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2012年3月31日 (土)

漢詩『春暁』を懐かしむ

  春眠 暁を覚えず

  処処に 啼鳥を聞く

  夜来 風雨の声

  花落つること知んぬ多少ぞ

この漢詩は、ご存じ、孟浩然の『春暁』。いつもの解釈は、蛇足になるので、止めておこう。これからの時期にぴったりだ。朝の眠りも心地よいので、いつまでも寝ていたい。また、この時期、学生時代、午後の授業では、昼食のあとで、眠気に誘われ、それを乗り越えるのが大変だったことを思い出す。

ここへ来て、やっと春らしい日差しになってきた。春風が、吹くが、強い風だけれど、どこか優しい。でも、目にほこりが入りそう。全てにおいて、いいことはないようだ。でも、春は嬉しい。今年の冬は、少しきつかった。年明けから、体調を少し崩していた。やっと回復気味。

温かくなったと思ったら、梅の花も、ちらほら散り始めている。あまり気にかけていなかった、ピンクネコヤナギも、花を咲かせて、ちらほら散っている。この花が大好きなスズメバチも集まりかけている。ツバキも開花し始めた。

ただ、朝の鳥の鳴き声は、例年と比べたら少ないかもしれない。木の実も、ほとんど残っている。いつもは、騒がしい鳴き声と共に、実は食い荒らされて、糞を撒き散らされるのだが、今年はそういうこともない。スズメは、時折集団で、やってくるけれど、全国的に、鳥の飛来が少ないのだろうか。

孟浩然の、この漢詩のように、今日の風雨で、梅の花が散り終えるのかもしれないと思いながら、比較的静かな春を迎える。

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2012年3月30日 (金)

落語『千両蜜柑』から考える

物の価値の勘違いを取り扱った落語に、『千両蜜柑』がある。時々、演じられている有名な部類に入るだろう。あらすじは、多くの方がご存じだろうが、一応記しておく。

ある大店の息子が、暑い夏に、今でいう熱中症に罹って、ふらふらになり、寝込んでしまった。食事は全く進まず、親や周囲が心配して、「何か食べたいものはないか」と尋ねると、「何も食べたくないけれど、冷たく冷やした蜜柑が食べたい」と言う。

「それなら、たやすいこと」と、買いにやらせたが、季節外れの6月なので、蜜柑はどこにもない。今なら、缶詰もあれば、冷凍技術も発達しているから、どうにでもなるが、話は江戸時代。親は、金に糸目はつけないから、探し出せと大号令。番頭以下、くまなく探すと、やっと青物市場に、一個だけあることが判明。但し、千両だと言う。

足元を見られていると思ったが、親は、それでもいいと言うので、それを千両で引き取った。そして、息子に「食べるがいい」と与えると、皮を剥くと、十袋あった。その内、七袋食べ、残りの三袋は、両親と番頭で分けてくれと、番頭に渡すと、番頭は、その三袋を持ってドロンしたという。

彼は何を考えたのか。蜜柑一個で千両と言うことは、三袋で、三百両。それを持ち逃げすれば、後は何とかなると考え、それを持って、女と駆け落ちしたというオチ。

落語のようなことは現実にはないだろうが、多くの勘違いで、犯罪に及んでいる事件は現代でも多くある。落語の方は、換金できない、蜜柑の三袋だが、多くの事件は、企業の金の横領という形で現れる。企業の金とは、同じ金でも、「モノ」であることが多い。要するに使える金ではない。それを多くの人間が勘違いする。

物の横流しも同様で、それも換金しなければ使えないが、結局、使える金ではない。事件を起こせば、結局、自分を貶める結果になるだけである。人間、確かに、お金の姿や、それを生む物を見て、気迷いということはあるかもしれない。普段から、そういうことを冷静に物事の価値を見極める目を養っておくことは肝要だと思う。世の中、そんなに甘くない。落語は笑いの裏に、色々教えてくれる。

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2012年3月29日 (木)

金融投資運用の意味

金融自由化により、一般人も、投資運用の知識は必要になって厄介な時代には違いない。かつては、高度成長で、間接金融が主体の時代には、日本銀行の公定歩合に伴う金利変動で、銀行に預けるだけで、結構な金利がついたが、今は、そういうことは全く期待ができなくなった。

だが、一般人にとって、金融投資運用はなかなか難しいものだ。身近なものでは、昔からある株式投資があるが、これらの投資の性格は、売り買いが伴うから、誰が損するから、誰かが儲かる仕組みということだ。だから、全ての人が儲かるということはありえない。

ところが、多くの人は、ブームに煽られて、皆、儲かったり、損すると、錯覚する。お金を運用する人は、そのことが分っている必要があるが、厚生年金基金などの責任者のほとんどは、その運用経験もなく、自覚が薄かったと考えられる。基本的に、彼らは金融投資の性格を全く理解していなかったのだと驚きを禁じ得ない。

人間誰しも、自分の金でないと、その管理は甘くなるという証左かもしれない。しかし、それでは困る。多くの厚生年金基金は、厚生年金を低く抑えた結果で、両方合わせて、必要な老後資金が確保されるからだ。今回の、AIJ投資顧問の詐欺の様な失敗は、多くの人々の将来の年金生活を損なう。

また別の観点では、金融投資で、過大な成果を求めることも危うい考え方だ。厚生労働省は、5.5%の利回りの確保求めたようだが、利回りは、時代と共に変動すべきものだし、固定的に考えることは、今回のような非常な事態を招きかねない。

現在のように、日銀の政策金利が、ゼロ金利に近い状態である時、どんな頑張っても、せいぜい3%の利回りが上限だろう(*注)。それ以上確保できれば、それに越したことはないが、それはリスクを背負込むことになり、望ましい結果を生まない。特に年金の様な運用資産は、慎重に投資運用する必要がある。

基本的に、金融投資で、そんなに収益を上げられるはずがない。誰も、収益を上げられ続けることはないし、損し続けることもない。そして、トータルでは、あるべきところに落ち着くのだ。もし、想定以上に利益が計上されれば、それは異常なのだ。そう思って、丁度いいぐらいなのだ。金融投資は、打ち出の小づちではないことを、多くの人は再確認する必要がある。

*注

そんなことはありえないという人も多いだろう。私なら、もっと高く運用できると。確かに、海外のファンドで運用すれば、一部は可能かもしれない。しかし、外国に投資する場合には為替に影響されるし、リスク分散は必要だ。投資は、思惑の世界で、トータルでは、そんなに高い収益率を確保することは難しい。基本は、収益率は、日本銀行の政策や政策金利に左右されると考えていた方が堅実だろう。

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2012年3月28日 (水)

