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2011年11月12日 (土)

平清盛と神戸 その三

清盛は、宋との交易では実利を優先している。多少、宋からの文書に、「賜日本国王」というような侮辱的な言葉があっても、気にせず、返事を与え、答礼物を贈り、いいか悪いかは別にして、建前は朝貢貿易で、相手を立てて、貿易による莫大な利益を優先している。

当時の、交易品は、輸入が、各種香料(沈香、麝香、乳香、白檀等)、薬品、染料、絹織物(綾、錦等)、その他(琥珀、珊瑚、タイマイ、銀等)などであった。世界のかなり広い地域の物まで入っている。それは当時の中国がアラビアと交易があったことを示す証左であろう。

また『太平御覧』のような書物も輸入されている。これは、百科事典のようなもので、千巻もあり、高倉上皇に奉られている。そして、大量の宋銭の輸入がある。これは、その後、国内に流通し、国内経済を発展させる契機になっている。

輸出品としては、砂金、水銀、綿、絹等、素材が多かったようだ。当時は、資源輸出国であったことが分かる。ただ珍しい美術品も輸出されているようだ。これは意外な感じだ。どのような作品だったのだろう。

そういうわけで、清盛は、日宋貿易を強化していく。各種輸入品が日本の文化に与えた影響は大きい。そして、20年近くの栄華の内、清盛は14年近く、福原で過ごしており、神戸と清盛は関係が深い。そして、1180年6月に、多くの反対を押し切り、無理やり福原遷都を実行する(*注)。

しかしながら、北国で源氏方の木曽義仲の挙兵により、清盛は急遽、1180年11月に京都に都を返した。福原京は、そういうことで、半年足らずの運命だった。そして、1181年清盛は亡くなる。義仲の京都攻撃により、平家は都落ち。一時権勢を誇った栄華も20年足らずで、滅ぼされるというような流れだ。

清盛には、予感はあったかもしれないが、平家が滅ぶ姿を見ていない。1167年に太政大臣になったが、お飾りの地位に満足せず、すぐ退位して、病気になり、出家し、神戸に来た。

考え方によれば、1181年閏2月に京都で亡くなるが、神戸にいた時が一番幸せであったのではないか。自分の思いを、多少の困難はあっても、実現に向かって走る時が、楽しいのは誰でもそうであろう。彼にとって、政治より、神戸でのビジネスの方が楽しかったであろう。

*注

福原遷都には、後白河法皇の陰謀や以仁王の平家追討命令に対抗する意味があった。

*追記

従来、神戸市は、不思議なことに、観光に清盛を前面には押し出していなかった。それは福原が歓楽街であるためだと指摘する人もいる。しかし、清盛を初め平家の足跡は、神戸のあちこちにある。こんな観光資源は活用しない手はない。大河ドラマが放映されるということで、やっと本腰を上げて、観光に取り入れるようだ。

次回に続く。

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