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2012年2月29日 (水)

ぼどよい分量

新婚でありがちだが、夫が美味しいと褒めたため、妻が何日も同じ料理が続けて提供されたり、必要以上に分量を多く作っても無駄になりがちだ。ただ、こういうことを笑ってはいけない。多くの人は、そういう無駄を多くしている。

それは提供側にも問題があるが、受け取る方にも問題がある。女性が、バーゲンだと言って百貨店等に行って、必要でない物を購入して、タンスの肥やしになることはよくあることである。これは逆に見れば、提供側が、売らんがために、消費者の立場に立っていないことから起こる現象だ。

茶道の心得はないが、主人が必要以上に、たくさんの菓子を出すことはしないし、客も、それを食べ残すこともない。またパーティー等で、たくさんの料理を作って、それを残すのは、作った方も、招かれた方も、お互いによくないとなれば、それを事前にうまく調整する工夫が必要だ。

招く方も、招かれる方も、無駄がない方がいい。ほどよい分量にすることは、多くのことに通ずるのではないか。

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2012年2月28日 (火)

蕪村の二本の梅

二月も終わり、間もなく三月なのに、この寒さ、堪りません。歳を重ねるにつれて、寒さは身に応えます。家の梅も咲きそうで、咲かない。その他では、木瓜の木も、蕾を膨らませているが、咲くのは少し先だ。椿も、少し蕾を大きくしかけたが、今はじっと寒さが去るのを待っている様子。

さて、我が家には、梅の木は1本しかないが、蕪村の庭には2本あったようだ。

  二もとの 梅に遅速を 愛す哉   蕪村

同じ種類の梅なのか、あるいは異種の梅なのかは分らないが、咲くのがずれるのを楽しんでいる様子だ。つまり春の訪れを少しずつ感じ取っている。確かに、植える場所が違うと、日当たりの加減で、咲く時期がずれるのは、どの花も同じ。そして、そういうことを楽しめる時間を持てるのは有難いことだ。

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2012年2月27日 (月)

求められる消費税の益税問題や課税対象の問題の解消

政治は多くの利害関係者の調整の上にあるとしても、無駄な制度や仕組みを改廃することは必要だ。現在の消費税を5%を上げることには賛成するが、早く益税の仕組みを解消すべきだろう。

例えば、事業者が、消費者が納めた消費税を、懐に入れるのは、明らかにおかしな仕組みだ。現在、事業年度の前々年度における課税売上高が1000万円以下の事業者は、その課税期間の納税義務が免除される仕組みがある。消費者が納めた税金が国に納められないのは納得いかない。

その他にも、設立から2年間、納税義務が免除される。これを悪用して、2年ごとに事業の改廃を行い、納税義務を免除する輩が横行している。

また、現状、非課税取引があるのも問題だろう。例えば、土地、有価証券、商品券、預貯金の利子、社会保険医療には、消費税は課税されていない。他の税制との調整は必要なものの、サービス化時代には相応しくないだろう。

今回、消費税を5%上げるのは仕方ない面があるが、それ以上となると、首をかしげたくなる。消費税の課税対象を広げる発想が求められる。

*追記

また、輸出戻し税の還付金制度も、何らかの見直しが必要だ。海外の政策とのバランスは確かに必要だが、過剰な、この制度の適用は、産業政策の観点からも見直しが必要だ。輸出企業が恩恵を受ける制度は、エコポイント同様、逆に企業の力を弱める場合もある。

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2012年2月26日 (日)

元証券会社社員の犯罪

証券会社出身の経済犯罪の多さにはあきれる。オリンパスの不正を指南したのも、元証券会社社員だし、AIJ投資顧問の出鱈目運営も、元証券会社出身だ。また上場会社でも、証券会社出身が財務に関与して、経営をボロボロにされた企業もある。それは、まだマスコミには取り上げられないが、今、表面化しているのは、氷山の一角に過ぎないだろう。

確かに、証券会社在籍中は、切れ者と言われた人が多いようだが、その能力の使い方を誤っている。多分、彼らには教養が足りないのだろう。先のブログても示したように、教養のない上に知識を積み重ねても、それは脆いものだ。今、エリートの日本人の質が問われていると言って、過言ではないだろう。

しかしながら、元銀行員にも、このような不正はあるのかもしれないが、これほど大掛かりな事件はあまり聞かない。やはり証券会社の持つ環境・体質にも問題があるのかもしれない(*注)。

*注

バブル時代、銀行の暴走があったが、その多くは破綻した。また、職員の在職中の不正はあっても、元銀行員の不正は、あまり聞かない。

*追記

株式投資する場合、有価証券報告書などを閲覧して、財務の責任者の出身を確認することが、リスクを避ける一つの方法だろう。財務担当に、元証券会社出身なら要注意だ。また過去に、企業の力量からすれば、とても発行できない公募増資した企業も、彼らの指南である可能性も高い。

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2012年2月25日 (土)

『万葉集』の“竹取物語”

多くの方がご存じだろうが、『万葉集』にも竹取の翁の話が載っている。但し、内容は『竹取物語』とは大きく異なる。神仙物には違いないが、全く別の話だ。内容を、流風的に、茶化して記すと以下のようになる。

