、そうなるのだろうか。確かに新事業はどの分野でも大変だろうが、大体、技術系トップは、良い物さえ作れば、売れると思っている人が、依然として多い。だが、世の中、需要と供給から成り立っていることは中学生でも知っている。基本的に需要がなければ、供給は成り立たない。思い込みで物を作っても、市場で受け入れられるとは限らない。

これは大企業でも言えることだが、日本企業は相対的にマーケティングが弱い。供給側サイドの思い込みによる商品開発が極めて多い。大企業が海外で苦戦しているのも、海外マーケティングの不足と言える。日本市場と海外市場の違いをトップが明確に理解していない。それがため、円高で騒ぐことになる。

そして、かつて松下幸之助氏が言ったように、「雨が降れば傘をさせばいい」式の経営ができていない。企業運営が、企業環境に柔軟に対応する態勢が整っていれば、一時的な急激な変化さえも問題なく処理できる。

中小企業の場合、本来、小回りの利く柔軟な経営が可能なのだから、社内体制(社員の理解)を整えて、まず「売ってから作る」発想でいいと思う。市場のニーズを把握して、売り先を確保してから、物を作ればいいのだ。つまりニーズと自社の強みを組み合わせればいい。

いい加減、「作ってから売る」発想から脱してもらいたい。宝くじを当てるより難しいことを考えるより、まず動いてみて、市場を確認する作業を優先すればいい。そうすれば、いろんなアイデアが組み合わさって、いろんな展開が可能になるだろう。

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2011年11月 8日 (火)

平清盛と神戸 その一

ここ十年近く、大河ドラマは視聴していない。大河ドラマは、時代劇ではないと思うのだが、どうも視聴率を意識し過ぎて、あまりにも現代的に、面白く、茶化し過ぎて、歴史ドラマを逸脱しているように感じるからだ。それでも、未だに、その影響力は大きいようだ。

2012年のNHK大河ドラマは、『平清盛』だそうだ。以前、大河ドラマで『義経』があったが、これは源氏サイドの見方。今回は、平家サイドの見方になるのだろう。そういうわけで、神戸市とか兵庫県が、その関連の売り込みに懸命になっている。

そういう流れを後押しと言うか、便乗して(笑)、清盛を中心に平家の神戸を中心とした活動の概略を記すとしよう。なお、当時、神戸の大半は、播磨国に含まれていた。ブログに記すのは、そういう意味もある。

平清盛は、父、忠盛と共に、四国、九州の海賊等退治をする。実際は、ほとんど忠盛が仕切り、清盛も父の働きには感心仕切りのようだったと云う。相手は、海賊、川賊、盗賊ばかりだから、気性の荒い人間ばかりだからだ。

忠盛は、その海賊等の退治活動が評価されて、念願の播磨守になっている。この豊かな播磨の地の長官になれたことは、その後の平家の興隆に寄与している。経済力は、いつの時代も権力基盤になるのだ。

そして、清盛も、次々と出世していく。18歳の時に、従四位下に叙せられる。保延三年には、肥後守に、久安二年には、安芸守になり、その後、播磨守から太宰大弐になり、更に備前の国司になっている。

こうして見ていくと、彼は播磨、中四国、九州での経験が、彼の、その後の活動の原点になっている。それも、海賊、川賊退治絡みで、海や川と面する地域が多い。また清盛の父、忠盛が、大宰府大弐として九州にいたため、貿易の利益が大きいことを知っていた。多分、このような観点で情報を入手し、多くの人脈を築いたのだろう。

次回に続く。

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2011年11月 6日 (日)

仙人の気まぐれ~謡曲『一角仙人』

大体、権力者や権威のある人達の気まぐれは、庶民に迷惑することが多い。今回は、そういうことを皮肉った作品ではなかろうかと思わせる謡曲『一角仙人』を取り上げよう。元々、インド古代神話をベースにした話だという。庶民を困らせた仙人が、王が派遣した色女に騙され、堕落して、その神通力を失う話だ。

歌舞伎には、この話を元にしたものに、『雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)』という演目の中に「鳴神」がある。ただ歌舞伎では、仙人ではなく、上人としている。当時の堕落した高僧を皮肉ったという。宗教者が堕落するのは、どの時代でも、どの国でもある。

さて、その謡曲『一角仙人』の話を、いつものように、おちょくりながら(笑)、記していこう。

一、インドのハラナス国に、一人の仙人がいた。彼は、鹿から生まれたため、生まれつき額に一本の角があった。それで、世間の人は、皆、彼のことを「一角仙人」と呼んでいた。

