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2012年6月30日 (土)

播州弁 その五 ごじゃんぼ

今回の播州弁は、「ごじゃんぼ」。ただ、この「ごしゃんぼ」は、播州弁リストに挙がっていない。ネットでも調べたが、どこにも載っていない。ただ、流風の子供の時、母や近所のお婆さんはよく使っていた。

この言葉の語源は、多分、「ごじゃ」と「坊」(きかん坊、と同じようなものではないか)が結びついたものと思う。「ごじゃ」は、道理に合わないとか、出鱈目、正しくないことを指す。この言葉は、どうも四国の言葉(讃岐)の様である。そして、「ごじゃを言う」と表現すると、いい加減な出鱈目を言う、ということになる。

さらに、それに「ぼ(坊)」がつくと、言うことを聞かない、聞き分けのない子供を指すが、やんちゃな若い大人を指す場合もある。流風は、子供の時、「あんな、ごじゃんぼになったらあかんで」と、母によく言われたものだ。ただ、この音の響きは、面白い。

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2012年6月29日 (金)

播州弁 その四 せんどぶり

今回の播州弁は、「せんどぶり」。人と会って、「せんどぶりやのう。どないしてたん」とか言う。せんどぶりは、久しぶりという意。語源はよくわからないが、千度ぶりかな。万度ほどではないということか。

果たして、どれくらい会わなければ、せんどぶりと言っているのだろうか。多分、それは個人差があって、一年以上会っていなければ、確かに久しぶりの感はあるが、少しの期間、会ってなくても、冗談めかして言う場合もある。

そして、この言葉をかけると、長い間会ってなくても、不思議に時間的な距離が、ぐっと縮まる感じがする。ただし、これは播州人にしか、わからないかもしれない。

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2012年6月28日 (木)

播州弁 その三 「いけず」と「しゃんとこ」

今回紹介する播州弁は、「いけず」と「しゃんとこ」。ただ、純粋には、播州発祥の言葉ではないのかもしれない。「いけず」は京都の女性がよく言うし、「しゃんとこ」は元々但馬地方で話されていた言葉とも言う。母は、よくこの言葉を話していた。「あの奥さん、いけずやないけど、しゃんとこやな」とか。

「いけず」の意味を表すのは、なかなか難しいけれど、まあ性悪(しょうわる)な女性とか、意地悪な女性を指しているかも。男に対しても、「いけず」と言うが、それは男女の関係性が強まった時ぐらいに女性が男に発する言葉かな。また、商売上の妨害があった場合に使っている人もいる。「あの仕事で、いけずされた」とか。

もう一つの「しゃんとこ」の意味は、しっかりしているの意だ。そして、これは必ず女性に対してのみ使われる。母は、生涯、夢見る少女であったように思うが、それゆえ、彼女の女学生時代には、周辺にしゃんことが集まって、母に、色々お節介をしたようである。ぼんやりしているように見える母を放っておけなかったのだろう。

実際は、母は、その実、プライドも高く、ぼんやりしていないのだが、周囲が、お節介してくれるのを楽しんでいたという。そう考えると、母も、なかなか強かだ。母は、生涯、しゃんとこの友人たちに囲まれて、その役割を演じていた。それが女性の処世というものかもしれない。

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2012年6月27日 (水)

組織統率の秘訣の参考書 『六韜』

組織統率の乱れは、組織を混乱させ、弱体化させる。昔から、組織統率には、多くの指導者は心を砕いてきた。

一番、皆が参考にしたのは、『六韜(りくとう)』だろう。六韜とは、六つの秘訣という意味である。太公望の書とされるが、作者は不明だ。ところが、最近の指導者は、あまり読んでいないのではと思われる節がある。

その『六韜』では、「竜韜」編で、組織統率の秘訣を紹介している。一例を挙げれば、「殺すは大を貴び、賞するは小を貴ぶ」というのがある。

これは何を意味するかというと、組織を統率するには、上位にある者が、規則に従わなかった場合、命を奪うほど厳しく罰し、トップは、その威光を示せと云うこと。

逆に地位が低い者であっても、功があれば、必ず賞する。すなわち、彼を賞することによって、皆が鼓舞され、組織に活気が漲る場合には、賞を惜しんではならないと云うこと。

このように、組織統率原理が、極めて明快に示されている。指導者の方は、是非、一読願いたいものだ。

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2012年6月26日 (火)

播州弁 その二 ごうわく

今回の播州弁は「ごうわく」。「ごーわく」とか、「ごおわく」とも表示される。子供時代から、よく使われた言葉だが、文字にすると変な感じ。意味は、非常に腹が立つということ。元々、「業が沸く」から出た言葉と言う。

「あいつのやりようは、いつもごうわく。もう、いい加減にしてほしいわ」とか、「ごうわく奴じゃ」とか言う。少しのことは辛抱できても、限界がある。でも、限界の程度は、人それぞれ。ごうわくのも、いろんなレベルがある。そこで「そんなにごうわかしなさんな。身体に悪いで」とか言ってなだめる。

播州人は、腹が立っても、あまり腹が立つとは言わない。やはり、ごうわくが似合う。人によっては、煮えくりかえるほど怒っているかもしれないが、大体は、怒っていても、どこか、やんわりしているような気がする。どこか、あきらめのような気持ちを持って言っているような感じ。妻が長年、連れ添った夫に、「ごうわかす」例も多いかもしれない。

*追記

「ごうわく」に対して、大阪人は、「むかつく」という言葉を吐く。同じく、腹が立つの意味だが、これはむかむかする、ということから、腹の底から腹が立つ、というから、怒りの種類が違うかもしれない。

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2012年6月25日 (月)

播州弁 その一 べっちょない

今回から、播州弁を紹介しておこう。播州は、兵庫県明石から西を指す。播州弁は、地域により多少誤差があるが、大体似ている。大阪弁と似ているところもあるが、それは多分、播州の人が大阪に出て、広まった部分もあると思う。なお、神戸弁というのがあるかどうか迷うが、あるとすれば、それは播州弁から派生したものだろう。

このブログでも、京都弁、大阪弁、播州弁がちゃんぽんになって使っており、流風本人も、段々区別がつかないようになっている。でも、関西の人間には、何とかわかるはず。ただ、東日本の方には、分りにくい言葉もある。それらを何回かに分けて取り上げていく。

今回は、「べっちょない」。なんとなく意味分りますよね。「別条ない」から派生した言葉らしい。要するに、大丈夫ということ。健康状態や、家族の不幸を問われて、「べっちょない、べっちょない」と答えたりする。ある意味、強がりの言葉でもある。大丈夫だと自己暗示をかけているのだ。

こういう言葉を吐くということは、軽く言う場合もあるが、大体、心理的にかなり追い込まれている場合が多い。また、「べっちょないか」と相手に問う場合も、何らかの打撃を受けている人に対して、その心を察して投げかけている。その答えが、「べっちょない」と言われても、本当に「べっちょない」ということは少ない。この言葉が返ってきた時は、周囲は見守ってやる必要がある。

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2012年6月24日 (日)

勉強してぇな、ということ

関西では、定価で買うことは、珍しい。大抵、「兄ちゃん、勉強してぇな」「負けてぇな」と言って、値引き交渉する。猛者になると、百貨店でも、値引き交渉する。百貨店は、表向き、値引きはしていないが、実際は、期間を決めてバーゲンしているし、お得意客には、外商で値引きしているから、そこに付け込むわけだ。一見の客でも値引き可能だと。

