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2011年11月10日 (木)

平清盛と神戸 その二

清盛は、仁安元年、49歳で、権大納言兼東宮大夫になり、翌年には50歳で、太政大臣になる。但し、同年5月には、官位を辞している。病に倒れたこともあるが、公家社会が、ほとほと嫌になったらしい。元々武士の清盛が、公家社会に馴染むとは思えない。だが、彼らの子孫たちは、公家社会に深く入り込み、武家の精神を失い、滅亡への道を歩んだのは皮肉な結果だ。武家が官位など望んでも仕方ないということだろう。

仁安三年(1168年)には、清盛は、重い病気になり、出家して、入道浄海と称するようになる。そして、回復して、神戸の福原に建てた邸宅に移り住むことを決心する。ここで、いわゆる邸宅政治を行う。それをやるに十分な平家一門の陣容であった。また、病に倒れたことで、やり残したことを果たそうと考えたのであろう。人間、先が無いと思うと、考えることは皆同じであろう。生命の危機感が、そうさせた。

その動機は、先にも示したように、若かりし頃の、父と一緒に活動した本人の海賊退治や赴任先の貿易経験が基になっていると思われる。すなわち、海や川を制して、宋船を入れて、貿易を一手に引き受け、各種交易を押さえれば、権力を握れると本能的に理解したのだろう。

では、なぜ、清盛は、1180年6月の遷都先として現在の神戸市の中の現在の兵庫区にあたる福原を選んだのだろうか。実は、ここは、ちょうど経ヶ島(*注)に出るのが便利だったようだ。帝都として最初、計画された「和田京」は、実現していない。何か不都合を感じて、福原京に選び直したニュアンスがある。

その輸出入航路を見ていくと、当時、神戸の大輪田の泊は、その要所であったと言える。つまり、大阪の淀川からの場合は、まず三国川に入り、神崎の川尻で海船に乗り換える。それで大輪田の泊に行き、更に乗り換え、瀬戸内海を下っていく。帰りは、この逆コース。

京都からの場合は、水陸を使い分けながら、基本的に陸行で、神戸に入り、大輪田の泊に入る。そして、同様に、船で、西に下る。神戸の港を押さえることが、何をするにしても好都合だった。彼は、京都に戻って亡くなる前年まで、神戸に実に十数年留まるのだ。清盛が、いかに神戸に執着したかが分かる。

*注

そもそも経ヶ島は、風の被害から船を守るために作られたものだ。清盛は、そこにすぐ行ける居場所を考えたに違いない。残念ながら、経ヶ島は数カ年で壊れてしまった。清盛個人での修築には、技術的にも資金的にも限界があったのだろう。経ヶ島が、現在のどの地かは特定されていないが、JR線が、当時の海岸線とすれば、そこから推定するしかない。

その後、平家滅亡後、十数年を経て、国家予算により、港は修築されることになる。そういう意味でも、国際都市、神戸市は、もっと清盛を評価すべきだろう。清盛顕彰記念館があってもいいくらいだ。

次回に続く。

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