それにしても、分かりやすい、あだ名だ。でも、仙人にしても、鹿から生まれることはないだろうから、この仙人は、生まれつき、額に瘤があったのだろう。ちなみに、ハラナス国とは、現在のインドのベナレスらしい。

二、仙人は、ちょっとしたことから、龍神たちと争うことになる。彼は龍神たちに勝ち、龍神たちを岩屋に閉じ込めてしまう。

仙人というのは、必ずしも悟った人ではないようだ。つまらないことで言い争うのは、一般庶民と同じ。だが、それなりに地位のある人が、騒動を起こすと、とばっちりは庶民が受ける。迷惑なことだ。後先を見ず、龍神たちを閉じ込めてしまう。嫌な予感。

三、そうすると、雨を司る龍神たちが岩屋に閉じ込められてしまった結果、全く雨が降らなくなってしまった。それも三カ月も続き、農作物が生産できない状態が続き、ハラナス王は憂慮する。

龍神は、水との関係が強い。日本人は、かつて農業国家であったので、水を、とても大事にしたし、それを、もたらす天に感謝した。もちろん、多すぎる水は度々、洪水を引き起こすが、土を豊かにもしてくれる。その神を仙人が閉じ込めたものだから、干ばつに襲われ、農民たちは苦しむ。

四、そこで、大臣たちが対策を練って、美人の誉れ高い、旋陀夫人(せんだぶにん*注)を遣わして、仙人を迷わせることにした。それは、仙人が夫人に心を通じれば、神通力がなくなるという期待をしたからだった。

旋陀夫人は、かなりの美女で男たらしだったようだ。要するに愛のテクニシャン。王もメロメロで寵愛したらしい。流風が思うに、果たして、王が彼女を遣わしたりするだろうか。ちょっと創作に無理がある。

考えられるのは、王が、あまりにも、旋陀夫人を寵愛して、政治のことを疎かになるので、大臣たちが画策したと考えれば納得がいく。であれば、いい所に目を付けたものだ。どんな堅物も、美女の色気と酒にはいちころだ。危ない、危ない。仙人は、罠に嵌ってしまうのだろうか。

五、仙人の住んでいるところは、山深く、紅葉の下、身に沁みるほど寒い。仙人が、どこにいるかははっきり分からない。何日も、そんな日が続く。

王の臣と旋陀夫人と侍女たちは、凍えるような山に登っていく。彼がどこにいるか分からない、当てのない旅。こういう旅は辛いよね。でも、王の命令と、農民たちを救うためには、仕方ない。それに穀物が出来なかったら、国としても大変。

六、諦めかけた頃、木の枝で作られた粗末な庵を見つける。そして、姿かたちの見えぬ住人に問いかけると、仙人は、「こんな所には誰も来ないのに、そなたたちは何をしに来たのか」と訝る。

大体、人生、とことんやって、もう駄目だと思った時に、もう一歩踏み出した時に、明りが見えてくるもの。ただ、まだ、この時点では、仙人の住まいとは確認できず。ただ、どこからか、声だけ聞こえてくる。予感というものは、そういうものかもしれない。

七、仙人の問いかけに対して、彼女たちは、誤魔化し、「単に迷っただけですよ。日も暮れれかかっているので、是非一泊させてくれ」と頼み込む。仙人は、一旦は断るが、彼女が是非姿を見たいと懇願する。

理由を聞かれた時、これは仙人の声と判断したのだろう。そして、姿を表すように懇願したのは正解。姿なければ、彼を迷わすこともなかなか難しい。そして、次のように現れる。

    柴の樞(とぼそ)を推し開き、柴の樞を推し開き。

    立ち出づるその姿。

    緑の髪も生ひ上る牡鹿の角乃。

    束の間も仙人を。

    今見る事ぞ不思議なる

八、姿を表した仙人に対して、本人かどうか念の為、確認すると、そうだと応える。そして、美人の彼女たちに、若干、疑いを感じながらも強い関心を示す。もちろん、彼女たちは、本当のことを言わず、単に迷っただけと通す。そして、酒を薦める。

後は、旋陀夫人の本領発揮。手練手管で、仙人を落そうとする。ああ、仙人、危うし。据え膳、食わぬは男の恥とは言うけれど、そこには、罠が仕掛けられている。あるいは、取引の手段に使われる。

九、最初、仙人は、飲酒は必要ないと強弁していたが、夫人が是非にと薦めると、ぶつぶつ言いながら、杯を受け取る。そして、いい気分になり、遂に夫人に籠絡され、初めて彼女と関係を持つ。