日本に外国産米は必要か

日本の米価が若干高くなった(*注)から、外国産米を取り入れる牛丼店や寿司店があるそうだが、そんな必要があるだろうか。震災後、米が不足しているとの言うのも疑わしい。日本人なら、国産米を使うべきだろう。企業は儲かれば何をやってもいいわけではない。

国産米を食することは、日本の自然を守ることにつながる。民主党の「戸別所得補償」政策では問題になる、兼業農家や趣味農業も、自然を維持していることに貢献していることには間違いない。それに日本の米の自給率は100%。

そこにわざわざ外国産を取り入れる必要はない。関税問題で、無理やり買わされているミニマム・アクセス米にしても、おかしな仕組みだ。政府は本来、拒否すればいい。日本で生産できなくて、海外物が優れていれば、海外から取り入れたらいいが、そうでないものを輸入する必要は全くない。

大手のスーパー(外資が入っている)も、ただ安いからと言って、米を輸入し販売しているそうだが、考え方がおかしい。流風は、これらの牛丼店(松屋)、寿司店(かっぱ寿司)、スーパー(西友)は、決して利用しない。

*注

スーパー等の店頭に並んでいる一般消費者用の米の価格は、ほとんど上がっていない。上がっているのは業務用だろう。それまで、安く買い叩いていたから、その反動が来ているのだろう。

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2012年3月27日 (火)

見栄を張らない女性

一般に、大阪の女性は、「これ、なんぼだと思う(これ、いくらで買ったと思う)」と言って、価値ある物を安く買ったことを自慢する。ある意味、現実主義で、見栄張りではない。あけすけと言えば、そうだが、価値の見定めは厳しい。よって、東京圏から来た商人は、大阪での商売を苦手としがちだ。値切りは当然だし、定価で買うのは彼女らの常識ではないからだ。

大阪での商売も、彼女らと一緒で、見栄張りは長続きしない。ちょっと儲かったからと言って、外車を買ったり、家族に贅沢をさせたりすると、たちまち事業は傾き、いつの間にか、居なくなる。こういうことは、よくあることだ。だから、関西では、ケチは美徳とされた。

見栄を張る女性は、ある意味、結婚相手としては危うい。若い男性諸君は、恋人にするのか、結婚相手にするのか、よく見定めることだ。但し、見栄を張らない女性は、結婚後、大蔵大臣となり、家計を引き締めるので、男の懐具合は、厳しくなると覚悟すべきだろう(笑)。

*追記

大阪の女性に限らず、一般に女性は、結婚すると、独身時代の思考は一変する。特に子供が生まれると大きく変わる。女から母になるということだろう。そして、お金にシビアになる。夫には経済力を求める。そのことを男は、どうも気づくのが遅れがちだ。

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2012年3月26日 (月)

花見と移ろいやすい気持ち

自宅の梅は、最近の強い雨風に負けず、けなげに、咲いている。まだ寒さが続いているので、しばらく開花の状態が続くだろう。それにしても、梅の花は、下を向いて咲くのだなあ。中には横を向いているのがあるが、上を向いているものは一つもない。

何かに耐えているようにも見える。香は、微かだが、匂う。嗅ぎ続けると、酔ってしまいそう。危ない、危ない(笑)。ひまわりのように、太陽の方を向いて咲く花もいいけれど、この時期は、じっと寒さに耐えて咲く花もいい。芯の強い女性のようだ。

ところが、梅が開花したと思えば、人々の関心は、もうすでに桜の開花の方に関心が移っているようだ。人の心の移り気は、昔からだが、これは男と似ている(笑)。小町の嘆きも仕方ない。

  花の色は 移りにけりな いたずらに

     我が身世にふる ながめせしまに

                    (小野小町)

さて、花見と言えば、お酒が付き物。日本のように、桜の木の下で、宴会するのは、世界では珍しいそうだが、日本人は、桜の花を散るのを見て、自分と重ねていると言われる。人生とは、桜のように儚い定め。まあ、それなら、一時を楽しみましょうと。

落語には、『鶴満寺』というものがある。この寺には、小町桜という有名な桜の木があったらしい。鶴満寺は、大阪市北区に、今でもあるが、桜の木は、ないようだ。落語の舞台は、江戸時代で、花時になると、境内を荒らす輩がいるので、住職は風流人以外は、固く一般には開放しないでいた。

そうとは知らない、どこぞの若旦那が、芸者衆を連れて、花見にやってくるが、寺男に断られるが、幇間が気を利かして、袖の下で、住職が不在なのを活かして、寺男に話をつけて、どんちゃん騒ぎする話。オチに、小町の歌が出てくるのだが、ここでは、これ以上触れないでおこう。後は、ネット等で調べて確認してください(笑)。

ブログのテーマ通り、移ろいやすい流風も、もうしばらく、梅の花を楽しみたい。それを応援するように、お彼岸が過ぎたのに、少し寒さが続いている。喜んでいいのか。桜が咲くのは、いつかなあ(笑)。

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2012年3月25日 (日)

肥えない馬

中国の笑い話に、次の様なものがある。

馬の飼い主が、「私の馬には、豆や粟をしっかり、やっているに、なぜ、あのように痩せているのだろうか。どこか悪いのか心配でしようがない」と。

すると、知人が忠告した。「厩番が、ちゃんと食べさせていれば、放っておいても肥えるが、きちんとやっていないと、痩せるだろう。あなたが、ちゃんと調べずに、心配だけしても意味はない」と。

馬が肥えないと心配する前に、やることがあるでしょうと言っているのだ。このことは東日本大震災の復興にも言えること。どう考えても過剰とも思われる予算は建てられても、被災者が本当に望む肝心なところにはきちんと金が回っていないケースもあるようだ。官僚が既存の法律を建前にして、現場の意見に、ことごとく反対して、やるべきことができない。官僚というのは、国の官僚も被災地の官僚もだ。

官僚というのは、どんな場合も、後生大事に法律を守りたがる。それが役目だとも言えるが、自らの目で現場の実情を知ろうとせず、使命感がないから、そういう事態を招く。がれき処理にしても、現地で時間をかけて処理すれば、被災地に金が落ちる。諸問題があっても、法律の運用に知恵を出すのが、官僚だと思うが、それができていない。

楽な方法を選べば、法律の壁を持ち出し、全国に処理を依頼すれば、運送費等も含めて、余計な金がかかる。もちろん、がれきを受け入れる方にも抵抗がある。仮に放射能汚染の問題をクリアして、焼却処理しても、埋立地がない。それを住民の反発をなだめて、無理やり頼めば、余分なコストも発生する。結果的に、被災地には、がれき保存場所も、埋立地も、広大にあるのに、金は落ちない。

その結果、誰も、いい目をしない。この「肥えない馬」の逸話を笑ってはいられない。

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2012年3月24日 (土)

