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2012年4月22日 (日)

田捨女のこと

盤珪禅師について記した時、少し触れたが、田捨女について、備忘録として、もう少し記しておこう。彼女が6歳の時に俳句「雪の朝 二の字二の字の 下駄のあと」が示すように、子供の頃から才気煥発だったことは確かだろう。

彼女は、寛永11年(1634)、丹波柏原生まれだ。父親は代官で、恵まれた家だったということになる。ただ、小さい頃に、母を失い、父には後妻がやってくる。その辺は複雑だ。人間形成に微妙な影を落としたことであろう。

後妻には、男の子の連れ子があった。名を季成(すえなり)と言う。捨女には実弟の季聴(すえあき)がいたので、ややこしくなる。誰が田家を継ぐかという問題がある。結果的に、季聴は家を出る決心をして、去ってしまう。そこには、後妻の思惑が強く働いたのだろう。

つまり、長女である捨女と連れ子の季成を結婚させてしまうのだ。捨女の心は、いかようであっただろうか。実弟、季聴を犠牲にして、家を継ぐ。微妙な葛藤があったかもしれない。ところが、その後、夫婦仲はよかったという。二人とも、俳句の道を楽しんでいる。季成も、引け目があるから、田捨女に、よくしたのかもしれない。5男1女を儲けている。

ただ、その幸せも続かず、40歳を過ぎた頃に、継母、夫と立て続けに失い、空しさを感じるようになる。そして、子供が大きくなったことを見届けて、50才前に出家してしまう。ただ、自分が思うような師はなかなか見つからない。

ところが、ある時、たまたま、京で、盤珪禅師が、不生禅を説くのを聴いて、これだと瞬間的に判断する。難しいことを優しく説く盤珪禅師の人間性に感心したのかもしれない。後は、いわゆる、追っかけで、播州に行き、龍門寺近くに居(庵)を構え、盤珪禅師の説法を、ことごとく聴く。ここら辺は、宗教に、はまりやすい女性らしい。

ただ、その点は、盤珪禅師も感心して、田捨女を弟子として認め、彼女の庵に、「不徹」と名付け、後、不徹庵から尼寺(不徹寺)になる。彼女は尼になって、貞閑尼と名を改める。彼女も多くの弟子を導いた。元禄11年(1698)に亡くなっている。

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