昔、昔、或るところに、竹取の翁と言われる人がいた。彼が、3月も終わりごろ、丘に登って、遠くを望むと、羹(あつもの)を煮る九人の若い女子の姿が見えたので、近づいて行ってみた。羹とは、現在の言葉で言えば、野菜が一杯の熱々のスープだろうか。若い女性が集まって、野外パーティーとして、女子会を開いている雰囲気(笑)。

彼女らは、皆、独特の雰囲気の絶世の容姿の美人ばかり。そこに翁が近寄って来たものだから、その中の一人が彼を呼び、「叔父さん、この燭の火を吹いてみて」と言う。翁は、さらに近づいて、それに応えて「分った」と言い、火の前の席に厚かましくも座る。

ところが、彼女らは、彼を呼んだ女性も含めて、笑みを浮かべて、「誰が、あんな爺さん、呼んだの」と非難轟々。まあ、折角の女子会を邪魔されては、困るのも分る。翁は、謝って、「今回は、思いの他、このような皆さんの様な神仙の方々にめぐりあって、私自身、戸惑っています。皆さんに、申し訳ないと思うので、それを贖う歌を差し上げよう」と歌一首を詠う。

この歌は長いので、省略するが、内容は、概略、次のようになるかな。「私も、比較的裕福な家に生まれたので、皆さんのように、赤子の時は、大事に育てられ、いい服を着せられていた。少し大きくなると、誰にも靡かないと評判の女性から手づくりの贈り物を届けられ、それを見た別の美人の誉れ高い女性からも、また違う贈り物を届けられるというモテモテ状態だった。それらを着て都を歩くと、女性だけでなく、鳥たちも振り返ったものさ。

そのように、わが世の春と思っていたのも、一時のこと。今では、老いさらばえて、このような惨めさ。本日のように、皆さんに笑われても仕方ない」と言って、次の歌を二首を詠む。

  死なばこそ 相見ずあらめ 生きてあらば

    白髪子らに 生ひずあらめやも

  白髪し 子らに生ひなば かくのごと 

    若けむ子らに 罵(の)らえかねめや

要するに、今は、このように爺をお笑いなさるが、あなた方も、いずれ歳が行けば、髪は白くなり、若い人々に笑われるようになりますよ、と諭した。これには、若い女性たちも反省して、各人1首の歌を詠み、翁を改めて歓迎しますと詠っている。流風も、そういう事態になったら宜しくね、若い女性の皆さん(笑)。

 

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2012年2月24日 (金)

変なトマトブーム

子供時代、母の作る青臭いトマトが苦手だった。今は懐かしいが、流通しているのは、甘いトマトが多い。大人になってからは、比較的よく食する食材だ。ところが、最近になって、マスコミを賑わせるようになって、少しトマトブームの様である。

京都大学の研究発表によって、メタボに効果があるということで、大騒ぎしている。毎日のように、マスコミに取り上げられ、実際、スーパーの売り場にはトマトジュースはなくなり、時期外れのトマトの売り場が大きく設けられている。日本人は、なんと権威に弱いことか。

ただ、本来、トマト、きゅうり、ナス類は、身体を冷やすため、今の寒い時期に食することは、身体を冷やし、適切な食べ物とは言い難い(*注)。それなのに、皆さん、飛びついている。またトマトを食するだけで、健康が維持できるわけでもない。おかしなことだ。もっと冷静な判断をしたいものだ。

*注

但し、寒い時期も、温めて調理すれば、害はない。

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2012年2月23日 (木)

諭吉の八つの心訓

今回は、福沢諭吉の心訓を紹介しておこう。

一、この世の中で、一番楽しく立派なことは、一生涯を貫く仕事を持つことである。

二、この世の中で、一番さみしいことは、する仕事のないことである。

三、この世の中で、一番尊いことは、人のために奉仕することである。

四、この世の中で、一番美しいことは、総ての人に愛情を持つことである。

五、この世の中で、一番醜いことは、他人の生活を羨むことである。

六、この世の中で、一番惨めなことは、人間として教養のないことである(*注)。

七、この世の中で、一番悲しいことは、嘘をつくことである。

八、この世の中で、一番素晴らしいことは、常に感謝の念を忘れないことである。

以上が八訓だが、解説はいらないだろう。

*注

最近、教養と知識を混同している人がいるが、教養は人としてあるべき姿を知ることで、各種情報を自分のものとする知識とは異なる。教養の上に知識を積み重ねないと、砂上の楼閣になりかねない。

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2012年2月21日 (火)

芭蕉の梅の句と冬の運動不足解消

奈良では、梅が開花を始めたらしい。そろそろ梅前線が全国に動いてくるのだろう。まだ寒いが、雨がないだけいい。芭蕉も、梅に関する句がある。

  やまざとは まんざい遅し 梅花

現在の三重県の伊賀上野の山中で詠んだもの。「まんざい」とは、万歳のことで、獅子舞の様なもので、年初に、各家を回って、賀詞を述べて舞い、祝儀の米や銭をもらう者のこと。彼らが正月はすでに過ぎ去っているのに、梅の咲く、この時期になって、家々を回っていることを冷やかしたもの。でも、山里にとっては、これから本当の春で、年の始まりであるかもしれない。