漢詩『惜花』に同感

自宅では、折角、梅の花が咲いたのに、雨続き。待っている時は、晴れており、花が咲くと雨。うまくいかないものだ。人生と似ているかも。

漢詩にも『惜花』というものがある。以前にも、取り上げたのだが、少し違ったニュアンスで再度取り上げる。訓み下しは「花を惜しむ」だ。作者は不明だが、蘇軾の作ではないかとも云われる。

  花正に開く時 天晴れず

  晴るる時 満樹 緑陰成る

  蘭干に倚り遍くして空しく惆悵す

  静かに聴く 黄鸝(こうり。鶯のこと)の一声

次のように解釈してみた。

「花の開花は、人生同様ままならず、花が開く時は、雨が多く、晴れない。そして、晴れた時には、もう既に花はなく、全ての木々は、緑で覆われている。私の気分も同様で、何をやっても、てれこてれこで、ずっと欄干に寄り掛かって、気分が塞いで、無駄な時間を過ごしている。その中で、静かに鶯の声を聴いている。ああ、もう夏が来るのだろう」と。

人生にも、春夏秋冬がある。時の変化について行けず、心が晴れない時はある。だが、時はどんどん進んでいく。人間、立ち止まったり、時として後ろを見て懐かしんだりするけれど、やはり前を見て歩んでいくしかない。でも、作者の気持ちも、分らないではない。多くの人は、このようにして、時を過ごしていく。うまく行く時の方が稀なのだから。

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2012年3月23日 (金)

漢詩『晴景』を思う

今日は、昨夜か雨だ。激しい雨というより、今のところ、しとしと雨。でも、昼から激しくなると予測。だが、気温が少し高いので過ごしやすい。週末からは、また下がるらしいけれど。ただ、一時の寒さから脱したようだ。

そこで、今の状況と異なり、まだ早いが、王駕の漢詩『晴景』を思う。彼は晩唐の詩人だ。

  雨前 初めて見る花間の葉

  雨後 兼ねて葉裏の花無し

  蛺蝶(きょうちょう) 飛び来たって 牆(かき)を過ぎ去る

  応に 春色は隣家に在るかと疑ふなるべし

解釈すると、次の様に感じる。

「雨が降る前は、花の間に葉を見る感じだったが、雨が降った後は、葉の裏の花さえ、散って無くなってしまった。蝶々も、一旦、飛んできたが、花がないと見ると、さっと垣根を越えて、行ってしまった。ああ、春は、隣の家にあると思ったのだろうか」と。

春が過ぎ去ってしまった感懐を詠んでいるようだ。こういうのは、「惜春」というのだろうか。今年は、春が遅いので、春が短いような気もする。しばらくすると、このように惜春の気持ちになるかもしれない。

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2012年3月21日 (水)

漢詩『笋(たけのこ)』から考える

事業は人なりとは、よく言うけれど、よき人材が構築したビジネスも、彼が何らかの事情で、手を引くか、後継に譲るとか、もしくは亡くなると、往々にして事業の性格が変わってくることが多い。そして、彼に集まっていた人材も離散することが多い。

漢詩『笋(たけのこ)』にも、そういうことが詠われている。筍も、そろそろ初物が市場に出回る頃だろうが、今は高い。流風が手にするのは、まだ先のことだろう。ところで、作者は、王元之で、北宋の人。

  数畝の春畦(しゅんけい)  独歩して尋ぬ

  犀を逬(はし)らし錦を抽きて矗(ちく)にして森々

  田文死し去りて賓朋散ず

  放擲す 三千玳瑁(たいまい)の簪

いつものように解釈すると、次の様になるだろうか。

「春になったので、里の畑に、一人で、筍を探しに行ったところ、土を犀の角が、突き出したように、あちこちに集まっていた。この様子は、かつて斉の最小になった孟嘗君が、食客を各地から異才を集め、三千人を抱えていたが、彼の死後、彼らは散り散りにになり、(いかに孟嘗君から認められているかを示す)鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)を、もう意味がないので、放り捨ててしまったようにも見える」と。

犀の角と筍は似ていると思うけれど、鼈甲色の簪と筍は、似てるかな。色は似ていると思うけれど。それはともかく、後半の部分の、孟嘗君の食客が、彼亡きあとは、散り散りになってしまったことを言っている。武田信玄も、癖のある多様な人材を採用したが、彼が亡くなると、後継者(勝頼)は、彼らを活用できなかった。人は人につくということだろう。そう考えると、事業は一代限りともいえる。受け継ぐ者は、覚悟がいる。

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2012年3月20日 (火)

これからの中小企業の重点課題 その四 内外ネットワーク化

今回は中小企業のネットワークについて触れてみよう。すでに先進的な中小企業は国内外にネットワークを張って、ビジネス化しているので、蛇足的になるが、一応記しておく。

さて、今までの中小企業製造業は、大手の下請けにしろ、独立系にしろ、国内での対応で済ませてきたが、現在は、最早、それだけでは生きるのは難しい。

中小企業の規模にもよるが、自社を核として、ビジネスを展開する意識は、より強くしていく必要がある。それは縦糸というより、横糸のネットワークの核になることを目指したいものだ。そして、ネットワークを内外に張っていく。

そのためには、自社の存在価値を明確にする必要がある。その上でのネットワークでないと、つまずく恐れがある。つまり、以前から言われてきたように、内外の市場を睨みながら、存在価値という強みを活かした高付加価値化を目指す必要がある。

それには、企画、開発、デザイン、試作、量産企画が必要である。何も、最初から担当者を張り付ける必要はない。最初は、トップが何もかも手掛ける必要はある。また外注するにしても、単に安いから、外注する思考では成果は期待できない。共同で事業を拡大して、成果も分け合う発想が必要だ。

そして、国内のネットワークの協力工場の更なる開発は求められる。それは海外の協力工場とは、当然、生みだされる価値が異なるようにすべきだろう。ただし、それを固定的に考えず、変化流動することを前提として、役割変化を組み直していくことが大切だ。

今後の市場変化は激しいということを前提にして、柔軟にビジネスを再構築していかなければならないということを意味している。よって、ネットワークの人たちとの共通の思いを日頃から一致させておくことが大きな成果を生むことになるだろう。そのためには、日頃から共通の志と共に、密なコミュニケーションが求められる。

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2012年3月19日 (月)

漢詩『探春』を鑑賞

今朝は、春風を思わせる風だ。確かに少し寒いけれど、間もなく春の到来を感じさせる。家の梅は、まさに蕾が開かんとしている態勢。後は時間の問題という感じ。さて、今回は、詩吟にも詠われる、戴益の『探春』を取り上げてみよう。戴益については、宋代の詩人らしいが、その他のことは、よく分かっていない。この詩は、場所にもよるが、今の時期にぴったりと思う。

