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2012年3月14日 (水)

江戸時代の学問所『申義堂』に行く

最近は、政治塾が流行りのようだが、果たして、彼らに教養という基本的素養が備わっているかどうかが問われる。それは学習塾も同様だ。諭吉も言っているように、そもそも学問に向いていない子供に、無理やり無味乾燥な知識を学ばせても、意味はない。それより、人間として、どうあるべきかを教えた方がいい。

それでは、江戸時代の塾は、どのようであったのだろうか。江戸時代文化年間に高砂(現在の兵庫県高砂市)に創立された学問所「申義堂」が復元されたということで行ってきた。一辺が約8メートルの四角い建物で、奥の間と座敷よりなっている。座敷は20畳で、正面玄関に縁側がある造り。正面玄関の屋根に、飾瓦六角露盤が葺かれている。

この建物は、明治時代に廃校になり、加古川市に移転し、転々と、その役割を果たしていたが、平成2年に、「申義堂」であったと発見確認され、粗末な形で、高砂市に解体移転された。それを寄付金を原資(株式会社カネカが寄付)に、平成24年1月に復元したものたらしい。

この「申義堂」は、姫路藩の財政再建をしたことで有名な家老河合寸翁(かわいすんのう。1767-1841)の命により、高砂の年寄であった岸本吉兵衛が私有地と建物を提供したもの。藩の補助はあったものの、運営も町民主体であった。目的は、町民のための教育機関だった。その結果、いわゆる郷学として、人材が育成された。

内容は、「四書」、「五経」、「史書」等、中国の古典をベースに、招かれた教授たちが、子供たちに読み書きと共に教えていた。すなわち、人として、どうあるべきかということに主眼が置かれていた。

ただ、対象の子供たちは、生活に余裕ののある子弟で、全ての子供が対象になったわけではない。しかしながら、当時のことを考えれば、これは致し方ないことであった。今は誰でも学べるが、学びたくても学べなかった子供たちがいたことを考えると、現代の子供たちは、何と幸せなことか。

教授は、地元高砂から、菅野松塢(すがのしょうう)、三浦松石、美濃部秀芳らであった。なお、美濃部秀芳は、「天皇機関説」を唱えた憲法学者美濃部達吉の父親である。そして、大人も子供に交じって、大人も学んでいたという。

毎日、午前中の授業で、ほとんど休みはなかった(休みは、元旦五節句と、5日、15日、25日のみ)。教える方も、真剣であっただろうが、教えを受ける子供たちも真剣であっただろう。それは教授たちを尊敬し、教える方も、何とか彼らを一人前の将来のリーダーにすべきかに、一念が置かれたことだろう。教育には、教える方の使命感と、教えを乞う方の真摯さが求められる。

*参考

公開日は、土日・祝日の午前10時から午後4時まで。入館は無料。ただ平日も10人以上で利用日の2週間前に申請すれば可となっている。申請先は高砂市教委文化財係(079-448-8255)。

交通は、山陽電車、高砂駅下車、南に行き、「北本町の交差点」を西に行き、二筋ほどを越えると、ややいり込んでいるが、寺が並んでおり、大きなお寺「十輪寺」があるので、更に行くと左手側にある。駅から歩いて10分程度。なお、近くの十輪寺には、美濃部家の墓がある。また、この周辺は、桜が美しいようだから、そのような時期に訪れるのもいいかもしれない。

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