ところで、人間、寒いと活動も鈍りがち。流風も、先日、運動不足を指摘され、少しずつ動かしているところ。運動嫌いも、長生きできないと脅かされれば、やるしかない。柔軟体操の方法を教えられ、腹筋、腕立て伏せも追加。ラジオ体操だけでは駄目らしい。それにしても、身体が硬くなっているなあ。冬も終わりかけだが、毎日、少しずつ、励もう。気づくのが遅すぎたかな(笑)。

*追記

本当のところは、万歳は、都市部を季節通りに正月回って、それから日をずらして、雪深い山里の田舎を回った。そうすれば、結果的に、多く回れ、実入りが多くなる。実際は、万歳は、流風のように、ぐうたらではない。

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2012年2月20日 (月)

事前寄付の検討

東日本大震災に対しては、義援金等多くの寄付がされ、またボランティアの提供も、積極的にされた。このようなことは、地域社会から日本社会全体の動きになり、望ましいことだと思う。

ただ、今後検討されていいことは、事前の寄付活動だ。災害が起こってから寄付するのもいいが、予防的措置に対して寄付するのも大切だろう。予防的措置に対して、どれくらいの金がかかるか、まず声を挙げ、措置が執行できるような寄付を集めて、実施する。

国や地方の財政が苦しい中では、そのような仕組みも求められる。

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2012年2月19日 (日)

漢詩『寒梅』の鑑賞

今年は例年になく寒いので、比較的寒さに強いヤツデも、葉がくしゅんとしている。まあ、毎日、バケツに氷が張るのだから、仕方ないだろう。人間様も、大変だし。ところが、梅の方は、蕾を日に日にわずかずつだが、大きくしている。

そういうわけで、どうしても梅に関する記事は、増えがちだ。梅は本来、日本の花ではないだろうが、自宅に梅を数年前に植えた関係上、関心を持たざるをえないことも関係しているかもしれない。

さて、詩吟でも詠ぜられることのある漢詩『寒梅』を今回は挙げておこう。この詩は、同志社を設立したことで有名な新島襄の作である。詩の意味は、多分に教育者らしい作風である。

  庭上の一寒梅

  笑って風雪を侵して開く

  争わず又力(つと)めず

  自から百花の魁(さきがけ)を占む

いつものように蛇足的に解釈すれば、「庭の梅の花は、寒い風雪の中を気高く凛として咲く。それは、まさに百花に先駆けて、他と争うこともなく、気負うこともなく、自然体で、咲いている」となるだろうか。

彼は何を言いたかったのだろうか。若者たちよ、リーダーたらんとすれば、世の中の風当たりや辛苦に屈することなく、信じる道を歩め、と説いているように聞こえる。また違った角度で見れば、人が嫌がる厳しい環境下こそ、世に出るチャンスと説いているようだ。

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2012年2月18日 (土)

落語『お茶汲み』に関して

狂言『墨塗女』と、少し似た題材の落語は、『離別の涙』以外に、ずばり『お茶汲み』というものがある。備忘録的に記しておく。男は若い時は、誰でもそうだと思うが、皆が集まると、異性の話か、女遊びの話になる。男というものは、この関係の自慢話は、どうしてもしたくなる。

そこで、ある若衆が切り出す。「俺は最近、大変な女郎に出会ったぞ。というのも、俺の顔を見るや否や、あっと驚きの声を出した。訳を聞くと、男と田舎から手を携えて江戸に出てきたものの、落ちぶれて、この店に身を売った。ところが男は病を得て死んでしまった。その男が、おれと瓜二つと言うんだ。これは天からの巡りあわせで、これからも頼りになってくれと言う」

ところがところが、これは女郎の常套手段。男も気づくのだが、会うごとに情にほだされ、足繁く通う羽目になる。「そうすると、女は、年が明けたら、夫婦になってくれと言う。男心というものはいつも頼りなくて、愛想をつかされるかもしれないと思って、涙を流しながら、悲しくなると言うんだ」。

だが、その女は、茶碗の茶を指でそっと目につけている。それを見て、いっぺんに冷めてしまった。誰でも、あの手には引っ掛かるから注意が必要だ」と皆に、諭すように言う。いましたいました、こういう人。流風の先輩にもいましたよ(笑)。

それを聞いた友達は、それでは「おれが仇を取ってやる。その女郎の名を教えろ。その女郎にきっと恥をかかせてやる」と女郎のところに乗り込む。そこで女郎の騙しのテクニックを逆手にとり、女郎に夫婦になってくれと迫ると、女はふと立ち上がるので、「どこに行くのだい」と言うと、「ちょっと、待ってらっしゃい。今、お茶を汲んで参ります」とオチ。

昔から、玄人筋の女性の言うことを本気にしてはいけないと、子供の時から教えられてきた。「水商売の女性の商売上の言葉を真に受ける阿呆が多いから、お前が大きくなったら、気をつけるんだよ」等々(笑)。狂言『墨塗女』、落語『離別の涙』、『お茶汲み』も、そういう教訓話だ。今は、そういう教育は子供時代にはされないようだ。いいのか悪いのか。