  盡(じん)日 春を尋ねて春を見ず

  杖藜(じょうれい)踏破す 幾重の雲

  帰来 試みに梅梢を把って看れば

  春は枝頭に在りて已(すで)に十分

いつものように、蛇足的に解釈すれば、次の様になるかもしれない。

「春を尋ねて、アカザを乾かして、できた杖を使って、朝から晩まで、山々を越えて、あちこち歩いてみたけれど、春らしい兆しは、残念ながら見つからなかった。ところが、家に帰って、ふと、梅の梢を掴んで見ると、何と、枝先には、蕾を膨らまして、春の息吹を十分感じさせるように、まさに咲かんとしているではないか」と。

これは何を言わんとしているのか。まあ、幸せというものは、足元にあるということだろう。人間、あくせくして、幸せを求めるが、案外、身近なところにある。でも、こういうことは、あくせくした結果、わかること。他者から教えられても、人間、経験しないと、なかなかわからないもの。そこに人間の哀しさがある。

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2012年3月18日 (日)

どのような政策が追加消費を生むか

現在の日本は、需要不足と言われるが、一般的な生活消費に加えて、どのような消費が日本を活性化させるのだろうか。省エネ車に対するエコポイントとか、省家電商品に対するエコポイントは、確かに部分的には有効な政策ではあったが、需要の先食いで、結局、それらの産業分野を弱体化させる政策ではなかったか。

自動車、家電産業は、国内市場では飽和状態にあり、量的な期待は、しばらくできそうにない。そんなところに、国の予算を振り向けたのは、どう考えても麻生政権から続く愚策であろう。

それでは、今後の日本市場には、どの分野を振興すべきなのか。確かに、ボリュームゾーンの高齢市場を当てにした健康分野、医療分野、介護分野は大切であろう。しかし、この分野は、今後、今以上に進展する可能性は少ない。もちろん、きめ細かなサービスと言うミクロの面では、今後も、いろんなビジネスが考えだされるだろうが、新規性は薄い。

となると、それ以外の分野の開発と言うことになる。基本的に人口移動を積極的に、後押しすることだろう。人の移動は、移動する方も、受け入れる方も脳を活性化させるので、トータルで国を活性化させる。

今、東京圏には、大地震が予測されており、実際に起これば、その被害は東日本大震災の比ではない。そのことほ踏まえても、人口の分散政策が急がれる。現在、大阪では「大阪都構想」があるが、これだけでは心もとない。

それは大阪も都市圏だからだ。大阪にも、大災害が起こらぬ保証はない。東京圏の様なリスクは抱えなくても、それなりにリスクはある。だから、危機を考えて、もっと他の地域へも人口を分散させる必要がある。

ところが、人は、自然災害を予測されても、一般に危機感は薄いものだ。よって主体的には動かない。人は、住み続ければ、住めば都というように、そこが「都」になる。基本的には、以前から主張しているように、都市圏からの地域への税制も含めた人口移住政策が大きなポイントになる。

そうすれば、人口の地域移住促進関連ビジネスが発生する。この経済波及効果は甚大だ。地域に、新しい「血」と「知」が持ち込まれることにより、活性化するのだ。それは住宅・設備関連、教育関係(*注)、旅行関係、地域再開発関係、地域エネルギー、交流関係、婚姻関係、農業・林業・漁業の再生、祭り文化関連ということなるかもしれない。

*注

特に大学関係は、都市から地方に移すことを急ぐ必要がある。もともと、都市部は教育環境としては相応しくない。海外の教育機関も、多くは田舎にある例が多い。

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2012年3月17日 (土)

蓼食う虫も好きずき、と言うように

以前にも記したが、世の中のカップルは、たまに美男美女もいるが、そうでないケースが圧倒的だ。なぜそうなるのかは、分らない。多分、磁石のように、同じ極には反発するか、敬遠するのかもしれない。

まあ、美女は、周囲から、若い時から、ちやほやされるから、男から大事にされるのを当たり前と思っているから、段々、鼻についてくる。美男も、美女ほどではないにしろ、そういう傾向があるかもしれない。そして、彼らはお互い、敬遠するようになる。

よって、近づいてくるのは、アプローチに失敗しても、どんまいと思っている普通の異性が、こまめさを活かして、寄ってくる(笑)。そして、そこでは会話が遠慮なく成立するから、カップル成立という可能性が高くなる。それが世の中の男女の塩梅というものだ。結果的に、蓼(たで)食う虫も好きずきとなる。

要するに、何が言いたいかと言えば、男女は自然体で通じる相手が一番いいということ。あまり変な妄想や憧れで、現実を忘れないことが、よい結果を招く。これは美男美女も同じこと。最後に、万葉集に、そのようなことを詠んだ歌があるので、挙げておく。

  うましもの いずくか飽かじ 尺度(さかと)らし

      角のふくれに しぐひ合いにけむ

       (万葉集、三八二一番)

児部女王(こべのおおきみ。どういう人かは不明)が、ある娘が、美人であるのに、高い身分の男前の男には、身を許さず、身分が低くて、太っちょの男に身をまかしたのを嘲笑って、詠ったものということだ。でも、案外、児部女王も、同じようなことをしているかもしれない。第三者の評価というものは、そうしたものだから。世の中の男女の組み合わせは面白い。醜男でも醜女でも悲観することはないようだ。

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2012年3月16日 (金)

カメの働き

ウサギとカメの童話があるが、流風の若い時の働きは、まさにカメの働きだったと思う。のみこみが悪く、段取りが悪かったと思う。周囲がさっさと要領よくこなすのに、ついていけてなかった。その割に、ミスも多かったと思う。その時、自分が情けなくなったことは度々だ。

だから、決められた仕事量をこなすには、昼休みの時間を削るか、残業でこなすしかなかった。時々、同僚や先輩から、ぶつぶつ言われながら手伝ってもらったこともある。このことは、今でも同じで、昔よりはましだが、大体、ルーチン業務のようなことは苦手である。

よく考えてみると、ルーチン業務というのは、他者が考えだした業務プロセスで、どうも、それをそのまま呑み込むことができない、ひねくれ者であることが原因だろうと、最近は理解している(笑)。

だから、自分に合うように、試行錯誤しながら、新たにプロセスを作っていくのが好きで、苦労は多いが、後年、そのような仕事を任された。不思議と周囲には、ルーチン業務が得意な人がいるもので、何とかなったと思う。

でも、結局は、ウサギにはなれなかった。頭の方はあせっても、ウサギにはならず、カメのままである。それは人生そのものである。そして、いつも、「ウサギとカメの童話」に慰められている。

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2012年3月15日 (木)