関西の文化は、アジアの文化と似ており、アジア諸国で、定価で買う人は決していない。値付け自体、値引きを前提とした価格付けだ。そこには、値引き交渉を双方が楽しんでいる風である。物を単に、買うだけでなく、買うこと自体を楽しむ。それは時間の浪費だと言う人もいるかもしれない。

でも、それは逆の視点で見れば、心の余裕のない人々。仕事はできるが、面白みのない人でもあろう。値引き交渉には人柄が出る。そこから、売り手から、いろんな情報が入手できる場合もある。案外、特別の情報が得られたりする。決して、無駄ではない。

でも、なぜ「勉強してぇな」と言うのだろう。「勉強」ということは、もっと商売の勉強をせよと言うことだろうか。もっと勉強して、もっと安くする努力をせよということだろうか。そう捉えるなら、最近、勉強の足りない店が増えているような気がする。お客は、もっと「勉強してぇな」と言う必要があるかもしれない。

*追記

尤も、知らない店にこそ、「勉強してぇな」と言う人もいる。知っていて懇意にしている店には、言わないらしい。懇意にしている店は、それなりにし信用しているし、価格も、初めから、そこそこの値段を提示される。そうなると、「勉強してぇな」と言うことは、単なる駆け引きだ。少し意味は異なる。

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2012年6月23日 (土)

姫路ゆかたまつり(2012)と落語『初天神』

いよいよ、今年も昨日6月22日から、姫路ゆかたまつりが始まった。台風による大雨も、21日でぴたりと止み、22日からは晴天。土日も好天というから、祭りには相応しい。今年は、天気が味方してくれた。

22日朝早くから、屋台(露店)の準備がされていた。出店は大変多いから、その調整も大変なようだった。それでも、いつの間にか、整然と店が並んで行くから不思議だ。午前中から、小さな子どもたちが、期待に胸を膨らませて、多くの団体があちこちで見受けられた。彼らは、今か今かと楽しそうだ。

そういうと、流風も、子供時代、親に連れられて行った記憶がある。当時、普段、買い食いは、なかなか許されなかったかが、祭りの時は例外であったから、何を買ってもらおうかと、期待したものである。ところが、両親は、冷たい物は駄目とかで、火を通した甘菓子を買い与えられたように思う。冷やし饅頭とかも食べたかったが、エキリになるとかで強く反対されて食べられなかった。

そういうことで、今回は、久しぶりに思い出して、屋台ではないが、老舗の和菓子屋で、冷やし饅頭を購入。つるっとして美味しい。今の子供たちは、果たして、買い与えられるのだろうか。今は食環境も、昔のようなリスクは少ないから、食べられるのだろう。いいなあ。

ところで、祭りの時期は異なるが、落語にも、『初天神』というものの中で、子供が親にいろいろねだる場面がある。初天神は1月25日だから、冬の寒い時期なので、若干、雰囲気は違うが、子供がねだるのは変わらない。

母親が父親に子供を祭りに連れて行ってくれと言うが、父親は嫌がる。そこに子供が帰ってきて、祭りには連れて行かないと言われ、それなら隣の家に、昨夜の父さんと母さんの面白い出来事を話すと言うと、父親は、しぶしぶ連れて行く。子供は、案外、あの時、起きているものだということ(笑)。それにしても、ひねた子供だねえ。

後は、屋台のあれが欲しい、これが欲しいと言う子供と父親のやり取りが面白い。よく、テレビやラジオで演じられているが、何回聞いても飽きない感じ。子供たちは、親との駆け引きを通じて大きくなっていくということだろう。ゆかたまつりの屋台でも、同じ風景が見られるのだろうか。

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2012年6月22日 (金)

仮病と狂言『しびり』

仮病というのは、誰も使う手かもしれない。少し自分の都合が悪くなって、病でないのに、病気と称して、欠席する。まあ、仮病自体、すでに心の病とも言えないこともないが。人間誰でも、心が弱くなる時はある。それは大体、自分自身が原因の時が多いだろう。もちろん他者からの圧迫から逃れたい場合もあるかもしれない。

さて、そのようなことを扱った狂言に、『しびり』というものがある。漢字表記すれば、痿痢だ。昔は、題名も『痿痢』としていたが、皆が読めないため、最近は平仮名で、『しびり』としている場合が多い。この、しびりとは、痺れのことだ。

主人が急に客を迎えることになったので、太郎冠者に堺(現在の大阪府堺市)に、肴を買ってくるように命じる。そうすると、太郎冠者は行きたくないので、仮病を使う。それが足のしびれが切れたということだ。

足のしびれが病気でないことは、誰も知っているが、あれは確かに辛いこと。子供時代、葬式に親と同行して、式場で長い間、正座させられ、坊さんのお経を聞かされ、いざ立ちあがろうとすると、バタンと正面に倒れて、皆、大笑いして、恥ずかしかった記憶がある。

話を戻すと、太郎冠者が堺に行きたくないのは、本人が単にサボりたいだけなのかもしれないが、堺に相当嫌な奴がいるのかもしれない。それとも、その道中かも。盗賊、追剥ぎがでるのかもしれない。人間、次々と悪いことを考えると、動けなくなる。駄目な太郎冠者(笑)。

太郎冠者があまり大袈裟に言うものだから、主人も、それに合わせて、まじないで治そうとする。そうすると、太郎冠者は調子に乗って、そんなものでは治らない、これは親譲りだとか言う。

やっと太郎冠者は仮病と気付いた主人は、逆手を取って、「実は、今夜は叔父が振舞いをしてくれるので、太郎冠者も同行するように言われていたのに、それは惜しいことをした。それでは次郎冠者を同行する」と言うと、太郎冠者はびっくり。

そんなチャンスを逃してなるものかと思い、しびれは何とか治すからと現金なもの。実際、飛び跳ねて、大丈夫と言いだす。それでは、主人は堺に買い物に行ってくれと再度言うと、太郎冠者はしびれで動けないと言い、主人に叱られ終演。

これは子供が母親に買い物を頼まれ、嫌だと言っているのと同じ。母親は、おやつを上げるからとか、お駄賃を上げるからと、色々なだめ説得するが、主人と太郎冠者は、親子とは立場が違うので、餌はない。振舞いという餌は空手形。

使う者と使われる者。ある経営者は、人使いは難しいと仰っていた。お金を出して人を使うのだが、使われる者には、使われる者の思いがある。そこに意識のずれがある。この狂言『しびり』は、そういうことを表してしているのだと思う。

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2012年6月21日 (木)

武士道について

過去に、武士道について、いくつか触れてきたが、武士道というのは、分りやすいようで分りにくい。それは最早、日本人でもそうだろう。武士道について、日本人が外国人に解説した書籍としては、新渡戸稲造の『武士道』が有名だが、残念ながら分りにくい。

それというのも、新渡戸は外国人に分りやすいように、西洋の文化との対比で、それを説明しようとしたことが、余計にややこしくしているのだ。本来、武士道は、日本の武士道であり、西洋との文化との比較で論じられる性格のものではないのに、そこを無理した感じは否めない。

そこで、もう少し、分りやすく解説したものはないのかと探してみると、渋沢栄一が、武士道について簡単に記していたので、下記に、その一文を紹介しておこう。

一、「武士道」なる語の士人間にいい囃さるるようになったのは、徳川家康が幕府を江戸に創建した後のことであるらしい。それ以前、鎌倉時代から武士の道はあったものだが、「武士道」という立派な名称は、いまだついておらなかったように思われる。