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2012年2月17日 (金)

狂言『墨塗女』と女の本音

よく、女の武器は涙と言うけれど、男は、分っていても、案外騙される(笑)。例えば、何かで、部下の女性がしくじって、それを叱っていても、涙を見せられると、手ぬるくなりがちだ。女性は、それを心得ていて、涙をうまく利用する。猛者は、泣くふりをするだけだ。

それは狂言でもある。泣くふりをする理由は違うが、『平中物語』や『堤中納言物語』を、もじったものに『墨塗女』がある。あらすじは、訴訟のため上京していた、さる大名が、勝訴して、都を去ることになり、太郎冠者を連れて、馴染みの女に暇乞いに行く。

大名から別れを告げられると、女は悲しそうに泣き、大名も、涙を誘われる。ところがところが、その女は、傍に置いた茶碗の水をつけて、泣き真似をしていた。それを太郎冠者が見つけ、大名に知らせるが、それを信じようとしない。

そこで、太郎冠者は、こっそりと茶碗の水と墨をすっかり取り換え、再度、大名に会わせると、今度は、その女は、墨を目の下に塗り、顔が真っ黒。これには大名も驚き、女性の不実を知ると、それを知らしめるため、鏡を見せる。

そうすると、なんと女は逆ギレ。二人に墨を塗って追いかけるというもの。女は怖ろしい(笑)。純朴な田舎大名は、都会のすれた女に、見事に騙されたわけだ。そういうと、若かりし頃、流風が田舎から大阪に出てきた時、食堂のおじさんから、「大阪の女は怖いから、気つけよ。嫁さんは、田舎の女性をもらいな」とアドバイスしてくれた。

まあ、大阪の女性が、皆が皆、怖いわけではないが、う~んと思いたくなる場面は多かったように思う。ただ、大阪の女性は、涙で誤魔化すことは少ないように思う。何事もストレートた。それが誤解を受ける面もある。でも、少なくとも、この狂言の様な、大阪女の泣き真似は、あまり見た記憶はない。やはり顔で泣いて、心で舌を出すのは京女かな(笑)。最近の京女は違うと信じたいが。

*追記

落語にも『離別の涙』と題したものがある。設定は、江戸のお店(たな)の者が、京都・島原に馴染みができたが、急に江戸に戻らざるを得なくなったとしている。後の筋はほぼ同じ。この狂言から話を作ったのだろう。

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2012年2月16日 (木)

とんてきブーム?

報道によると、今、外食産業では、とんてきブームらしい。とんてき、すなわち「豚てき」は、材料も安く、簡単な料理なので、流風も、よく作る。また、とんかつのように、油で揚げる必要もないから、楽。それに家では、揚げ料理はしないので、料理は自然と、「てき」になる面もある。

実は、生前、肉好きの母が大好きで、その内、豚料理では、ヘルシーだと言って、とんてきをよく作っていた。塩、胡椒して、肉の筋きりをして、フライパンで両面を焼けば出来上がりだから、超簡単。後は、タレをどうするかだけだろう。

外食産業にしても、とんかつと比べて、手間がかからないから、コスト的にもいい。それに油を使わないから健康的だ。もちろん、スープや野菜サラダは欠かせないが、そんなものは簡単に作れる。とんてきは、トータルで手抜き料理が可能だ。その割に皆に喜ばれるし。料理が苦手な母が、よく作っていたのは、そこに大きな理由があったと思う(笑)。

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2012年2月15日 (水)

梅は咲いたか~好古園に行く

  梅は咲いたか 桜はまだかいな

  柳なよなよ風次第

  山吹や浮気で 色ばっかり

  しょんがいな

  梅にしようか 桜にしようか

  色も緑の松ケ枝に 

  梅と桜を咲かせたい

  しょんがいな

上記の端唄には、このように唄われているが、梅と桜を同時に見るのは難しい。今、各所で梅見が始まったが、まだまだ蕾の状態のところが多いと思う。桜は、まだまだだろう。自宅の梅は、まだ蕾に至っていない。それでは、他所はどうなのだろうかと、たまたま好古園の梅花展のパンフレットを入手したため行ってきた。行くのは初めてだった。

過去に関連記事にしたことはあるが、ここに行ったことはなかった。実は、どうせ大したことがないのだろうと思っていたのだが、結構広くて、見ごたえ十分。正式には、「姫路城西御屋敷跡庭園」と言う。好古園という名称は、姫路藩主酒井家による藩校「好古堂」に因む。平成4年に開園したもので、池泉回遊式日本庭園ということだ。

御屋敷の庭、茶の庭、流れの平庭、竹の庭、築山池泉の庭、花の庭、松の庭、夏木の庭等がある。御屋敷の庭に面して、活水軒(レストラン)、渡り廊下と続き、中秋のの名月を愛でるのに最適な潮音斎がある。茶の庭に茶室・双樹庵(喫茶は有料)もある。その他、庭の五か所に東屋(臨泉亭、聞耳亭、花笠亭、鷺望亭、流翠亭)がある。入場料大人300円だが、十分、元は取れる(笑)。

