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2012年3月30日 (金)

落語『千両蜜柑』から考える

物の価値の勘違いを取り扱った落語に、『千両蜜柑』がある。時々、演じられている有名な部類に入るだろう。あらすじは、多くの方がご存じだろうが、一応記しておく。

ある大店の息子が、暑い夏に、今でいう熱中症に罹って、ふらふらになり、寝込んでしまった。食事は全く進まず、親や周囲が心配して、「何か食べたいものはないか」と尋ねると、「何も食べたくないけれど、冷たく冷やした蜜柑が食べたい」と言う。

「それなら、たやすいこと」と、買いにやらせたが、季節外れの6月なので、蜜柑はどこにもない。今なら、缶詰もあれば、冷凍技術も発達しているから、どうにでもなるが、話は江戸時代。親は、金に糸目はつけないから、探し出せと大号令。番頭以下、くまなく探すと、やっと青物市場に、一個だけあることが判明。但し、千両だと言う。

足元を見られていると思ったが、親は、それでもいいと言うので、それを千両で引き取った。そして、息子に「食べるがいい」と与えると、皮を剥くと、十袋あった。その内、七袋食べ、残りの三袋は、両親と番頭で分けてくれと、番頭に渡すと、番頭は、その三袋を持ってドロンしたという。

彼は何を考えたのか。蜜柑一個で千両と言うことは、三袋で、三百両。それを持ち逃げすれば、後は何とかなると考え、それを持って、女と駆け落ちしたというオチ。

落語のようなことは現実にはないだろうが、多くの勘違いで、犯罪に及んでいる事件は現代でも多くある。落語の方は、換金できない、蜜柑の三袋だが、多くの事件は、企業の金の横領という形で現れる。企業の金とは、同じ金でも、「モノ」であることが多い。要するに使える金ではない。それを多くの人間が勘違いする。

物の横流しも同様で、それも換金しなければ使えないが、結局、使える金ではない。事件を起こせば、結局、自分を貶める結果になるだけである。人間、確かに、お金の姿や、それを生む物を見て、気迷いということはあるかもしれない。普段から、そういうことを冷静に物事の価値を見極める目を養っておくことは肝要だと思う。世の中、そんなに甘くない。落語は笑いの裏に、色々教えてくれる。

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