二、俗にいわゆる「刀の手前」とか、「弓矢の道」などという言葉は、武士道に等しきもので、すなわち武士たるものの去就進退を決すべき標目としてあった。

三、しからば、武士道とはなんであるかというに、武士が他に対して自己の態度を決定すべき場合に、不善、不義、背徳、無道を避けて、正道、仁義、徳操につかんとする堅固なる道心、崇高なる観念であって、礼儀廉恥を真髄とし、これを任侠の意義を包含させたものであるということができよう。

四、ゆえに、腰に両刀を手挟む以上は、受けまじきもの、取るべからざるものは、如何なる場合にも、必ずこれを斥け、また徳義上、もしくは自己の職責上なさねばならぬことならば、たとえ如何なる困難辛苦に遭遇するとも、一命を擲(なげう)ってまでも、必ずこれを成し遂げなければ已まぬとの決心を持ったものだ。

五、「刀の手前捨て置かれぬ」とか「弓矢の道が立たぬ」とかいうことは、かかる場合に際して武士たる者の取るべき道をいうたもので、この心が行いとなり、しかしてその行いがよく道に適い、機に応じて造次顛沛、これを誤ることなき武士の本領とし、武士たるものは競うて、この理想郷に心身を置かんと志した。

以上が、渋沢の言葉(*参考)だが、新渡戸の長々と記したものより分りやすい。武士道は、今の日本人も忘れかけていることだが、今一度、日本人に求められているのは、武士道の精神であろう。

*参考

渋沢栄一著 『青淵百話』が出典。なお流風は、これを現代表記した『渋沢百訓』(角川文庫)より引用した。

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2012年6月20日 (水)

電力余剰の時代と原発

日本は、福島原発事故で狭い領土を“失った”ことを忘れたのであろうか。被災地は、使えない領土になってしまった。日本は、経済的、人的喪失だけでなく、巨大な損失を被ったのだ。

ところが、福島原発事故の技術的解明がまだなのに、政府は大飯原発を再起動させる決断をして、世界の笑い物になっている。関西の住民の多くは停電を覚悟していたのに、産業界の突き上げと電力業界、原発村という人々の圧力に負けてしまったのだろうか。

今後、原発は本当に必要なのだろうか。この論議は現在だけを見る近視眼的思考では、日本の将来を危うくする。

そもそも、日本の最終消費エネルギーの内、電力のシェアは約23%に過ぎないそうである。その中で、原子力の占める役割は低い。関西電力は15%を占めていたようだが、その他の電力会社は、それほど依存していない(*注1)。その原子力をめぐって、わいわいやっているわけだ。

基本的に、原子力推進は米国の意向を受けて国の方針であったことが大きく影響していることは間違いなかろう。安保関係者は、日本のような狭い領土内に、核保有や原子力発電は不向きなのに、核の論議に発展させる。

そして、国は、原子力発電は、電力会社に、努力せずに利益のうまみが大きくなるように誘導してきた。更に、それで恩恵を受けてきた発電地域の利権として財政依存が輪をかける。

だが、原油に代わるエネルギー資源として期待された原子力発電は、最早、高度成長時代の遺物だ。そして、子孫の巨大な負担を犠牲(使用済み核燃料の処理、廃炉の処理)にして、現在の人間が、電力を享受してきた。

これは、大いに見直す必要があるだろう。なぜなら、日本をはじめ先進国諸国は、今後、ゼロ成長かマイナス成長が待ち受けており、いかに政策を打とうが、それほど電力需要は生じない。

つまり、無理な輸出をしてきた家電、自動車分野も、最早、国内での生産ができない。なぜなら、原油価格の高騰は、資材コストを押し上げ、労働者の賃金を削って利益を出すのも限界に達している。原油価格は、更に上がっていき、発展途上国の安い賃金には対応できず、工場は海外に進出せざるを得ない。そうなれば、電力需要は激減する(*注2)。

また違った角度で見ると、日本の最終消費エネルギーという意味では、その消費の半分くらいは、熱需要である。その点、電力は、資源を燃やして熱を電力に転換しており、非効率でロスが多い。本来、熱は熱源として直接利用した方が、資源の節約になる(*注3)。そのようにすれば、電力需要は減少する。

そういうことを考え合わすと、今後は電力需要は減り、電力会社による電力供給は減らすべきということになる。となれば、火力発電、水力発電、太陽光等の自然エネルギーによる発電で、十分賄えることになる。そのためのコストダウンには、努めなければならないだろうが、システム的省エネ技術で、相当程度、カバーできるだろう(*注4)。

原子力発電のように使用済み核燃料の処理技術も定まらない未熟な方法で、高度成長時代に過大に拡大させてきたことは、もう止めにしないといけない。使用済み核燃料は将来の世代に負担がかかり過ぎる(*注5)。一部の人々のエゴだけで、残すことは許されないだろう。

*注1

但し、稼動状態で異なる。国の古い発表データでは、全国平均で30%とある。

*注2

国としては、今後、新たな輸出産業の育成は必要だが、偏った産業にはならないようにすべきだろう。それはドイツに学ぶべきだ。一部の産業に偏らず、幅広い分野で輸出産業として育成し、更に日本の規格で輸出すべきだろう。そうすれば、為替の変動で経営者が慌てることもない。

*注3

熱源はガス等に頼ればいい。風呂、湯沸かし、レンジ、暖房など。これらの電気使用を止めれば、かなりの電気量の削減になる。もちろん、一つのエネルギー源に頼ることはリスクが伴うので、国家としてはある程度、分散させる必要はある。

*注4

原発発電コストは、トータル的には一番高い。だから、火力発電、水力発電、太陽光発電が高いと言っても、まだましな方だ。今後の日本は、多分、非在来型石油・天然ガスを利用すれば、火力発電コストはもっと安くなる。ただ輸入する資源コストの管理がより重要で、日本にとってリスクであることには変わりない。

太陽光発電等自然エネルギーは、今後、住宅用の全世帯に推進する必要がある。7月から買い取り制度がより推進されるが、機器のコストダウンが強化されることに期待したい。

*注5

但し、使用済み核燃料処理技術については、今後も研究の面では推進する必要がある。

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2012年6月19日 (火)

姫路ゆかたまつりと高尾のこと

姫路では、もうすぐ、約260年前から続く恒例の「姫路ゆかたまつり」が開催される。開催日は、毎年6月22日から24日までだ。このきっかけを作ったのは、姫路城主、榊原政岑(まさみね)であることは、以前のブログで記した。実は、それをアドバイスしたのは、高尾と伝えられる。

政岑は若い頃から、吉原に出入りして、入り浸っていた。当時は、倹約令が布かれていたが、それを無視した格好だ。若さゆえの抵抗だったかもしれない。そこに三浦屋の太夫、高尾がいた。代々、その名を継いでいくのだが、彼女は十代目。

彼女は、群を抜く美しさであったらしい。それだけでなく、十分な教養も備えていた。その彼女を身請けし、豪勢な披露会を催し、姫路に連れ帰る。ただ、榊原政岑は、彼女だけを身請けしたのではなく、その他にも島原の芸妓坂田を含めて何人かの遊女を身請けして、側室にして城内に住まわせていた。当時の殿様としては、ありうることだろう。少し派手だけれど。