九つ(数えると8つにしかならない。どれをもう一つ加えるのか分らない)の趣の異なる庭園群で構成されている。季節によって違う表情が楽しめるようになっているので、いつ来ても、それなりの楽しみ方ができるだろう。いずれ、また来ることになるだろう。

目的の梅は、庭の各所に植えられていたが、まだ蕾の状態だった。またレストラン「活水軒」がある御屋敷風建物の中にも、鉢植えの梅が展示されていた。これらも同様、蕾の状態だった。花が咲くには、もう少し時間がかかりそうだが、咲くのは、そんなに遠くはないと思う。もう少し温かくなったら、再訪するとしよう。

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2012年2月14日 (火)

養心の心得

自己をコントロールするには、自己も周囲の環境も自由自在にする必要がある。それには自己の涵養と共に、心を自在にコントロールすることが求められる。その関連で、安岡正篤氏が、彼の著作であちらこちらに紹介している言葉に、中国の僧・天皇道悟のものがある。

その天皇道悟の言葉であるが、弟子から「心養うのを守るには、どうすればいいか」と問われたことに対して示したのが、次の偈だ。

  性のまかせて逍遥し

  縁にしたがって放曠す

  ただ凡心をつくすのみ

  別の勝(聖)解なし

若干、蛇足的に解説すると、次のようになるだろうか。

「本性のまま、俗世間を離れて、心を遊ばせ、縁に随って、物事に捉われず、心を開放して、ただただ、平常心を保つだけだ。別に、これといった特別の方法があるわけではない」と。

別に、僧でなくても、危急の時も平常心を保つことは大切だが、簡単なようで簡単ではない。そうかと言って、若い人が早く老成することは望まない。それはいろんな経験から徐々に身につけるものだ。若い時は、迷いの中で、いろいろあっていいと思う。ただ、迷いから脱したい時、思い出して欲しい言葉だ。

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2012年2月13日 (月)

金時ニンジンの煮物

流風は、金時ニンジンが大好き。ただ年中、出回らない。寒い今の季節だけだ。今年は出回るのが少し遅く感じた。この赤いニンジンは、洋ニンジンより、どこか健康にいいように思うのは、多分、この赤い色に、そう思わされているのだろう。

これを使った料理は、以前にも記したように、大根と揚げと共に、出汁、酒、みりん、醤油で煮るだけのシンプルなもの。でも、美味しい。時々、里芋も入れて煮る。これも美味しい。ただ、醤油は、ほんの少し入れるだけの方がいい。

これに、冷やっこと焼き魚があれば、大満足。また、買いに行こう。

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2012年2月12日 (日)

謡曲『室君』について その二 棹の歌

室津の賀茂神社の小五月祭り(*注1)で歌われるという『棹の歌』を示す(一、二等番号は便宜的に流風がつけた)。この歌の内容は、謡曲『室君』の内容と、ほぼ一致する。棹の歌とは、船頭が船を漕ぎながら歌う歌のことだが、この謡曲では、白拍子(男装した遊女)が船に乗って、漕ぎ巡る際に歌う舟歌ということになっている。

 (一)

  裁ち縫わん

  裁ち縫わん

  衣きし人もなきものを

  なに山姫の

  布さらすらん

 (二)

  棹のあらし

  棹のあらし

  長閑にて

  日かげも匂ふ

  天地ひらけしも

  さしおろす

  棹のしたたりなるとかや

 (三)

  さる程に

  さる程に

  春過ぎて夏たけて

  秋すでに暮れゆくや

  時雨の雲の重なりて

  峰しろたへに降りつもる

  越路の雪の深さをも

(四)

  知るやしるしの

  知るやしるしの

  棹立てて

  豊とし月の行くすえを

  はかるも棹の

  歌うたひて

  いざや遊ばん

  (五)

  こことてや

  こことてや

  室山かげの神垣の(*注2)

  賀茂の宮居は幾久し

この歌は、室君である伝説の美女の友君が歌ったとされる。彼女が遊女と呼ばれる以前は、遊女の様な接待は、巫女がやっていたと云われる。それを友君は、白拍子のいろんな形式の舞いを伝えバージョンアップしたらしい。

ただ、友君は、接待では、代金は決して受け取らなかった。困った周囲は、ある時、彼女の子供の供養代として、花代や線香代とした。それで、彼女は初めて受け取ったという。これは現在でも、花街で使われる言葉だ。

歌の解釈は、止めておくが、最後の部分は、室津の山蔭の明神も、京都の賀茂の明神と一体だと説いている。裏に、愛した人とは別れ別れになって、再会することもままならない室君自身の哀しさを歌ったものとされる。

また遊女が男装(白拍子)し、船頭、すなわち男の立場で、棹を挿す。船が女性と考えれば、男女の営みを反映している。暗に、遊女の心得を意味しているのかもしれない。お互いの立場を慮れば、一時的であれ、うまく行くと言っているのかもしれない。いずれにせよ、哀しい歌だ。