大体、仙人の神通力は、女性と関係を持った時点で失われるとは、よく言われたものだ。特に権威とか地位の高い人に当てはまる。男というものは、よっぽどしっかりしないと堕落してしまう。仙人さえも、ただの男ということになる。考えさせられますねえ(笑)。

十、仙人は、飲めや歌えと舞い踊り、夫人と関係が続くうち、酔いつぶれ、夫人の情に、ほだされ心を移してしまう。夫人は、しめしめと、これで王との約束も果たせたと、山を下り、帝都に帰る。

ついに仙人は魂までも奪い取られ、夫人は安心して山を下りる。まあ、当然の結果。男の弱みは、飲む、打つ、買うというのは、いつの時代も変わらぬようで。特に女の誘惑には弱い。

十一、仙人が酔いつぶれている内に、龍神を閉じ込めていた岩屋に隙間ができ、龍神の鳴く音が微かになるようになっていた。夫人と関係を持ったがために、神通力が効かなくなったのだった。

仙人は、初めて、自分の犯した罪が分かっただろう。でも、最初に、意味のない争いを龍神と起こしたことが問題。全ての原因は自分にあるということか。

十二、その内に、嵐が吹き荒れ、岩屋が揺れ、磐石が崩れ落ち、龍神が現れ、大騒ぎして、立ち向かおうとするが、龍神に打ち倒されてしまう。

こうなると、仙人も哀れと言うしかない。すでに神通力はなく、最早、戦う力も失せている。哀れな一角仙人。

十三、龍神たちは、喜んで、神鳴稲妻が天地に満ちて大雨を降らし、洪水を起こし、竜宮に帰っていく。

このようにして、雨が久しぶりに、もたらされ、農民は喜び、国家は安康となったのだった。おしまし、おしまい。

男には、外に出ると、七人の敵がいると云われるが、仙人にしては、若干脇が甘い。そもそも、最初に龍神たちと、気まぐれで騒動を起こしたことが神通力を失う破目になった。それがなければ、美人に見とれ、酒を薦められ、関係を持つこともなく、耽溺することもないから、自分を見失うこともなかった。

確かに、とても人間的な仙人。周囲を見回せば、そういう人はいるかもしれない。案外、自分だったりして(笑)。でも嫌いじゃないよ。お陰で、庶民は色々振り回されながらも、結果的に助かった。現代でも、色々騒動を起こしながら、ばだばたして、まとまることがあるのでは。見方によっては、雨降って地固まるとも言えないこともない。でも、偉い人の気まぐれは、なぜ起こるのだろう。

*注

旋陀夫人について、インドの原典で伝えられていることは、旋陀夫人とは旋陀王の夫人という意味で、名前は不明。彼女は絶世の美女であったため、王は彼女だけを寵愛し、他の女性に妬まれる。ある女が、王に讒訴し、旋陀夫人は身籠っていたが、王に怒りを買って埋められてしまう。それでも、夫人は、子供を産み、乳を与えたという。

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2011年11月 5日 (土)

破綻に突き進むギリシャから学ぶ

国民性と言えば、そうなのかもしれないが、キリギリス国家のために、世界が振り回されている。日本は、ユーロとの関係は、貿易面では薄いので、そんなに騒ぐこともないと思うのだか、ユーロに投資にしている人たちにとっては、大変なことのなのだろう。

そして、ユーロがついに決断。ギリシャ国債50%棒引き報道。基本的に、そうするしか手がないのは歴史的にも明らか。日本においても、江戸時代、藩レベルだが、それに近いことをことを起こしている。「お上」の借金は、どこにも持っていけない。つまるところ、そういうことになる。

問題は、金をどこから借りているかの違いだけだ。ギリシャはユーロ諸国家から借りていたため、ユーロ全体を揺るがしている。結局、ギリシャは、遅かれ早かれ、破綻するだろう。日本だって、遠い将来、わからない。国債の棒引きという事態が考えられるかもしれない。

ただ、日本の国債のほとんどは国内から調達しており、被害を蒙るのは、国内の投資家ということになる。でも、それは国債を買っていない国民と無関係ではない。多くの金融機関は、預貯金を国債に投資しているから、減価されれば、金融機関の経営を大きく損なう。

金融機関は、リスクを逃れるため、国債投資から撤退。そこで、海外からの投資を期待するが、それには金利をそこそこにつけなければならない。しかし、それもいつまでも続けられない。財政の再建は、容易ではないからだ。