ただ、高尾には、子供はなく、やがて政岑は、高尾のことで蟄居させられ、坂田には後継ぎが生まれていたので、自分の立ち位置は弱くなる。そして政岑は亡くなり、彼女は出家して尼になり、江戸に戻る。彼女は長寿で、83歳まで生きたようだ。

美しさゆえに惑わされ、惑わした彼らの運命は、いかようであったのか。あまりにも激しい人生模様を、彼女は、どのように思っていたのだろうか。ただ、彼女のアイデアであったと云う、姫路ゆかたまつりだけが、今でも残っているが、しなやかな感性の持ち主であったことは確かだろう。

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2012年6月18日 (月)

坊主丸儲けということ

坊さんをからかった言葉として、坊主丸儲けというのがある。これは坊さんは日頃、何もしないのに、寺からやってきて、お布施とか、施し物を庶民から、受け取ることを皮肉ったものだろう。庶民の方は、稼ぎが足りないで、苦労しているのに、坊さんは気楽なことだ。

ただ、最近は、檀家が減って、寺の運営も大変なようだ。そのため、副業として(?)、その他のビジネスに勤しむ坊さんも増えているようだ。だが、宗教者も宗教者の役割を忘れていては、依然、自己改革が足りないように思う。

やはり宗教は、ある意味、サービス業だから、宗教者も、時代に合うように顧客満足を原点に行動することが必要だろう。旧態依然の体質を改善すべきだ。

*追記

坊主丸儲けは、現代で言えば、電力会社やガス会社の経営であろう。原油価格等が上がれば、すぐ価格転嫁する気楽さ。中小企業は、資材価格が上がっても、なかなか転嫁できないのに、彼らは、いとも簡単に値上げする。当たり前のように。やはり、どこかおかしい。

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2012年6月17日 (日)

狂言『瓜盗人』から考える

まだ時期は早いが、実りの秋になると、毎年、果樹園に、たくさんの果物泥棒が現れることが報道される。彼らが盗む量は大量で、あきらかにプロの仕業。昔から、そういうことがあったのかもしれないが、度を越している。丹精込めて作られた作物を盗まれた農業者の悲しみはどれほど大きいことか。

さて、狂言にも『瓜盗人』というものがある。流風は、スイカは好きだが、瓜はあまり好きではない。両親は、瓜が大好きだったから、これは子供時代の食経験が左右するのであろう。

狂言の方は、瓜農園の百姓が、先日、鳥や獣に畑が荒らされていたので、頑丈に、垣根で囲い、案山子を立てる。ちょうど、夜、そこに盗人が夜陰に乗じて、瓜畑に入ってくる。かつて、入って盗み食いした瓜があまりにも美味しかったので、再度盗もうと云う魂胆だ。

だが、今回は、夜なので、灯りを照らせば怪しまれるので、暗いから瓜の場所が分らない。瓜の場所が分からず、何回か転んだり、はいずりまわって、探している内に、案山子を見つけ、人間と勘違い。そこで、案山子に盛んに詫びを入れる。

だが、そうこうするうちに、相手が案山子と分り、打ち捨てる。翌朝、見回りに来た百姓は、壊された案山子を発見して、畑が荒らされていることに怒り心頭。そこで、自らが、案山子になり済ますことを考え実行。

そこへ、また、のこのこ盗人が、またやってくる。ところが、どうしたことか、盗人は案山子を見つけて、それを相手に祇園会で上演する出し物の稽古を始める。それは、鬼を責める稽古だ。案山子を地獄の亡者に見立てて、自分は鬼の役をする。百姓がなり済ましている案山子は、思い切り打たれてしまう。

引き続いて、今度は、逆に自分が罪人になり、責められる役をする。そこに「行かんとすれば、引き留む。留まれば、ちょうど打つ」という場面があり、案山子の持つ杖が、肩に落ちて打たれるので、驚いた盗人は、そういう仕掛けになっていると思い、稽古を続けると、結局、百姓に、打たれて、盗人は逃げまどうて、終演というものだ。

この狂言では、見えない相手を先入観で捉える危うさを、皮肉っている。そして、単に盗人が、瓜を盗んだだけでなく、案山子を相手に出し物の稽古をするという、もう一つの面を見せていることだろう。

つまり、人間には、多くの顔を持つ。悪人が、完全な悪人ということもなく、善人が完全な善人ということもない。人間という者は、常に危うい。そういうことを伝えている様に思う。

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2012年6月15日 (金)

法道仙人のこと

弁慶がインド系の子孫ではないかと記したが、日本には、古代、インドから法道仙人がやってきている。法道仙人が、実在の人物ではなく、想像上の人物という見解もあるが、少なくとも、法道仙人に相当する人物が、来日したことは間違いないように思う。

ただ、法道仙人は、3世紀中頃にやってきたと云う話もあれば、彼が650年頃を中心に多くの寺を開いたという話もある。8世紀ごろまで、彼は出現するから、彼は500年以上生き続けたことになる。まあ、それは現実的ではないから、単なる伝説と捉える向きもあるのだろう。

彼についての話は、法華山一乗寺(兵庫県加西市)の寺伝が有名だ。それによると、彼は天竺の霊鷲山(りょうじゅうせん)の仙苑に住む五百持明仙の一人という。金剛摩尼の法を修行し、悟りを開く。超能力の持ち主で、不老不死。瞬間に、あらゆる所を移動できたと云う。羨ましい。でも、思った瞬間に、移動してしまうとすれば、せわしない。瞬時に移動できるのも、善し悪しだ。

その彼が、紫雲に乗って、百済を経由して、日本に到る。そして、どこに降りようかと思案。そうすると、山並みが蓮の花のように八葉に分れた谷から、五色の光を放つ霊地を発見。思わず千手観音像を持って、法華経を唱えたと云う。彼が持って来たのは、この千手観音像と空鉢のみであった。

降り立ったところは、それは播州印南郡であり、後に法華山と呼ばれるようになる。紫雲に乗ってやってきたと云うのは、嘘っぽいが、後世の者が、不明なことを誤魔化したのであろう。なお、空鉢とは、仙人の意のままに飛び回るものらしい。当時に、リモコン技術があったのかな(笑)。

そして、妙に具体的な話も伝わっている。大化元年(645)に、大宰府の船頭、藤井麻呂が租税米を船に積んで播磨灘に差し掛かった頃、法道仙人が、食を乞う。しかしながら、船頭は、これは朝廷に納めるものだからと断る。当然のことだ。

ところが、ところが、法道仙人は、意外な行動をとる。すなわち、術を使うと、船中の米俵千俵を空鉢に従って、後を追うように、飛んでいき、次々と法華山に積み上げられる。これには、船頭も参ってしまって、仙人に詫びを入れると、仙人は、再び飛ばして返却する。ところが、一俵のみは、途中で落ちてしまったということだ。

仙人も大人げないが、船頭の断り方も、頭ごなしに、偉ぶっていたのでしょう。そこで、少し、彼をからかってみたのが本心かも。こういうことろは、実際は、どのようにしたのか分らないが、多分、税をとりたてられて苦しい生活をしている、当時の庶民から喝采を浴びたことだろう。

また、別の話では、彼の評判は宮中にも聞こえ、大化5年(650)、孝徳天皇が病気になられると、法道仙人が召される。そうすると、病気が全快され、そのお礼に、法華山に、大殿を寄進し、一乗寺を開くことになる。