*注1

小五月祭りについては、酒井抱一も題材にして描いている。

*注2

「神垣の」は、「神かぐら」となっているものもある。

*追記

友君は、四国に流されていく法然上人を乗せた船が室津に停泊し、苦しみを上人に伝え、教えを請うている。法然は、仏の慈悲を説いたと伝えられる。後、深く仏教に帰依し、見性寺等の建立に関わっていると伝えられる。ただ、法然が許されて、再度、立ち寄った際には、友君は亡くなっていたらしい。

*追記

棹の歌については、かつて野坂昭如氏が歌った『黒の舟歌』に通ずるようなものを感じるのだが、穿ちすぎかな(笑)。

*追記

室津の賀茂神社には、清盛も、広島の厳島神社に参拝に行く途中、旅の安全を祈って、この神社に参拝している。またドイツ人医師シーボルトも訪れ、参籠所から見える眺めを高く賞賛しているそうだ。

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2012年2月11日 (土)

謡曲『室君』について その一 概要

兵庫県たつの市に室津という漁港がある。この近辺で取れた魚は大変おいしい。室津は、昔、波が静かで、当時の船の寄港先となっていた。所謂、五泊(*注1)の一つとされる。かつて朝鮮通信使の接待も、ここでなされたという。それで、多くの人が行き交った。

そういうわけで、港には女ありということで、ここ室津にも、多くの遊女が存在した。それを題材にした謡曲に『室君』がある。室君とは、遊女の長のことである。伝説の美女で、最初の室君とは友君のこと(*注2)で、元々は木曽義仲の第二夫人で山吹御前と呼ばれた。

彼女は、子供を失い、無常感を感じ、室津(兵庫県たつの市)で、亡き子供を弔うことになる。そこで後、遊女になったとされる。それが室津が遊女発祥の地と呼ばれる由縁である。謡曲の内容は次のようになっている。

播州室津で、賀茂明神に仕えている神職の者が、天下泰平を祝って、神前に囃す御神事を執り行うため、彼が宰領して、室君達を白拍子の姿で、船に乗せて、神楽を奏する。

これにつられて、室の明神が現れる。女体で韋提希夫人ということになっている。彼女は、天竺摩訶陀国王頻婆娑羅の夫人である。阿闍世王の母、釈尊の信者であったが、仏となって、我が国に垂迹(じゃく)して、賀茂の明神として現れる。すなわち、室の明神=賀茂の明神=韋提希夫人ということになる。それは友君ということになるのかもしれない。

*注1

五泊とは、「摂津播磨五泊の港(略して、摂播五泊の港)」のことで、行基が開いたとされる。

  河尻泊(現、尼崎市)

    大輪田泊(現、神戸市)

  魚住泊(現、明石市)

    韓泊(現、姫路市飾磨)

    室生泊(現、たつの市室津)

*注2

室君と友君は異なると云う見解もある。友君が木曽義仲の第二夫人で山吹御前で、遊女の起源とするもので、室君は、その後に出てくる別人だとするものだ。

ただ室君というのは、人の名ではなく、遊女の長のことを指すとすれば、友君は初代室君であったと考えられる。その後、遊女の長は代替わりするので、室君は次々と変わるということになり、そこに混乱が感じられる。

 

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2012年2月10日 (金)

敗者の五要因

あらゆる戦いに負けるには、その要因がある。すなわち、負けるべくして負けるのだ。『春秋左氏伝』に、それが示されている。

  徳を度(はか)らず。

  力を量(はか)らず。

  親を親しまず。

  辞を徴(あきら)かにせず。

  有罪を察せず。

何を言っているかと言うと、まず、「徳を度らず」では、徳を養うことはせず、欲ばかり先行させること。欲というのは、注意しないと、必ず、そこには落とし穴がある。欲張りすぎると大きな災難を受ける。

次の「力を量らず」は、自分の夢想のために野望を抱き、自分の力量を十分考えずに、いきなり戦いを挑むと、結果は明らかだ。

「親を親しまず」は、親同様、自分を育ててくれた国や社会に感謝せず、他国を過剰に評価したり羨んだりすること。過去のいきさつを見て、それを大切にしないと、いずれ、身内から大きなしっぺ返しがあるということ。

「辞を徴かにせず」は、何のためなのかという大義も名分もないまま、戦いを挑むと、身方の士気は上がらず、総合的な力を発揮することは難しい。

最後の「有罪を察せず」は、悪いことははっきりしているのに、詳しく調べることもなく、悪者や犯罪者を罰することなく、野放しにすること。こんなことが続けば、社会が弱体化してしまう。

以上、ごく当たり前のことを説いているのだが、別に戦争でなくても、参考にはなる。

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2012年2月 9日 (木)

いろは歌の真意

今回は、子供の頃、覚えさせられた、いろは歌について、備忘録的に。いろは歌は、どなたもご存じだろうが、弘法大師の作とされる。ただ、彼の作であるかは疑わしい。しかしながら、誰が作ったにせよ、そこには、仏教の教えが込められている。

  いろはにほへど ちりぬるを

   (色は匂えど 散りぬるを)

  わがよたれぞ つねならむ

      (わが世誰れぞ 常ならん)

  うゐのおくやま けふこえて

      (有為の奥山 今日越えて)