そうなれば、ギリシャと同様な事態を招き、破綻し、大きく国民経済を損なう。そのことを考えると、無関心ではいられない。税収をはるかに超える国の予算は、明らかに異常。これは過去の政権が、累々と積み上げてきたもの。そして民主党政権でも、そんなに改まっていない。震災の処理費用を除いても、むしろ予算は肥大化している。

例えば、少子化というのに、文部科学省は、予算を年々拡大させている。余った教師のリストラもしていないし、大学のリストラもしていない。学校の耐震強化は必要だけれど、そもそも生徒の減少している学校に、そこまでするか。被災時の避難所にするなら、地域に引き渡して、地域で判断すればいい。

民主党も、族議員化して、いろいろ理由をつけてお金を使うのは上手になったが、財源を引き出す努力を怠れば、国の財政は更に悪化するだけ。それは他の省庁も同じ。

まず、国は歳出を大きく切り込む必要がある。歳出を増やせる部門は一つもない。多くの人が痛みを感じる時代に突入している。今のままでは、いずれ必要になる、公務員の大幅なリストラは必ず起こる。

その他に、国債残高をどのようにして減らす方法はあるのか。経済を活性化することは大事だが、経済成長は、国内だけでは難しいし、変動の大きい海外だけに頼るのもリスクが大きい。成長戦略には限界がある。

そういう状態の中で、歳出カットと同時に、歳入を増やす手立ても必要。租税体系の見直しも、早くするべきだろう。現在は放漫税制で、国に税金が集まらない仕組みになっている。あらゆる補助金・助成政策も、大きく見直し、一旦取り止める勇気も必要だ。

ギリシャのようになってはまずいとは誰も思っているだろう。結局、国も国民も、若干キリギリス化しつつある状態を見直し、もう一度、アリの精神を取り戻すべきかもしれない。

*平成27年6月29日追記

いよいよギリシャの債務不履行の可能性が高まっている。ギリシャ自体は国の経済規模が小さいため、世界経済に大きな影響が及ぶとは思わないが、その他のユーロ諸国への連鎖が憂慮されている。ユーロ経済は、坂道を転げるように落ちていくことは、相当前から予測されたことだが、いよいよという感じ(ただし、専門家によると、セーフティ・ネットが既に仕組まれているため、他の諸国への波及の心配はないそうだ)。

しかしながら、日本企業は、ユーロ系企業の買収に決して手を出してはいけないだろう。中身は、スカスカなのだから。既に、多くの大企業が買収して失敗している。仲介会社は、騙しのプロだ。変な欲は出さないことだ。投資家も、そのような軽率な拡大主義の経営者のいる企業には投資しないことが賢明だろう。

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2011年11月 4日 (金)

現代版生類憐みの弊害

欧米の鯨が可哀そうという発想に始まり、今、国内では、野良犬が可哀そうとか、野良猫が可哀そうという人々がいる。確かに、飼い主が飼うことを放棄して、彼らを遺棄した責任は問われるかもしれない。

しかしながら、その遺棄された動物で迷惑する第三者がいる。それを駆除しようとすると、それを非難する人々がいるが、解せない。動物による迷惑を十分理解していないからだ。いたずらに非難するのは、徳川綱吉の「生類憐みの令」を出されて、庶民が大変困ったことと似ている。全ての野良犬や野良猫を保護することはできない。

他方、珍しい海外の珍獣を飼う人も増えている。また彼らの遺棄も多い。『書経』には、「珍しき禽、あやしき獣、国に育はず」とある。そもそも、生き物を、自分の目を楽しませたり、狭い所に閉じ込めたりするのは、人間の横暴と言えるだろう。

遺棄された動物が可哀そうという人々は、遺棄された動物で困る人びとを非難するのではなくて、むしろ遺棄した元飼い主を責めるべきだろう。そういうことのないような仕組みの提言が求められる(*注)。一番いいのは、飼わないことだが。

*注

例えば、全てのペット類に対する税として「ペット税」の創設等により、ペットの遺棄を減らす。つまり、ペット登録(チップ埋め込み)税、ペット所有税、ペット売買税等。

なお、無登録や無断遺棄に対しては、強い罰則規定が必要だろう。概ね、100万円以上の科料が求められる。いろいろ意見はあるだろうが、それぐらいにしないと、遺棄はなくならない可能性がある。

安易に動物が飼える仕組みに制限は必要だ。

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2011年11月 3日 (木)

年金受給までの魔の期間

先日来、厚生年金の支給年齢を68歳から70歳に引き上げる案が厚生労働省にあるという報道が流れている。今国会には、取り上げられないそうだが、この問題は、くすぶり続け、いずれ、また取り上げられるだろう。