彼は、その後、播州に120以上の寺院を一気に開基したことになっているが、それは超人的。いくら仙人だからと言っても、無茶。これは彼の弟子たちが、彼の教えを基に開基したと考えるのが普通だろう。

残念ながら、これ以上、彼については、よく分かっていないが、少なくとも、彼の教えが播磨に広まったことは確かだろう。彼の教えは、仏教的な流れもあるが、後に、同じく播磨出身の芦屋道満によって陰陽道という形でも引き継がれていく。法道仙人の及ぼした影響は計り知れない。

*参考 法華山一乗寺

       西国二十六番目札所。

       兵庫県加西市坂本町821-17

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2012年6月14日 (木)

書写山円教寺と弁慶

『義経記』には、次のような話がある。まだ鬼若と名乗っていた弁慶は、熊野神社の別当の子として育てられる。果たして、実際に、別当の子であったかは、若干、疑わしい。生まれ落ちると、既に髪は肩まで伸び、前歯も奥歯も揃っていたという。

これは多分、捨て子を拾ってきたのだろう。そして、母親は、比叡山に、その子供を預ける。だが、持てる怪力がわざわいし、狼藉が過ぎて、比叡山を追い出される。そういうことで、地方を放浪している時、たまたま書写山を訪れ、修行者に、うまいこと混じってしまう。

それでも、彼は、それなりに円教寺で修行していた。ところが、修行を終え、下山の段の折、昼寝をしていると、皆が自分の顔を見て笑う。そこで、井戸の水に、顔を映し出してみると、墨で、「下駄」と悪戯書きがしてあった。悪戯好きの信濃坊戒円がやったことだった。

それに怒った鬼若が、戒円とやりあった末、講堂の屋根の上に投げ飛ばす。ところが、不幸なことに、戒円が、火のついたクヌギの木を持っていたため、これが講堂の軒に挟まり、それが風に煽られて、燃え広がり、数多くの堂塔が焼失したという。

このため、戒円やその他の書写の11人が首を斬られて罰せられる。不思議と、鬼若は罰せられていない。要するに、因を作った戒円等に、責任が負わされている。面白半分でやった悪戯行為が、身の破滅につながっている。彼らも、悪戯行為が、まさか、そういう事態になるとは思わなかっただろうが。

その後、鬼若は、義経と出会い、彼を支えていくことになったのは、このような事件が影響しているのだろうか。なお、書写山には、鬼若が顔を映した鏡井戸や修行に使った机、お手玉石が残っている。書写山に行かれることがあれば、見てもらいたいものだ。

また、鬼若はインド系の黒人だったという話も伝わっている。彼の、そのような絵も実際、残っている。それを見ると、その風貌は、明らかにインド人に似ていて、海坊主のようだ。それ以前の3世紀ごろには、インド僧(法道仙人)は播磨の地に来日して、仏教をつたえていることからも、あながち否定できない。古くから、日本はインドと交流があったのだろうか。

そのように考えると、弁慶の出生の謎は色々考えられる。

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2012年6月13日 (水)

愛想を尽かされた男~狂言『鈍太郎』

男はも一つのことに夢中になると、他のことは、ほったらかし(放置するの意)になりのがちだ。一人の場合は、まだいいが、妻とかパートナーがいると、恨まれる。また、これから関係を持とうと思っている異性からも、冷たくあしらわれる。こういうことは、多くの男が経験しているだろうが、男の性(さが)は、なかなか女性には理解されないようだ。

狂言にも、『鈍太郎』に、そのようなことが描かれている。あらすじは、次のようになっている。

訴訟のため、西国に下り、都を三年間、留守にしていた鈍太郎が、久しぶりに、都に戻る。鈍太郎には、下京に本妻、上京に愛人がいる。まず、本妻のところに行って、戸を叩いて、声をかけると、本妻はそっけない。

実は、鈍太郎は三年間、手紙の一本も妻に出していないから、妻も音信のない彼が、戻ってくるはずはないと思い込んでいる。今の日本のように電話一本で連絡も取れないし、メールなんて道具もない。手紙は、まめな人間にはできるが、案外、煩わしいもの。そこで、鈍太郎も、手紙を送らなかったと思われる。まあ、遊び呆けていたとも考えられるが(笑)。

そんなところに声をかけられても、怪しいと思い、用心して、棒使いを夫に持ったと言って、鈍太郎を追い払ってしまう。怒った鈍太郎は、それならと愛人のところへ行くと、近所の男たちの冷やかしと勘違いし、愛人は、長刀使いを夫に持ったと、これも追い返してしまう。2人の女に捨てられたと感じた鈍太郎もは、出家して、諸国修行することにする。

男というものは、単純で、諦めも早い。無常感とかいうのも、男の性で、女性が、あまり無常感を言うことは少ないと思う。男は愛する妻を失って、無常感を感じることも多いようだが、妻の方は、夫を失っても、しばらく涙にくれても、少し経つと元気に過ごされている。

ところが、そんな2人の女性も、虫の知らせか、追い返した男が、もしかしたら鈍太郎ではないかと少し気になって、それぞれの家に向かうと、鈍太郎が出家した噂を聞く。2人は街道の途中で待ち伏せし、坊さん姿の鈍太郎に出会い、それぞれの家に戻るように言う。

こういことは女性は手早い。行動力に加えて情報収集力。男にできる芸当ではない。結局、鈍太郎は女たちに見つけられてしまう。しかし、一旦決めた男の意地。鈍太郎はなかなか戻ることに同意しない。つまらない男の意地かもしれないが、男とは、そういうものだと思う。

しかし、2人の女から懇願され、顔も立ったので、ようやく、月の前半は、愛人のところに行き、後半は正妻のところに行くことで同意する。鈍太郎は、本妻・愛人の手車に乗って、得意満面で帰途に就いて終演。まあ、これは男の夢でしょうね(笑)。

落語でも、夫が本妻と愛人宅を行き来させられるものがあるけれど、本妻は、愛人の存在を了承していても、嫉妬は避けられない。ただ、男に甲斐性があれば、経済的に苦しい女性を養うのは、昔は、許されたのも事実。

この狂言は、そういうことを前提に描いている。一夫多妻の国があるが、全ての妻を満足させるように、それはそれで努力されているとのことだ。かの国の夫は嘆いていたから、大変なようだ。

二兎を追う者は、一兎をも得られず。最近の芸能人も、二股で沸いていたが、本妻と愛人の間をうまくやっていくのも、至難の業だろう。まあ、そういうことなくても、愛想を尽かされないためには、こまめな連絡は大切だ。この狂言もいろいろ教えてくれる。

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2012年6月12日 (火)

書写山円教寺と性空 その四

出家名で、寂心という人がいた。俗名は、慶滋保胤(よししげのやすたね)と言った。陰陽道で朝廷に仕えた賀茂忠行の次男である。だが、陰陽道の道は歩まなかった。むしろ、母親の影響なのか、幼い時から、阿弥陀如来に帰依していた。

また漢詩人として文章にも秀でたと云う。彼は、後に『日本往生極楽記』、『池亭記』を著わしているから、当時の相当の教養人でったことがうかがえる。その彼は、息子の成人を見届け、968年に、かねがね考えていた出家をしている。

源信に師事して、念仏活動を広め、当時、朝廷への影響力も大きかった。その後、彼は諸国行脚して播磨に到る。やがて、この地が気に入り、性空と親しく交わるようになる。信仰に於いては、性空を師と仰ぐようになる。後に、八徳山八葉寺(現、兵庫県神崎郡香寺町)を開く。

