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2012年5月30日 (水)

糟屋武則という人

歴史に詳しい人を除けば、糟屋武則という人は、あまり知られていない。ところが、彼は、賎ヶ岳の七本槍の一人なのだ。賎ヶ岳の戦いは、秀吉のライバルである柴田勝家を滅ぼして、天下統一に大手をかけたものだ。この合戦で、目立った活躍をしたのが、七本槍とされる。ただ、実際は、そうでもないようで、秀吉には、織田家や徳川家のように、累々と続く臣下がいないが、十分通用する自前の臣下がいるという秀吉の宣伝であったとも伝えられる。

その七本槍とは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、片桐且元、そして、糟屋武則だ。糟屋武則は、播磨の武将だ。筑前の国、糟屋郡の出自から、糟屋と一族は名乗ったようだ。

兄、朝正は、加古川城主であった。そこに秀吉軍がやってくる。ただ、三木城の別所氏は、はじめ、秀吉軍に協力するとしたが、後、反旗を翻し、加古川城主の朝正は、別所軍に合流。ただ、武則は、志村姓でもあり(母親が前の夫の死後、志村家に嫁いで、武則を生んでいる)、別の考えがあったのか、あるいは黒田官兵衛あたりに説得されたのか、秀吉軍に身を投じる。

秀吉は、これを評価し、官兵衛の推挙もあり、小姓頭になる。この時、15歳ぐらいだろうから、その覇気が認められたのだろう。その後、彼は、ますます、人たらしの秀吉を信奉するようになっていく。その働きが、賎ヶ岳の戦いでは、顕著であったことは推測される。

その後も、彼は、武人としてだけでなく、いろんな方面に活用されている。頭がよく、器用な人だったのだろう。政治的あるいは官僚的資質も、身に着けていたのかもしれない。そういうこともあって、秀吉没後も、関ヶ原の合戦では、他の六名が東軍についたのに、彼は、西軍についている。

もちろん、西軍は敗北し、改易され、干されていく。武闘派と呼ばれた他の六人は、官僚の石田三成と肌が合わず、感情的に反発して、東軍について、豊臣家を滅ぼすのを早めた。その点、糟屋武則は、秀吉の恩顧を忘れず、彼のお陰で今があるという信念を貫いている。その上で、好き嫌いは別にして、三成の主張も理解したと思われる。

結果は、駄目だったが、そういう生き方も有りだろう。世渡りには、風見鶏のように日和見主義もいいが、自分の信念を貫くのも、一つの生き方だ。糟屋武則は歴史的には、忘れ去られたのかもしれないが、多くの時代小説のネタにはなっていると思う。

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