原発再稼動はありえない

政府は、財界や電力業界からねじ込まれたのか、原発再稼働に、傾くような発言をしている。しかしながら、福島原発事故問題は、基本的に何も解決しておらず、再開はありえないだろう。まず、国や研究者がやるべきことは、原発廃炉技術の確定であり、使用済み核燃料の処理技術の確立である。そのことなしに、再開は許されない。

福島原発事故で、日本は世界に恥をかいたのであり、そのことをもっと反省しなければならない。原発事故を活かして、次のステップに活かすという首相の発言は分るとしても、その技術が未だ開発されていない現状、原発の再開はありえない。政府は、中途半端な態度をとるべきではなかろう。

また電力不足が叫ばれるが、実際、現状でも、間に合っており、原発がなくても、国民生活には支障がない。更に、電力をたくさん使用する重厚長大産業は海外に出ていくし、自動車・家電産業の多くも、海外への展開は避けられない。よって、産業面での電力需要はこれから低下していく。

生活面での電力需要も、そんなに多くない。現状、問題がないのに、電力会社は騒ぎ過ぎ。更に、省エネ商品の普及や太陽光等自然エネルギーの導入、あるいはガス等への代替で、十分賄われる。もっと言えば、温度が一定の地中熱の利用の普及が進めば、冷暖房機器での電力消費は、ほとんど最小限に抑えられる。よって、電力需要は、更に減っていく。人口が減れば、もっともっと減っていく。

このように見ていけば、原発再稼働なんて、必要がない。これだけ、国民に迷惑をかけておいて、未だ再稼動しようとする考えには、何か裏があるのではと疑いたくなる。国は、もっと国民生活を考えて、行動してもらいたいものだ。

また、電力会社は、原発抜きで経営を考える必要がある。それができないのなら、現経営陣を一度、戦後のように、パージ(追放)して、まだ柔軟な発想のできる改革派の40代に経営を委ねるべきであろう。

*平成24年4月3日追記

政府が原発再稼動を指示すれば、野田政権は崩壊するだろう。更に消費税増税は成立せず、国債は下落し、株式市場も暴落する。自民党も、元首相の安倍、麻生は、再稼動をやるべきと主張するが、原発を推進してきた自民党に何の反省もなければ、政権復帰は遠のく。

原発再稼動は、原発の使用済み核燃料の処理の研究が進んだとしても、今後最短でも20年間はありえないということを覚悟しなければならない。そして、その時には、原発は、通常発電施設ではなく、あくまでも非常用電力施設として残すぐらいだろう。政府は、電力会社の喧伝に乗らないことだ。この夏も、原発抜きで、電力不足することはない。

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2012年3月14日 (水)

江戸時代の学問所『申義堂』に行く

最近は、政治塾が流行りのようだが、果たして、彼らに教養という基本的素養が備わっているかどうかが問われる。それは学習塾も同様だ。諭吉も言っているように、そもそも学問に向いていない子供に、無理やり無味乾燥な知識を学ばせても、意味はない。それより、人間として、どうあるべきかを教えた方がいい。

それでは、江戸時代の塾は、どのようであったのだろうか。江戸時代文化年間に高砂(現在の兵庫県高砂市)に創立された学問所「申義堂」が復元されたということで行ってきた。一辺が約8メートルの四角い建物で、奥の間と座敷よりなっている。座敷は20畳で、正面玄関に縁側がある造り。正面玄関の屋根に、飾瓦六角露盤が葺かれている。

この建物は、明治時代に廃校になり、加古川市に移転し、転々と、その役割を果たしていたが、平成2年に、「申義堂」であったと発見確認され、粗末な形で、高砂市に解体移転された。それを寄付金を原資(株式会社カネカが寄付)に、平成24年1月に復元したものたらしい。

この「申義堂」は、姫路藩の財政再建をしたことで有名な家老河合寸翁(かわいすんのう。1767-1841)の命により、高砂の年寄であった岸本吉兵衛が私有地と建物を提供したもの。藩の補助はあったものの、運営も町民主体であった。目的は、町民のための教育機関だった。その結果、いわゆる郷学として、人材が育成された。

内容は、「四書」、「五経」、「史書」等、中国の古典をベースに、招かれた教授たちが、子供たちに読み書きと共に教えていた。すなわち、人として、どうあるべきかということに主眼が置かれていた。

ただ、対象の子供たちは、生活に余裕ののある子弟で、全ての子供が対象になったわけではない。しかしながら、当時のことを考えれば、これは致し方ないことであった。今は誰でも学べるが、学びたくても学べなかった子供たちがいたことを考えると、現代の子供たちは、何と幸せなことか。

教授は、地元高砂から、菅野松塢(すがのしょうう)、三浦松石、美濃部秀芳らであった。なお、美濃部秀芳は、「天皇機関説」を唱えた憲法学者美濃部達吉の父親である。そして、大人も子供に交じって、大人も学んでいたという。

毎日、午前中の授業で、ほとんど休みはなかった(休みは、元旦五節句と、5日、15日、25日のみ)。教える方も、真剣であっただろうが、教えを受ける子供たちも真剣であっただろう。それは教授たちを尊敬し、教える方も、何とか彼らを一人前の将来のリーダーにすべきかに、一念が置かれたことだろう。教育には、教える方の使命感と、教えを乞う方の真摯さが求められる。

*参考

公開日は、土日・祝日の午前10時から午後4時まで。入館は無料。ただ平日も10人以上で利用日の2週間前に申請すれば可となっている。申請先は高砂市教委文化財係(079-448-8255)。

交通は、山陽電車、高砂駅下車、南に行き、「北本町の交差点」を西に行き、二筋ほどを越えると、ややいり込んでいるが、寺が並んでおり、大きなお寺「十輪寺」があるので、更に行くと左手側にある。駅から歩いて10分程度。なお、近くの十輪寺には、美濃部家の墓がある。また、この周辺は、桜が美しいようだから、そのような時期に訪れるのもいいかもしれない。

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2012年3月13日 (火)

現代高齢者のファッション

街を歩いていると、明らかに定年を迎えた後の、高齢者と思しき人々が、あちこちに見られる。行き場を失っているように見える。その中で、溌剌とした人は、あまりいないように思う。若干、ぼんやりと一日を過ごしているのではないかと思われる人が目立つ(*注)。

やはり、高齢者になっても、何か、役割を持って、生活するのがいいのだろう。昔は、孫の世話で忙しいと言う人が多かったが、今は別世帯で、同居は少ないから、何か別の生きがいを見つけないと、心の張りが無くなって、しょぼくれてしまう。

特に、男の場合は、仕事を離れると、生きがいを見失ってしまう人が多いようだ。現在、定年を65歳に延長しようとする動きがあるが、あまりよい政策とは思えないが、老後も何らかの形で社会と関わりを持つような仕組みは必要だろう。