そこで、面白いエピソードがある。ある日、突然、性空から、湯釜が送り届けられた。それは性空が日常使っているもので、かねがね欲しい気持ちは抑えていた。欲しい気持ちは口にしていないのに、性空は、それを察して、ある日、書状とと共に、プレゼントしてくれたのだ。

まあ、欲しい態度が、あまりにも見え見えだったのだろう(笑)。もちろん、勘の鋭い性空は、相手のちょっとした仕草や目線、言葉つき、瞬間の雰囲気で、読みとったのも事実だろうけれど。そういう人は、どこにでもいる。男は少ないけれど。

また、寂心は、具平(ともひら)親王を紹介する。具平親王は、村上天皇の第七皇子で、あらゆる文化に通じた才人だった。当時の文壇の中心人物で、「後中書王」とも称されている。その彼も性空を師と仰ぐようになり、仏道に帰依する。

彼らには、皆、大変、馬があったようで、仏道だけでなく、文化面でも、同志感を強めていく。後に、花山法皇が、藤原行成に『書写上人伝』を書かせるが、その原文を書いたのは、実は、具平親王ということだ。その空気を分っていた具平親王が記したのだったら、かなり正確に人物像を描いていることだろう。

他には、大江定基も、性空と関わりがある。元妻と離縁し、別の女性を妻として任地に赴くが、妻の死により、愛妻家だった彼は、しばらく、彼女を埋葬できなかった。しかし、ある日、彼女に口づけしようとすると、異様な匂いがして、思わず避け、人の一生の空しさを感じて出家し、寂照と名乗ったと伝えられる。彼は寂心に師事している。

そこで、面白い話が伝わっている。寂照が、ひどい服装で、乞食をしていると、たまたま離縁した元妻と出会い、彼女に、「それみたことか」と言われる。しかしながら、寂照は、そのことで修行に励めると感謝し、彼女を拝んだとのこと。

また師の寂心との関係で、渡宋直前に、性空にも教えを乞うている。彼は性空の修行を、この世の人とは思われないと絶賛し、「挙世真仙」と讃えている。まもなく、寂照は、宋に渡り、大変尊敬され、真宗より円通大師の号を授けられている。ただ、帰国できずに、亡くなる。再三、帰国を促しても、帰ろうとしなかったとも言われる(*参考)。

*  参考

以前の記事で『富岡鉄斎展』のことを記したが、富岡鉄斎は六曲一双屏風に「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」を描いている。

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2012年6月10日 (日)

書写山円教寺と性空 その三

性空に深く帰依した人としては、花山(かざん)法皇が挙げられる。彼は、17歳で、天皇になるが、あまり後見人に恵まれなかったようで、自分の外孫(後の一条天皇)を次の天皇にしたい藤原兼家の陰謀で、法皇にさせられてしまう。

そういうこともあって、心に多くの悩みを抱え込んでいたのだろう。それは、大河ドラマ『平清盛』で描かれていた、崇徳院と似たような状況だろう。藤原家の専横は、当時から、かなり激しかった。天皇家は、代々、外戚に利用され続けてきたということだろう。

また花山法皇は、愛していた妃を亡くしていたことも、心の傷を深くする。そこで、その傷を癒すため、京でも、すでに評判の高かった性空との結縁を強く求め、やがて、その教えに接し、観音信仰に強く惹かれ、深く帰依するようになる。人間、心に傷があると、何かに頼りたいという気持ちは分らぬでもない。

そして、書写山円教寺に参詣するのは、当然の成り行き。そこで、性空がどのような教えをしたのかは不明だ。ただ性空は、言葉は少なかったようで、ヒントになる言葉を投げかけた程度ではなかったか。基本的に、悩みは自分自身で解決するしかない。

更に、その帰りには、観音思慕の旅を続け、西国三十三か所巡礼の端緒を開かれる。御詠歌として、書写山については、次のようになっている。

    はるばると 登れば書写の 山おろし

         松の響きも み法なるらん

やがて、花山法皇より、性空が建てた諸堂に対して、「円教寺」という寺号を与えられ、勅願寺の待遇が与えられる。延元元年(987)には、彼の寄進により講堂も完成し、比叡山から有名な高僧たちにより落慶法要が営まれる。その後も、常行堂、多宝塔、鐘楼などが建立される。これにより、多くの伽藍が立ち並び、「西の比叡山」と呼ばれるようになる。

その後、法皇は書写山に登った時に、絵師延源を同行させ、隠居した性空に対面させ、控えの間で肖像画をデッサンさせている。本来、上人の肖像画を描くことはタブーだろうから、その時、地震があったらしい。勝手なことをしたからかと、法皇は畏れたと云う。

でも、そのお陰で、後世の者は、性空の顔を確認できる。その肖像画によると、性空の顔は、長い顔で、眉毛は八時半で、眼は、下を向いており、耳の位置が眼より上にある。人相から行くと、かなり直感力が強い人であったのかもしれない。彼は寛弘5年(1007)に、98歳で遷化する。大変な長寿であった。

性空は亡くなっても、書写山円教寺は、厚い信仰は続く。承安4年(1174)には、あの後白河法皇が、円教寺に7日間留まった記録がある。目的は、権勢を誇り太政大臣になっている平清盛と対抗する目的だったと伝えられる。寺院勢力を我が勢力に加えたかったのであろう。

鎌倉時代になっても、その隆盛は続くのだけれど、相次いで、焼失するが、信者たちの訴えにより再興する。その後、後醍醐天皇が、鎌倉幕府打倒の動きを察し、流されていた隠岐を脱出し、書写山円教寺に立ち寄り、一時的な皇居とする。

ただ、残念ながら、その後も、書写山円教寺には、多くの災難が訪れる。落雷等による、再三の焼失だ。しかし、そのたびに、再興の動きが起こり、そのスピードは様々だが、再興されている。ただ、権力者の力の低下により、段々と、再興スピードが弱まってくる。中には、再興されない建物も出てくるようになる。これは宗教と時の権力者の結びつきを証明するようなものだ。

 

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2012年6月 8日 (金)

書写山円教寺と性空 その二

性空のもとに押し寄せた貴族は、藤原実資(さねすけ)、藤原公仁(もちひと)等、有力貴族をはじめ、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮であり、後一条天皇の母になる、彰子(しょうし)も、和泉式部に先導させ、女官を引き連れ、訪れている。

そこで、有名なのは、この知らせを聞いて、性空は、居留守を使ったこと。栄華の人々は会いたくないという心情。性空は、元々も、客嫌いだったが、彼女らの動機は、所詮、観光三昧と思っていた。それに和泉式部の悪い噂も伝わっていたかもしれない。予想に違わず、彼女らは、女性ならでわの、賑やかさで、ワイワイ話しながら、やってきた。

もちろん、彼女らも、書写山に入山する段階では、少し静かになっていた。本当に、性空に相談したい事情はそれぞれにある。まあ、人生相談に行く趣。だが、性空の指示により、門前払い。そこで、和泉式部が柱に張り付けて書き残した和歌が、次のものだ。

   暗きより 暗き道にぞ 入りける

        遥かに照らせ 山の端の月

解釈は、「暗い所から暗い道をたどるように、救いようのない無明の世界にいる私を、山の端の月よ、どうか慈悲の光で照らして、私の進むべき道をお示しください」というような意味だろう。

