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2012年4月21日 (土)

盤珪禅師のこと

全国的には、盤珪禅師(1622~1697)は、一般人には、あまり知られていないかもしれない。彼は播州の生まれ(現在の姫路市網干区浜田)で、臨済宗の名僧だ。彼は、後に、京都、妙心寺の住職になっている。医者の三男に生まれたが、子供の頃に、父を亡くし、母親と兄に苦労して育てられている。

その後、書籍『大学』で、「明徳」という言葉に触れ、周囲に色々問うが、まともな回答がないため、禅門をたたく。17歳で出家する。優れた人は、一つの言葉で啓発される。だが、その悟りの修業は困難を極めたようで、生死を彷徨う思いをして、やっと一つの結論に達する。

彼は、そのことを通じて、難しい禅を、誰にも分りやすく、日常の言葉を通じて、説いて信者を得たと言われる。彼は「不生禅」を説いた。不生禅とは、人間は生まれた時から、生を超えた仏心を元々所有していて、改めて悟る必要はないと説き、迷いは仏心に自然でないところから生ずると説く。そういうことは、母から子供時代、教えられた記憶がある。母も、禅師の影響を受けていたのであろうか。

彼は、また面白いことを言っている。彼が説く不生禅を早く理解する者は、学のない者で、博学多聞の人は、却って、理解に苦しむようだと。人間確かに、知識という飾りを纏うと、真実が見えにくくなる。

それは心が素直になれないということにつながるのかもしれない。あれこれと練りくりまわして、結局、真実が見えなくなる。何もなければ、迷うことなく、人は元々仏心を持っていると本能で悟るのだろう。

さて、先日、盤珪禅師が、どういうところで、説法したのか知りたくなって、急に思い立ち(笑。流風には、よくあることですが)、彼が建てた龍門寺(りょうもんじ)に行ってきた。これはかつて龍野藩主であった京極家が、丸亀藩に移封後も、興浜や浜田は、そのまま京極家の領地であったため、盤珪禅師に敬慕していた京極高豊と、網干(あぼし)の豪商、佐々木家(灘屋)の援助により、寛文元年(1661年)に再興したもの。20あまりの堂が並ぶ。

非常に大きな敷地に在る寺院であったが、一般公開は予約制であったので、当日は拝観できなかった。当日は外観を見て、雰囲気だけ味わった。ただ、お寺全体は、古ぼけて、やや傷みがあり、一部修築中のようだ。海に近いから、傷みやすいのかもしれない。

盤珪は、晩年、ここで、三か月にも及ぶ説法をしたらしい。詰めかけた信者は数万人。いかに多くの人々に敬愛されていたかが分る。『盤珪禅師語録』(岩波文庫刊)に、彼の説法のほとんどが収められている。

彼は繰り返し繰り返し、飽きもせず、同じことを繰り返して、説法している。問う者が違えば、改めて異なる言葉で、分りやすく説明している。根気強いなあと思う。リーダーは、そうあるべきなのだろう。

彼は基本的に、この世の中は、あるようにあると考えていたようだ。それは人もだ。それは極限まで達して得られた悟りであった。彼は、皆には、そんな苦労をせず、楽に人生の奥義に達してほしいと、分りやすい言葉で語りかけたのだった。

彼は信者に座禅を強いることはなかった。また難しい公案も用いなかった。そして、彼には亡くなる時の、遺偈もない。あくまでも、不生禅を貫いた。彼は、禅の世界では、異端であったかもしれないが、庶民にとって、最も近い禅僧であったことは間違いない。

*参考 龍門寺

   http://www.ryomonji.jp/

山陽電車、飾磨駅にて乗り替え、山陽網干行きに乗り、終点下車。揖保川に架かっている網干大橋を渡り、しばらく行くと変電所がある交差点があるので、そこを左に曲がって、少し行くと、交通案内の看板がある。川沿いにある。毎年3月末から4月にかけて、大茶会が開かれるそうだ。

近くに、不徹寺(ふてつじ)がある。ここは田捨女貞閑尼が元禄元年(1688年)開いた寺で、彼女は元々、丹波柏原生まれの元禄の女流俳人、田捨女(でんすてじょ)。彼女が6歳の時に俳句「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」が有名。盤珪禅師の徳を慕って、網干に来て、多くの弟子を導いたと伝えられる。

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