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2012年5月28日 (月)

平常心是れ道というと

若い頃、部屋に「平常心是れ道」の色紙を飾っていると、先輩から、今から老成してどうするのだと、笑われた。確かに、これは禅語だから、道を極めた人だから発せる言葉なのだろう。流風は、人生修業が足らず、今もなかなか、平常心是れ道とはいかない。

さて、『寒山拾得』にも、そのような詩があるので、取り上げておこう。

  自ら平生の道を楽しむ

  煙蘿(えんら)石洞の間

  野情放曠多く

  長に白雲と伴に閑なり

  路有るも世に通ぜず

  心無ければ孰(たれ)か攀ず可けん

  石牀(せきしょう)に孤夜坐せば

  円月寒山に上る

解釈すれば、次の様になるのであろうか。

「私は、もやに包まれた蔦が生い茂った石洞近辺に、日常、淡々と変わらない心を道として、楽しんでいる。自然の有りようは、心を解放してくれるし、空に浮かぶ白雲を友として、心は静かだ。ここへの道はあるけれど、世の中とは通じていない。心がなければ、誰も、ここに攀じ登ることはできない。石の床に独り静かに座っていると、満月が山を上っている」

いつでも、どこでも、いつも心は平静で、何も変わらないというのは、味気ない感じもする。ただ、何かを成し遂げようとする時、それは必要とされるかもしれない。そう考えると、私達も、いろんな人生のステージの各段階で、平常心は大切な心構えと言うこともできる。

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