ちなみに、現在は、基礎年金も含めて、支給年齢が65歳に統一されつつある。よって、現在の退職年齢が60歳が多いことから、65歳からの支給までの期間を、「魔の5年間」という人もいる。その間、所得がなければ、預貯金を切り崩すしかない。

ところが、将来も、現在の景況感が続くすれば、定年を65歳以上に引き上げることは、ほとんどの企業にとって不可能だ。現在でも、定年になり、所得を稼ぐことはなかなか大変なことなのだ。再就職先は限られるし、仮に見つかっても、所得は急減するから、預貯金の一部は切り崩す場面も生じるだろう。

もちろん、中年で、若い時から準備してきた人は、それなりに何とか過ごせるかもしれないが、それでも支給年齢が更に68歳とか70歳に引き上げれば、「魔の5年間」より厳しい状態「魔の3年間とか5年間」が更に追加される。歳が上がれば上がるほど、所得環境は更に悪くなる。現実に、そこまで考えて生活設計してきた人はそんなにいないだろう。

国が財政状況が悪いから、急に仕組みを変えると云うのも困ったものだ。人口構成の変化は、ずっと前に分かっていたことだが、政策転換の遅れが、今になっての大騒ぎになる。過去の政策に拘り、早期の見直しを怠ったことが、国民に大きな負担を強いることになる。それでも、すでに中高年に達している人は、何とかなる人も多いかもしれない。

基礎年金の受給は65歳で始まるのを、これ以上遅らせることは、国家の犯罪に近い。ただ、厚生年金等は、二階部分は、今後も、いろいろ議論され、受給の先延ばしも考えておくことは個人のリスク管理として、無駄ではないだろう。

それでは、現役世代の若い人々は、今後、どのようにすればいいのだろうか。やはりコツコツと将来を期して貯蓄するしかないのかもしれない。サラリーマンであれば、企業が採用していることが条件だが、年金財形貯蓄は当然だろう。税制で優遇されているから、いくら金利が低いとはいえ、活用した方がいい。

その他には、個人年金の積み立ての割合も従来より増やすことが必要だろう。方法はいろいろあるが、各種定額投資が有効だろう。そして、限られた収入源から、支出の組み直しが求められる。若い世代は、あらゆる生活習慣を見直し、国に過度に依存しない態勢を整えるしかない。残念ながら、長生きするのも大変な時代になる。

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2011年11月 1日 (火)

東京の価値毀損リスク

東京は、大企業等の本社が全法人の約20%を占め、その法人所得の半分であると言う。そんな中で、東京が大震災等大災害に巻き込まれれば、日本は指揮系統を失い、一挙に崩壊する。

また、平時で高い資産価値も、大災害になると、急落するリスクは大きい。だから、今だけ見ていても、将来の危機には役に立たないことは明らか。以前にも記したが、日本は、東京リスクを抱えている。

残念ながら、日本は、未だに、東京に本社を持つ経営者は、災害リスクを経営に読みこんでいないようだ。さすがに、東日本大地震とか、福島の原発が事故を起こした時、多少危機感を持ったようだが、今では、少し醒めつつあるように感じる。

リスク管理のきちんとした米国では、企業本社が見事に全国各地に分散している。ちゃんと危機管理ができていると言えよう。その辺は、米国を見習う必要がある。国家全体のシステムとして、明らかに優れている。

逆に、日本の場合は、初めは地方で創業し、そこが本社だったのに、上場に際して、国や金融機関・証券会社等、周囲から、東京本社を薦められて、東京に移転することがよくある。需要地に近いことや、いろんな関係法令について、打ち合わせる場合、官僚等から、情報が速やかに取れる等、都合がいいのだろう。

だが、目先しか見ていない、今のままでは駄目だろう。地方へのリスク分散を図ることは重要だ。東日本大震災の影響で、日本に進出している海外の企業は西日本に本部を移した所が多いが、日本企業は全体として反応が鈍い。国としても、東京にある企業の本社を地方に分散させるよう指導することが望ましい。危機管理に乏しい企業だけの判断に任せるべきではないだろう。

更に、トップの危機感を鈍らせる原因として、家族の意向が強く働くのかもしれない。重要な経営課題が、家族に左右されるのは望ましくない。何かと反対する目先だけしか見ていない家族を説得納得させることも大切だ。それを経営者がまずやるべきだろう。

*追記

上記の記事は「東京都」に絞ったが、東京圏についても同様のことか指摘できる。

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