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2011年11月26日 (土)

平清盛と神戸 その十 須磨各所(一)

今回は、平家と須磨の関係各所を紹介しておこう。ただし、須磨は平家にとって、あまりいいところではない。源氏に追い詰められた地であり、多くの平氏関係者が亡くなったところだ。その滅んでいく姿を清盛は見ていない。それでも、一応記す。

●須磨寺

源平の庭、敦盛首洗いの池、敦盛の首塚がある。源平の庭は、一の谷で平敦盛と熊谷直実が一騎打ちで戦った場面を再現した庭。敦盛首洗いの池は、熊谷直実によって平敦盛の首を洗ったと伝えられるところ。敦盛の首塚で、毎年旧2月7日に敦盛忌の法要がある。

なお笛の名手だった敦盛の遺品として伝わる「青葉の笛」も、この寺に所蔵されている。その他にも、清盛寄進の鼓も展示されている。

なお、境内には、出世稲荷神社がある。元々は、清盛が、福原の守護神として湊川の畔に奉安したもの。後に彼が、太政大臣まで上り詰めたものだから、出世稲荷と呼ばれるようになったという。

山陽電車、須磨寺駅下車。智恵の道・須磨寺商店街を歩いていくとある。

●平家一門の供養塔、敦盛塚

源平合戦で、多くの散って行った若武者を供養する塚がある。五輪の石塔だ。高さが約3.5mある。別名、敦盛の胴塚とか敦盛塚と呼ばれる。彼は、清盛の弟・経盛の子。江戸時代には、西国街道を通る旅人や参勤交代の大名が手を合わせたという。

沖の船を目指し逃げようとする武者に対して、熊谷直実が、「敵に背を向けるとは、何とも見苦しい。お戻りなされませ」と声を掛ける。そして、打ちあい兜を押し上げ、顔を見ると、年端も行かぬ十代の若者。それが敦盛だ。当時16歳。

44歳だった直実の自分の息子と同じぐらいだ。思わず逃がそうとするが、敦盛は源氏の他の武将たちが近づくのを見て、「早く討て」と言う。止む無く、直実が討取った話は有名過ぎるぐらい有名。彼は、このことで出家する。

なお、この塚は、本来、北条貞時が平家一門を供養するため建立されたものらしい。当初は、「あつめ塚」と呼ばれていた。それが、なまって「あつもり塚」になったらしいとのこと。

江戸時代には、近くにあった茶屋で、敦盛蕎麦を食べて休息したという。残念ながら、今はない。一時的に再現しても面白いと思う。

山陽電車、須磨浦公園駅から徒歩約3分。

次回に続く。

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