多分、そのような役割を持てば、姿勢もよくなり、彼らのファッションも生き生きとしてくるのだろう。ただ、眼の生理的限界から、ファッションを自ら選ぶ能力が落ちてくる。よって、第三者の目で、彼らのファッションをコーディネイトしていくことも大切だろう。

でも、ファッションは、まず身につける人の心の問題だ。生きがいを何にするかが、まず問われる。

*注

もちろん、元気な高齢者は多いのも確かだが、平日の昼間に、街をうろつくことはない。彼らは、仕事に遊びと、どこかで活動している。

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2012年3月12日 (月)

『平清盛』展の図録に感心

神戸市立博物館で、『平清盛』展が開催されている。それを先日、観覧してきた。現在、放送されているNHKの大河ドラマ『平清盛』の関連企画だ。「2012年 NHK大河ドラマ50年 特別展」と銘打っている。観覧していくと、ドラマの解説展とも見ることができる。このような予備知識があれば、ドラマの展開が、よく分かるかもしれない。

普通の展覧会とは、幾分異なり、各所に映像が映し出されている。解説は分りやすいから、立ち止まる人も多かった。通常の美術展でも、映像はあるにはあるが、1か所程度が多いから、それに比べると多い感じだ。今後の展覧会の方向性を示しているかもしれない。

というのは、展示されているものは、細かく見ることはできない。音声での貸出解説もあるにはあるが、全ては解説されない。結局、図録で、内容を知ることになるのだが、再度確認するためには、また美術館なり博物館に訪れる必要がある(*注)。ところが、映像で、それが解説されていれば、ある程度、展示内容を理解できるから、そういうメリットはある。

さて、図録を買い求めたところ、非常に分りやすく解説してある。平家を取り巻く人物の紹介や系譜関連図、平家の興亡の流れなど、『平家物語』だけでは分からないことが、詳細に記されている。更に、NHK的に?、スポット的に、「平氏ニュース」とか「クローズアップ」とか、少し笑えるような工夫もある。それを美術の視点で、捉え直して、整理してある。だから、一般人でも分りやすい。

美術関係者は、このような図録を目指して欲しいものだ。長たらしい、専門家の解説・評論は少なくして、この図録のように、作品の時代背景、作者の人間関係、作品の解説に重点を置けば、読みやすいし、読み物としても成立する。

図録を専門家の自己満足ではなくて、購入するのは多くは一般人だと思って、興味を持ちやすい内容にすれば、図録は、もっと受け入れられるだろう。図録にマーケティングの観点を取り入れて、多くの人に読まれる「読み物図録」として取り組んでもらいたいものだ。

*注

ただ入場料は馬鹿にならないから、再訪は、ためらわることが多い。この辺は、なんとか工夫してほしいものだ。

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2012年3月10日 (土)

これからの被災地の支援とは

東日本大震災が起こって、1年が経つ。今回の特徴は、被災地が広域にわたっていることだろう。そして、多くの死者を出したことが悲惨さを大きくしている。それに福島原発事故が重なり、被害額が大きくなっている。それに伴い、義援金の額も4400憶円を超えている。これは日本では、初めてのことだろう。阪神淡路大震災では、ここまで集まらなかった。

ただ、今も義援金の募集がかけられているが疑問が多い。そもそも義援金は、一時的な掴み金に過ぎない。被災者も、いつまでも、このような金には頼れない。一部では、義援金の取りあいが、家族間で起こっているという悲しい話もある。過度の他者からの施し金は、人間関係を悪くする(*注)。

ボランティアにしても、過剰なボランティアは、地域の自立するのを遅らせる。本来、ビジネスでやるべきものをボランティアでやってしまうと、いつまでも経済は回らない。つまりボランティアからビジネスに転換させないと、被災地の活力を生まない悪循環になりかねない。各地の被災の規模にもよるが、義援金やボランティアは、どこかで切らないといけないだろう。

また、国の支援にも限界がある。政府は、過剰なほどの予算組をしているが、被災自治体は、それ以上の予算を要求している。一部には、各省ごとの、不要不急のたかり予算が含まれているらしい。阪神淡路でも、そうであった。所謂、「震災太り」と言われるものである。

被災者とは全く違った視点で、復興予算が計画されるのは、よくあることだ。本当の「民」への支援は限界があるから、結局、官の予算はインフラへの支援に限定される。けれども、皆が騒ぐから、各省ごとに必要以上の予算組がされるため、トータルで金が余ってくる。そこで、復興とは直接関係のない不要不急の事業が計画されるようになる。ほとんどが被災者とは関係のない事業だ。それが優先されて、却って、本当に必要な事業に、人手が回らなくて、必要な復興が遅れがちになる。

そのことを精査すると、いろんな攻撃を各所から受ける。復興大臣が、攻撃されていたが、「復興」と名がつけば、「復興」の名の下に、全ての事業が大義名分化されやすい。マスコミも、それに同調するから、たちが悪い。基本的には、国や行政の支援には限界があると知るべきだろう。過剰に期待してはならない。

であれば、被災者を支援するために、何をすべきなのか。基本的には、民間で民間を「ビジネス的に」支援するしかないと思う。被災地で作った商品を購入するのも、いいが、もっと深いところで、ビジネス支援する必要がある。すでに、そのように活動されている分野もある。

例えば、コットンプロジェクトを実行した大阪の靴下会社の社長も語っておられたが、被災者が立ち上がれる支援を、顔が見える形でやるしかないのだろう。彼は、被災農家に塩水で農業ができない田んぼに、塩に強い綿を作らせ、その綿を使って製品を作る輪を作って、活動されている。

あるいは、岩手のNPOが、広告代理店の機能を果たし、漁船の船主と企業とをつなぎ、船に企業の名を載せて、広告に役立て、そのかわり、お金の支援をするというのも、いい方法だろう。企業側は、広告費として経費で落とせるから、やりやすい。この方法は、その他でも展開が可能であろう。

私たち一般は、一概に義援金が悪いとは言わないが、これからは、より一層、顔の見える支援を心掛けたいものだ。そうすることで、具体的に被災者が元気になっていく顔を見ることができれば、応援する方も嬉しい。マスコミ等は、そのような応援プロジェクトについて、積極的に、参加方法と、それに伴うプロセスと結果を報道してほしいものだ。

*注

義援金の使途は、被災者の自由とはいうものの、ストレスからパチンコ通いに使われたり、義援金を利用して高価な仏壇や車を買ったと聞かされると、寄付をしたものとしては、若干、嫌な感じがする。

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2012年3月 9日 (金)