  あさきゆめみし ゑひもせず

      (浅き夢見し 酔いもせず)

一般的な解釈は、「春、匂い立つように咲き誇った花も、やがては散ってしまう。このようにこの世で、人も同様に、誰も不変でいることはできない。無常の現世を超越できると儚い夢を見たり、酔いふけったりはしない」となる。

以下は知らなかったのだが、『涅槃経』の字句に対応しているそうだ。すなわち、次の様だ。

   諸行無常

   是正滅法

   生滅々己

   寂滅為楽

この解釈は、「万物の事物が流転変化する不変の法則の下、人間は、限られた時間を与えられているに過ぎず、いつかは死ぬ運命にある。儚い現世を離れて、移り変わることのない永遠の存在である悟りの境地に至るためには、妄想から脱して、あらゆる煩悩から離れた涅槃の地に落ち着こう」ぐらいの意味らしい。

まあ、これだと仏教者同士では、伝わっても、一般庶民には分らない。それで、庶民にも分りやすいように、説いたのが「いろは歌」であろう。但し、庶民の方は、必ずしも、その真意を理解していなかったかもしれない。ただ「有難い言葉」が含まれていると思って、信心したことは考えられる。まあ、イワシの頭でも、信じる者は救われるということだろう。

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2012年2月 8日 (水)

話す能力の大切さ

かつて日本人は話す能力が足りないとされてきた。人前で遠慮がちにして、外国人と議論すると、負けてしまうと思っていた面もある。それで、日本人は何を考えているか分からないと、よく非難された。

それは国内であれば、関係者を慮り、いろんなことに配慮するから、やむを得ない面もあった。出しゃばって話せば、自分のところに、いろんな課題が回ってきて、背負込むことになるのを避ける意味もあったかもしれない。よって、沈黙は金ということになりがちだった。

現在のように国際社会では、話す能力は大変重要な能力だ。それは上手に話すということではない。きちんと相手に意思が伝わればいい。外国語の習得は大切だが、別に流暢である必要はない。全ての世界の人は、外国語が流暢なわけではない。

問題は話す内容を、きちんと情報が整理できているかということ、自分の意思が明確であるかということ、相手に聞き届ける工夫をしているかということが大切であろう。その上で、積極的に遠慮なく話すことが重要だ。若い世代は、概ね、そのようで好ましい。

相手に、その存在価値を認められて、初めて、やりたいことができる。それに話すことは元気も与えてくれる。健康にもいいのだ。ましてや、話すことで、考えが整理されることも多い。尤も、それに伴う行動力がなければ意味はないが。

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2012年2月 7日 (火)

予めの用意がないと

予めの用意がないと、何事にも事は順調に進まない。学生時代であれば、予習するのと、そうでないとのでは理解の速度は全く異なる。それは世の中に出ても同じことだ。将来を想定しつつ、現在を見つめるのと、だだただ、その日暮らしをするのとでは、人生の価値が違ってくる。人間の持ち時間には限りがあるから、それを活かすも殺すも本人の自覚次第だ。

古語にも、次の様な言葉がある。

  世に先んじては体怠り神(こころ)昏(くら)し。

  事に臨んでは手忙しく脚乱る。

何事にも、先んじて手を打つ必要があるが、それを怠ると、事が起こって大騒ぎして、あたふたする。それは国も個人も同じこと。国は100年先を考えて、政策を考えておく必要があるし、個人においても10年先くらいは見通して準備しておく必要がある。

*追記

政治とは、100年先を見据えながら、足元を見るというのが本質だろうが、現在の政治家は、足元ばかりを見ている。それは小選挙区制になってから、激しいように思う。その結果、政治を大きく捉えることができなくなっている。

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2012年2月 5日 (日)

将来の社会保障の形

社会保障と税の一体改革が、民主党政権により叫ばれているが、これは支出と収入のバランスを長期にとっていくというものであろう。日本の社会保障は、自民党政権より、現状「中福祉、低負担」がずっと継続され、更に人口の逆ピラミッド化により、高齢者を支える現役世代の減少により、社会保障が、長期的には成り立たなくなっている。

つまり病気で言えば、かなり重症である。よって、現在の「中福祉」の社会保障体制を将来も継続するのか、あるいは福祉の程度を落として、「低福祉、低負担」に変更するのかが問われている。現段階で、高福祉高負担を求める議論は除いておく必要があるだろう。

ところが、民主党のモデルは、スウェーデン等「高福祉、高負担」の社会保障をモデルとしており、日本の実情からはかけ離れていることから、議論が混乱している。国民の多くは、「高福祉」は求めていないだろう。自分が負担せずして、国が「高福祉」の社会保障をしてくれればいいが、それは不可能である。

消費税を10%に上げることに同意しても、それ以上に上げる議論には与しない。社会保障の形をどうするか、国民的合意がまず求められる。中福祉中負担にするにしても、国家全体として、もっと稼がなければならない。今の経済状態であれば、将来、低福祉低負担もありうる。医療や介護を受けられない人が増大するかもしれない。

そうならないためにも、個人は手を打っておく必要がある。ただ、その手がなかなか難しい。結局、個人だけでは守れないだろう。自分自身が自立して、自らを守るのがベストだが、リスク管理としては、もしものことも考えておかなければならない。