これは女流歌人として名を高めるほど、多くの男が言い寄り、男女関係に翻弄される我が身を嘆いたものかもしれない。性空は、この和歌を見せられ、驚いた。救いを求める和泉式部の心情は、彼の修行の経典に書いてあることと一致する。

和泉式部は、ふしだらな女流歌人と思っていたが、案外、物事の本質が分っているらしい、と感心し、急遽、一行を呼び戻させる。こんなことは滅多にないことであった。そして、返歌を示し、懇ろに法を説いたという。

   日は入りて 月はまだ出ぬ たそがれに

         掲げて照らす 法(のり)のともしび

解釈は不要であろう。法によって、明らかにして進ぜよう、という感じ。少し、上から目線ですね(笑)。でも、性空も、歌の心得は十分にあったことを示すものだ。和歌の心が分らなければ、追い返したままであったかもしれない。性空は、単なる修行者ではなく、幅広い知識の上に、仏の道を学んでいたと思われる。

 

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2012年6月 7日 (木)

一体改革の内容再確認と政府の広報

消費税のアップ論議も大詰めのようである。もちろん、消費税等改革であり、消費税だけが上がるわけではない。その辺の報道が極めて曖昧になっている。マスコミは、もっときちんと報道してほしいものだ。

さて、野田首相が、税と社会保障の一体改革と言って久しい。国会では、与野党の論争があるが、各党の思惑もあり、国民には分りにくくなっている。基本的に社会保障費と消費税の関係を整理すると、見えてくることは次のことだ。

一、社会保障費は、現行制度を維持する限り、毎年1兆円増加する。また基礎年金の財源は毎年2.6兆円投入する必要がある。

二、民主党の主張する最低保障年金、後期高齢者医療制度の廃止に伴う新制度に要する財源は、今回、消費税を5%上げようとしている分には、全く含まれておらず、更なる追加の増税が必要ということ。国民の賛意を取り付けることはかなり難しい。

三、5%の消費税の増税分の使用う目的の説明が、ころころ変わっている。新たな説明では、社会保障の充実、社会保障の安定化と内容をぼかしている。やはり社会保障費以外に予算を計上するという疑念は消えない。ただ、すでに予算で先食いした基礎年金国庫負担二分の一が含まれていることは確かだ。これは、少子高齢化に伴うもので、税の投入は止むをえない。

四、社会保障費は、年金、医療、介護費用だけと思っていたが、政府は、少子化対策費も盛り込まれている。少子化対策費は、社会保障費とするには違和感がある。少子化対策は、労働政策の分野で賄われるべきものだろう。消費税増税分を回して欲しくない。

まだ、不勉強だが、以上のような感じ。国の台所事情が苦しいのは分るが、政府の説明の仕方は稚拙な印象を受ける。また政府は、首相が記者会見で述べれば、国民に説明がついたとのニュアンスがある。しかし、記者会見したからと言って、国民に伝えたとはならないだろう。

依然、民主党政権は広報が弱い。説明は、いろんなルートを通じて、多面的に行う必要があるが、できていない。もっとわかりやすく整理して、本当の話を国民に伝えるべきだろう。誰もが理解できるレベルまで、話をブレークダウンする努力がまだ足りないように思う。

*追記

ここで問題にしているのは、「一体改革」の中身の無さ。フレーズは美しくても、実態がなければ意味はない。消費税を上げたいのなら、もっと正面から、国民を説得すべだった。

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2012年6月 6日 (水)

書写山円教寺と性空 その一

先日、姫路市書写の里 美術工芸館に訪問したことを記したが、今回から、書写山円教寺について、何回かに分けて記してみよう。書写山円教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)は、姫路城と並ぶくらいの歴史的資産であるが、意外と過去の歴史については知られていない。せいぜい、トム・クルーズと渡辺謙、小雪主演の映画『ラストサムライ』のロケがされたことぐらいでしか、若い人の記憶にはないかもしれない。

その書写山円教寺は、平安時代中頃に、性空(しょうくう。910~1007)によって開かれた。書写山は、標高370メートルの山だが、遠く古代から、地域の人々より祈りの山として崇められていた。奈良時代には修行僧が多く集まり、仏を礼拝する道場になっていたという。修行者が経典をたくさん書写していたことから、その名がつくようになる。

一方、貴族の家に生まれた性空は、幼い時から、法華経を習い、出家修行に憧れていた。仏門に入ったのは、36歳になってからで、その動機は、当時、京には盗賊があふれ、民衆の苦難を救う思いからであった(*注)。はじめ比叡山で学んだが、朝廷から保護されている比叡山に飽き足らず、山の修行に憧れて、九州の山、霧島山、脊振山に籠って、約20年間、修行する。

修行が終わり、京に帰る途中、偶然、紫色の雲が現れ、それに導かれて登ったのが書写山であったという。ただ、紫雲たなびいたことにしているが、性空は、姫路飾磨の思案橋で、京に行くか、書写山に登るか、かなり迷ったようだ。人間、性空も迷いながらも、彼の意思で入山したのは間違いのないところでしょう。

そして結果的に、書写山を選び、徹底した修行に励む。ただ、他の修行者たちは、修行が終わると下山し、祈祷して布施を得ることを繰り返していた。性空は、俗化することを嫌い、山を動こうとせず、下山の心を断つ。その評判は各地に広がり、やがて都にも伝わり、教えを請う人たちがやってくるようになる。

円融上皇は、重い病気に罹られたので、性空を都に招き寄せようとするけれど、性空は頑として動こうとしない。時の権勢を誇る都人を恐れることなく、一徹な姿勢を貫くと、更に、評価を高まっていき、人々は書写山に押し寄せることになったという。

*注

実際は、別の話も伝わっていて、性空が子供の頃、藤原時平の孫、時朝(ときとも)の家で、子息の学問相手をしていて、うっかり、その家の宝物の硯を割ってしまう。ところが、その家の子が、彼をかばって、私が割ったと言えば許される、と言って名乗り出たところ、父親は、その場で、その子供の首をはねてしまった。性空は、この衝撃を忘れることができず、彼の菩提を弔うため、出家を志したという。

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2012年6月 5日 (火)

今後の資本市場をどう見るか

(注意) 以下の記事は、筆者個人の印象によるものです。判断は読者御自身で行ってください。

現在、為替市場も、資本市場も荒れている。原因はユーロ問題という。確かに、為替の問題は、その影響が大きいかもしれない。だが、資本市場の下落は、それを理由にしているが、必ずしも、そうでないかもしれない。

確かに、世界には、過剰に発行された通貨が滔々と流れている。そのため、いつもは穏やかに流れているが、ちょっとした変化で、突如、激流化するように見える。それは米国をはじめ、先進諸国が自国通貨を刷り過ぎたことから起こると思いがちだ。

ただ、世界の資本の循環は、一定のルール化で動いている。一般的に指摘されるのは、一つの流れだと言うこと。サイクルということだ。誰も、この流れに逆らうことはできない。案外、このサイクルは見落とされがちだ。

今回の株式市場の下落も、そのサイクルの流れの一環で、終盤に差し掛かったと思うが、日経平均で7500円程度までの下落はありうると専門家は指摘する。そこまで行かなくても、7800円程度まで下がるだろう。