漢詩、岑参の『韋員外家花樹歌』を読む

今回は、岑参(しんじん)の『韋員外家花樹歌』を取り上げてみる。読み下しは、「韋員外家の花樹の歌」ということになる。岑参は、節度使の幕僚が長かった人。

  今年の花は去年に似し好し

  去年の人は今年に到りて老ゆ

  始めて知る 人は老いて花に如かざるを

  惜しむべし落花 君掃うこと莫かれ

  君が家の兄弟 当るべからず

  列卿 御史 尚書郎

  朝より回れば花底に恒に客を会す

  花は玉缸を撲(う)って春酒香(かん)ばし

解釈を示すと、次のようになるだろうか。「今年の花は、去年同様、美しい。しかし、去年、その花を見た人は、今年は、歳を一つ重ねている。人は、そのように老いるのに、花は、毎年、美しい花を咲かせ、人は、とても花には及ばないことを、今更になって気付く。そう思うと、散りゆく花を惜しんで、君よ、掃除をしてくれるな。

ところで、君の家の兄弟には、とても太刀打ちできない。皆さん、列卿、御史、尚書郎という立派な地位に遇せられている。皆さんが朝廷より帰られれば、花が咲いている下に客人を招いて、宴会が開かれる。花は卓上の酒甕に落ちて、春の酒をより芳しくすることだろうよ」。

要するに、韋員外の人々を、羨望の目で称えたものだろう。多分、韋員外の人々は、岑参より若い感じがする。ただ、落ち花は掃除しないと汚くなる。その辺に、「落ちて行く人々を見捨てないで、私達は、あなた方の引き立て役に役に立ちますよ」というような裏の意があるような気もする。そうであれば、少し、卑下のポーズが強すぎる気がするなあ。でも、サラリーマンの悲哀と通ずるものがある。

*参考 出典『唐詩選』

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2012年3月 7日 (水)

漢詩、高適の『田家春望』

やっと温かくなり、少し春めいてきた。春一番らしい風が、吹いている。間もなく本格的な春になるのだろう。そういうことで、今回は、漢詩、高適の『田家春望』を取り上げてみたい。高適は、唐の時代に活躍した詩人だが、本格的に、詩作を始めたのは、五十代に入ってからと言われる。それから名を上げたのだから、大したものだ。

それは、彼のそれまでの様々な歩みで、培われた人生観が詩作によい影響を及ぼしたのだろう。文名が上がって、後、杜甫や李白と交流している。その彼の作った詩作の中で、『田家春望』は、その題の通り、春に関するもので、彼が田舎にいた時、その孤独さを詠ったものだ。

  門を出でて何の見る所ぞ

  春色 平蕪に満つ

  歎ずべし 知己無きを

  高陽の一酒徒

解釈としては、前半は、「田舎にいるので、門を出ても、見える物は春始めなので、ただただ、野原に若草が萌え出ているだけである。それ以外、何もない」と言っている。そして、後半に続く。「それゆえ、私を理解してくれて、一緒に語り合える人は誰もいないのは、嘆かわしいことだ」と詠っている。確かに、田舎暮らしは、そんなものだろう。それを楽しむつもりでないと、辛いものだろう。

ちなみに、「高陽の一酒徒」とは、ある者が漢の高祖に会見を申し込んだところ、取り巻きの者が、会わせてくれない。その理由は、儒者だからと言う。そこで彼は、「吾は高陽の酒徒なり、儒者にあらざるなり」と言って、怒鳴りつけたという。彼とは、後、高祖の軍師になる酈食其(れいいき)だ。その逸話から、高適も、なぞらえて、自分を理解してくれる人は周囲に誰もいないと嘆いている。

人間、誰しも、理解者は欲しいものだが、あればあるで、鬱陶しいもの(笑)。人間とは、わがままなものだ。果たして、この詩が晩年の高適の真意かどうか、分りかねるが、一つの思いであることは確かだろう。でも、理解者はいなくても、別にいいよ、と達観しているようにも読み取れる。のんびりと田舎生活を楽しんでいると。

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2012年3月 6日 (火)

お金の運用にも休みが必要

年金基金の運用が問題になっている。旧社会保険庁のOBの天下りも問題だが、そもそも彼らが運用のプロでないことだろう。お金の運用は自分のお金でも難しい。ましてや、他者から預かった、お金の運用となると、より神経を配った運用が求められるのに、それをしていない。

むしろ、投資顧問会社(*注)とぐるになって、おかしな運用をして、大きな穴をあけている。これらの被害は、この投資顧問会社に委託していた年金基金だけでなく、多くの厚生年金基金の対象者にも及ぶ。そもそも運用担当という仕事を簡単に受けてはならないだろう。

また、この投資顧問は、高い収益率を求めて、博打のような投資を次々として、回収できなくなったわけだが、投資する人は、これを他山の石として、心しなければならない。

さて、いささか前振りと論点が若干異なるが、本題に入ると、江戸時代の投資の神様、本間宗久の言葉を紹介しておこう。彼は投資に休みが必要と説いている。

  商い利運に当たれる時、まず大概に致し、取りとどまるものなり。

  その節一両月休むべし。

  この休むことを忘るる時は、何程利運に向きても、

  商いの仕舞の節は、かならず損失出づべし。

投資して、儲かって、すぐ再び投資する人がいるが、多くは、損失を出している。売って利益を出した時は、相場はてっぺんのことが多いから、そこで新たな投資をすると、相場は下落して、損失を出す。当たり前のことだが、人は、利益を出すと、そこで気分が高揚して、往々にして、また再投資しがちなのだ。彼は具体的に説を続ける。

  勝におごり、百両の利は二百両取る気になり、

  千両、二千両と気移り、欲に迷うて見切り兼ね、

  ついには大損をこうむる確かなり。

  これ欲より出でて迷うが故なり。

要するに、あまり欲深い人は、投資の運用者には向かないと、彼は指摘している。そもそも、お金の運用で、そんなに利益が出ること自体、おかしいのだから、年金運用にしても、企業の財務運用にしても、あるいは個人の資産運用にしても、欲深い人は、投資に向かないのは明らかだ。面白くはないかもしれないが、客観的に市場の動きを見て、淡々と投資・回収する人が、投資の担当者として相応しい。

*注

この会社の社長は野村証券の出身。大手だが、昔から何かと問題の多い証券会社だ。強引な営業に泣かされた顧客も多いと聞く。また別の事件では、信託銀行に増資の情報を流した社員が問題になっている。多分、これらのことは、昔から先輩社員が行い、通例になっていたのだろう。

一旦、解体し、社風を改めないと、よくならないかもしれない。こういうことを放置し続ければ、日本の資本市場は信頼されなくなる。ただし、海外の市場も、そのやり方は巧妙だが、インサイダーが横行しており、世界の資本市場自体、怪しいとも言える。

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2012年3月 5日 (月)