ということは、社会も、地域も、国も、もっと、しっかりしてもらわねばならいないということになる。結果的に、より多くの人が、いろんな意味で、社会に参加(広い意味で相互扶助に関与)することが望まれるのだろう。社会保障は順繰りだから、今、若い人も、いずれ老いる。若い人たちも、どのような相互扶助という社会保障の形にして、どのような運営にするか、については、真剣に考えなければならない課題だ。

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2012年2月 4日 (土)

しもやけの記憶

いやいや参りました、連日続く、この寒さ。今朝は起きると、室温マイナス一度。昨日はマイナス四度だったから、今日は、まだ温かい方なのだろうか。大体、住んでいる家が古家だから、隙間風が入り放題。寒いわけだ。子供時代を思い出す。

子供時代は違う家に住んでいたが、昔の造りだから、隙間風がよく入って、今頃の冬には、火鉢にかじりついていた。他に暖房らしきものはなかったと思う。湯たんぽとか、炭団の行火はあったが。

今回の寒さは、子供時代に経験した寒さに近い。それでも、母に雑巾を持って、家の各所の拭き掃除を命ぜられ、バケツに井戸で水を汲み、雑巾を浸して、絞るのだが、それが辛かった記憶がある。

掃除する時も、手はかじかんで、指が自由に動かない。それでも母は容赦なし。その他は優しい母だったのに、拭き掃除だけは厳しかった。毎日、毎日、そういうことが続き、しもやけになり、手が膨らみ、痛いような痒い状態になる。

その手で、更に拭き掃除を続くと、やがて、手がひび割れてくる。そこから水が浸み、大変痛い状態に。母が何かクリームを塗ってくれるが、全く効果なし。それでも、拭き掃除は免除されなかった。今から思い出しても、辛い思い出だ。

なぜ、母が子供に、こんなになっても、拭き掃除を強いたのかは、今もって分らない。母も、子供時代に、そういう経験があるのかもしれない。幼児虐待が、親の過去の経験に基づくものだとよく言われるが、それに近いことがあったのかもしれない。

それはそれとして、今回、この寒さで、足の指に、しもやけができてしまった。多分、風呂上がりに、拭きとりが甘かったのであろう。これは誰も責めることはできない。全て自己責任だ。クリームを塗って、ようやく解消。昔は、こんなに効くクリームがあったのかな(実は、昔からあったらしい。母が知らなかっただけのようだ。ただ子供に効くかどうかは分らない)。

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2012年2月 3日 (金)

輸出立国とは

先日、本屋で、国際経済関係の解説本を衝動買いしたのだが、その中に、「日本は輸出立国」とある。あれあれ、また変な解説だ。日本は、輸出立国ではあるまい。輸出総額は、対GDPで、確か14%程度。この程度で輸出立国とは言えまい。おかしなことを書いたものだ。

日本は、従来、内需中心で経済は運営されてきた。現在、内需は元気がないとされるが、それでも、内需中心だ。この本を書いた人の氏名は記されていないが、凡そ、マスコミ関係ではないだろうか。彼らは円高で騒ぐ輸出企業の財界人の提灯持ちだ。

どうしても輸出が大きく見えてしまうようだ。もちろん、今後の日本については分らない。人口の減少に伴う内需の減少を補うため、海外市場の開拓に励むだろう。ただ、輸出が一本調子に伸びるとも思えない。多分、市場に近い海外投資が増えるからだ。それは途上国との競争が激しくなるから止むを得ない。

現在より若干輸出比率が高まるかもしれないが、将来も輸出立国にはならないだろう。書籍にされるのなら、言葉を選んでほしいものだ。この本は、分りやすく解説してある。ただ部分的には、よい記事もあるが、見通しに深さがなく、全般的に内容がないので処分するつもり。大体、書店でぱらぱらと見て、購入して、はずれはないのだが、今回は失敗だ。

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2012年2月 2日 (木)

破顔一笑の若い女性

破顔一笑などと言うと、バブルの頃、中小企業の社長たちは、あまりにも儲かって笑いが止まらず、その状態にあったことが思い出される。ただ、流風は、最近、ある女性の笑い方が、そのように感じられて仕方ない。

某所に行くと、その受付の若い女性のことである。流風が行き、二、三、言葉を交わすと、彼女はいつも、体全体で、満面の笑みだ。まさに破顔一笑に当てはまる。別に特別な話の内容ではないのに、理由は分らない。一度、その理由を尋ねたくなったが、止めた。別に不愉快な感じてなく、こちらも元気をもらえるからだ。

他の顧客に対しても、そうなのかなと見ているのだが、にこやかなことは確かだけど、流風に対してほど大袈裟ではない。とにかく、流風に対しては、笑い方が声に出すわけでもないが、豪快だ。大きな体で笑われると、この世のごちゃごちゃが吹っ飛びそう(笑)。

世の中には、いろんなタイプの人がいるもんだ。だから、人間社会は面白い。

*追記

ちなみに、彼女は、「箸が転んでもおかしいお年頃」の年代より上だ。

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