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2012年4月 2日 (月)

ある乞食坊主の金銭哲学

乞食とルンペンは、正確には異なる。乞食は、人に物をねだるのに対して、ルンペンは、そういうことをしない。流風が子供の頃、いわゆる乞食やルンペンがあちこちにいた。

今も時々見かけるが、子供の頃、ルンペンは、ボロボロになった、ずた袋をまとい、異様な臭いを発しながら、歩きまわる人もいたし、乞食は、街の通路に座って、前に壊れた茶碗一つを置いて、「右や左の旦那様、どうかお恵みを、、、」とやるのである。

そうすると、人は五円、十円と入れていく。中には、札もあったようだ。母も、時々入れていたようだが、ある時、話をすること(母は、何でも興味を持ち、誰とでも分け隔てなく話す性格だったので)があって、「一日、どれくらいの収入があるん」と尋ねたところ、割と多いので、びっくりしたと言っていた。

五十年以上前の記憶は曖昧で、金額ははっきりと覚えていないし、聞き間違いかもしれないが、当時、一日五百円ぐらいと言っていたような記憶がある。「乞食は一日やったら、止められない、というのは本当や」とも母は言っていた。当時の物価からしたら、そうなのかもしれない。

戦前の話のようだが、福沢桃介も、ある銀行の支店で、大口預金者を招待したら、その大口預金者のトップが乞食坊主だったので、出席者が、皆、びっくりしたと記している。一応、普通の乞食とは異なり、乞食坊主なので、お経は詠むので、一日の上がりも多かったのだろう。今でも、怪しい坊さんが駅構内に立って、乞食のようなことをやっているのを見かけるが、今はどうなのだろうか。

桃介は、その後で詳しく記しているのだが、その坊主は、使うこともなく、ただただ金を貯め込んでいたようで、それを不思議に思った人が尋ねると、「金がもらえる一瞬が嬉しいのであって、後のお金は、残りかすにに過ぎない」とし、「どうでもいい金なのだ」と語ったという。

これには、さすがの桃介も、乞食坊主の金銭哲学には感心したようだ。人、それぞれの金銭哲学があってもいいと思う。他者に迷惑をかけなければ、そこに第三者の意見の入る余地はない。ただ、お金は使うためにある。持ってあの世には行けないのだから、金持ちの方はできるだけ使ってもらって、現世の経済を刺激してほしいものだ。

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