財政再建か、経済上げ潮か

民主・自民両党の財政再建派と(経済)上げ潮派による両党内のそれぞれの路線の違うグループの存在が、混乱に拍車をかけている。財政再建派は、社会保障体制の維持には、消費税増税が必要と考え、上げ潮派は、歳出削減と経済成長による税収増で対応できると考えている。

そこで、その政策の党内のねじれを解消するため、よく出てくる議論が、政界再編成だが、残念ながら、単純に、それで解決できる問題ではない。

それに両者の論点を見てみると、まず財政再建派は、国内の経済の成長については、やや論点が甘い。市場をアジア市場に拡大するのはいいが、国内の新事業をどのように育成し、リードしていくのかが、あまり見えない。

どうも財政再建にウエイトが、かかり過ぎている印象がする。それを消費税増税反対派が牽制するのだが、その真意を測りかねている風である。確かに消費税の5%アップは必要で、その他の税制の改革も必要なことは確かなのだが、経済をどうするかが、若干弱い。社会保障が大切なことは確かだが、それは経済とリンクしていることを忘れてはならない。

また上げ潮派と言われる人々は、歳出削減と言うが、具体的な手法は明らかにされていない。一部、マスコミ等から漏れる情報では、それを断行するには法律の改正等で時間がかかる。日本は、今、そんな悠長なことをやっていられる状態ではない。それに法案が通るかどうかも現在の政治状況では、不確かだ。不確かなものに依存するわけにはいかない。

それに経済成長と言うが、財政状況が厳しい折、どのように成長させていくのかも不明確である。金融政策は、やっと日本銀行が1%のインフレ目標を設定したが、それだけでは、経済状況は改善しない。また仮に経済成長させるための手を今打っても、税収が上がるのは、かなり先のことになる。日本の財政状況は、そこまで果たして、もつのか。

このように考えると、つまり、国は、財政再建のため、現状の社会保障維持のため消費税5%の増税もしなくてはならないし(*注)、同時に歳出削減と経済の成長も目指さなくてはならない。両者の意見は、それぞれに言い分があるだろうが、両方とも目指さなくてはならないことを認識してほしいものだ。

*注

但し、5%の消費税増税には、賛意を示せるが、それ以上となると、民主党の社会保障改革案に、必ずしも賛成できない。また、これに代わる野党の案も、現状見えない。

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2012年3月 4日 (日)

送別の漢詩『春夜、友人に別る』

最近、大学の秋入学が騒がれているが、日本は、春がスタートするに相応しい。国際化に合わせることも大切だが、単なる迎合なら、あまり意味はない。大学の国際化は必要だが、あまりビジネス中心に考えるのも、どうかと思う。

さて、そのことはさておき、春は新しい出会いと共に、別れの季節でもある。それを題材にした漢詩は多い。今回は、その中で、『唐詩選』に載っている陳子昂(ちんすごう)の「春夜別友人」を挙げておこう。訓み下しでは、「春夜、友人に別る」となる。

  銀燭 青煙を吐き

  金尊 綺筵に対す

  離堂 琴瑟思い

  別路 山川繞(めぐ)れり

  明月 高樹に隠れ

  長河 暁天に没す

  悠々たり洛陽の道

  此の会 何れの年にか在らん

蛇足の解釈としては、次のようになるかもしれない。

「銀色の燭が放つ火の光は、青い煙を吐いている。それに照らされて金色の酒壺は、華麗な宴会の前で、見事に美しい光を放っている。送別の宴会が開かれている部屋では、琴や瑟を使って、別離の曲が奏でられている。これから君が行く道々には、多くの山河があることだろう。今、明月は落ちかかり、高い樹に隠れて見えなくなった。天の川も、とうとう、夜明けの空に姿を消してしまった。洛陽までの道程は遠い。ああ、このようにして、君と、再び、見(まみ)えるのは、いつのことになるのだろうか」

陳子昂は、富豪の生まれだったが、彼らにありがちだが、少年の頃、ぐれて、任侠の世界に憧れ、博打にのめり込む。しかし、郷里の学校に入り、更生し、学問に励んだという。この詩の友人が誰であるかは分っていない。

3月には、卒業して、進学したり、あるいは就職したりして、多くの人が別れを迎える。社会人も、転勤等で、親しい同僚と別れがあるかもしれない。会うは別れの始めなのだ。しかし、新しい出会いもあることは確かだ。人生に於いて、それは仕方ない。

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2012年3月 2日 (金)

現役時代、どれくらいの貯えがいいか

このブログでは、色々記しているので、矛盾を感じる若い人もいるかもしれない。だが、全て、流風的には、真実であると思っている。今回取り上げるのは、現役時代の貯えが、どれくらいが、いいか考えてみたい。

今の世の中、一寸先は闇、何が起こるか分らない。でも、流風の若い時代も、同様に、そのように思っていた。時代は変われど、明日のことはいつも分らない。となると、賢明な若者は、将来に備えようとする。それは望ましいことだ。

だが、若い時に貯蓄に励むのはいいが、あまり無理をして、若い時にしかできないことを経験しないのもどうかと思う。だか、遊び呆けて、貯蓄もせず、ラテン系の人々の生活を送れば、未来はない。そうすれば、危機に対応できない。

やはり、将来への備えは必要だ。では、どうすればいいかというと、先人の教えでは、三年分の生活費分を貯蓄しておけ、ということになる。何らかの都合で、仕事を失っても、三年あれば、覚悟を以て、次の仕事にあたれる(*注)。仕事を失って、貯えがなくて、すぐ自分に合わない仕事を選択すると苦労も多い。

世の中、捨てる神あれば、拾う神あり。それが世の中の仕組みだ。だから、いつも自分の行いは、常に天から見られていると自制すれば、何とかなる。新しい道は必ず与えられる。そういう気持ちで、将来に備えて、三年分の生活費を貯えて欲しいものだ。

*注

企業側の事情等で、余程のことがない限り、就職した企業を早期に辞めることは、ロスが多い。転職成功者は少ないということも一つの事実だということを踏まえて考える必要がある。

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2012年3月 1日 (木)

益軒の倹約論

貝原益軒も倹約論を述べている。

「財を用いるに、心を用うると、用いざるとによりて、財の費の多少、はなはだ異なるものなり。よくよく心を用いて無用の用を省き、慎みて約なるべし。おろそかにして多きを用うべからず」

特に解説はいらないと思う。文中、「約」とは「倹約」ということ。今、ここに、お金を使うことか本当に正しいか、よく吟味して、お金を使う習慣は大切だ。倹約と言うと、地味で暗い感じを与えるが、決してそうではない。将来を見据えて倹約することは、未来を明るくする。そして、若い人は、倹約精神があれば自立心も養われる。

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