だが、気をつけなければならないのは、相場全体としては、中長期的には下げ相場だろうということ(*注)。これから相場は、上げ下げしながら、切り下げていくだろう。大体2、3年後ぐらい続くと思う。

株式の外国人投資家の持ち株比率が相当に高まっておれば、日経平均が6000円台も将来ありうる。為替は、一ドル50円台に突入する可能性は低いが、現在より、円高になる可能性は否定できない。

もちろん、谷深ければ山高しの金言は生きている。何かを理由として突如反転して、上げ相場に転じるだろう。それは4、5年後かもしれない。4、5年後の時点が、終わりなのか、あるいは全ての始まりなのかは、誰も分らない。それは恐慌につながると指摘する人もいる。

ただ、今後、投資家にとっては、投資リスクが高まることだけは確かだろう。チャンスということも確かだが、タイミングによっては、大きなリスクを抱え込む可能性も大きい。つまり、このような相場では、短期売買が主流になるから、荒れやすい。企業や団体の資金運用者は堅実な運用を心掛けたいものだ。また個人投資家の方も、そういうことを念頭に入れておく必要がある。

*注

別の見方では、若干早く、2013年から数年間、日米は株式バブルになるという見解もある。その後、バブルが崩壊して、世界恐慌に突入すると言うのは、同じ。

*追記

もちろん、投資のプロは、下げ相場でも、利益を計上するだろう。だが、一般投資家は、プロの真似ごとは止めておいた方が賢明だ。最近は、一般投資家に、いろんな手口を教えるが、本当に相場を理解して、運用できる人は稀であろう。

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2012年6月 3日 (日)

若い人の生活設計

現役世代の若い人の生活設計はどうあるべきなのだろうか。若い時は、まだ手にせぬボーナスをあてにして買い物したりして、リスクをあまり検討しない人も多い。確かに、色々関心事が多く、また、付き合いの関係で、ある程度、出費がかさむのは仕方ない。それを無理して、貯金ばかりに励むのも、どうかと思う。

でも、将来に備えて、ある程度の貯蓄は望まれる。若い時は、まだ時間があると思いがちだ。ところが、時間は、あっという間に過ぎ去る。そういうことを少し意識して、将来に備えることは悪くない。では、どのように備えるか。

やはり、「悲観的に計画し、楽観的に実行する」のが宜しいようだ。この言葉は、京セラの創業者の稲盛和夫氏の言葉として流布している。本来、これは経営面での話であろうが、個人の生活設計の指針としても有効だろう。

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2012年6月 2日 (土)

清水公照という人

清水公照の作品が見たくなり、先日、「姫路市書写の里 美術工芸館」に行ってきた。ここには清水公照の泥仏が約300体展示されている。その他にも、彼が制作した壺、皿、花器、書画などが展示されていた。

清水公照と言っても、十年くらい前に遷化されているから、若い人は御存じないかもしれない。彼は、東大寺第207世、208世別当だった僧だ。かつて彼の講話を聞いたような記憶があるが内容は覚えていない。きっと、皆を笑わせていただろう。庶民には、身近なお坊さんと思っていた人が多い。

不思議な人格の持ち主で、彼がいると人が集まり、お金も集まった。それゆえ、東大寺大仏殿の昭和大修理も成し遂げられた。庶民との接触を大切にし、洒脱なおしゃべりで、人々を魅了し、昭和の「良寛」として親しまれた。

ただ、彼は、若い時から、そうであったわけではなく、50歳を過ぎて、東大寺幼稚園園長に就任してから、大きく変わられたようだ。すなわち、園児たちと触れ合うことで、何かを得られたのだ。園児たちは、屈託がなく自由で、絵を描かせても、紙粘土の人形を作らせても、捉われのないものを作る。

それに触発されて始めた彼の絵や紙粘土を陶土に置き換えて作った人形の制作や絵付けは、どこかユーモラスで、温かみがある。見ていて、ほっとする感じだ。ところが、彼の家族のよると、私生活は神経質で、謹厳実直であったという。作品内容は、全く逆の感じだ。作品に自分とは逆のものを求めたのかもしれない。確かに、そういうことはあるだろう。

いや、そうではなく、かつて、「芸術は爆発だ」と言った芸術家もいたが、彼の本質は、芸術に現れているのかもしれない。家族には、神経質に見えても、本当は楽天家だったのかもしれない。そうでなくては、あんな大事業は成し遂げられない。自分の本質は、案外、作品に出てしまうものらしい。

*参考 姫路市書写の里 美術工芸館

姫路駅より、神姫バス「書写ロープウェイ」行き終点下車。約25分かかる。降りて、歩いて3分。今の時期は、書写山の麓にあるので涼しい。竹藪の中にある。また、ここから、ロープウェイに乗って、書写山円教寺に行くのもいい。一般的には逆コースらしい。つまり、ロープウェイ上り→円教寺→ロープウェイ下り→レストラン・食事→姫路市書写の里 美術工芸館。

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2012年6月 1日 (金)

山片蟠桃のこと

大阪府が創設した賞に、『山片蟠桃賞』がある。これは国際的な日本学に関する文化賞で、日本の内外の研究者を対象としている。現在は、その方向感に迷いがあるようだが、日本に関心のある世界の人々は増えているのだから、この賞は、その意味の本質を失わないようにしてほしいものだ。

その山片蟠桃(やまがたばんとう)については、最近は、あまり知られていない。彼は江戸時代の商人であり、博覧強記の啓蒙学者でもあった。彼が生まれたのは、現在の兵庫県高砂市で、生家は綿糸取引をしていた。屋号は、そのものずばり『糸屋』で、父、長谷川小兵衛の次男として誕生している。

糸の相場は、動きも激しく、商売の厳しさを子供時代から見聞きして育っている。そして、親の方針で、当時、当地には、民家の子供たちに教養を身につけさせる私塾が開校しており、そこで、学問を学んでいる。

ただ、次男故、13歳で、大阪の両替商『升屋』の分家に養子に入り、その土地柄、商売を厳しく鍛えられていく。また、大阪でも、学問は続け、学校で、儒学を学んでいる。その他には、自然科学、天文学の範囲まで、広く学んでいるようだ。

もちろん、学問だけやっていたわけでなく、24歳で番頭を任せられると、店を仕切っている。そこでは、先に学んだ学問が役に立ったようだ。彼は徹底した合理主義で、通した。「先憂後楽」を旗印に、合理主義を持ち込んだ。だから、成功しないわけはない。

店は、大名貸ししていたのだが、仙台藩の不払いで大きな危機に陥る。そこで、知恵を出して、仙台藩の面目を潰さずに、問題を解決している。商売の方は、そのようであったが、学問も続け、より合理主義に志向していく。結果的に、無神論者、無宗教主義者になっている。

それは中国のあらゆる書籍を読み、また西洋の著作も読み、トータルで出した結論だった。天文、地理、歴史、経済、文化、宗教を全て、考慮しての彼なりの結論に導いた。彼の著作『夢の代』によると、次のように述べている。

「自分は、すでに、これ(*注)を信じない。誰か天下に、これを行おうか。ゆめゆめ誤ってはいけない。ただ、草木虫けらが、枯れ、あるいは、死んだように、われわれ人間も、朽ちてゆくのにちがいはない。どうして、その因があって、いつまでも生をひくであろうか。天地の生死は、そのまま、かけながし、と知るべきである。どうして、くだくだしく、ここに死し、かしこに生まれることの世話をしようか。これは、その見識のあきらかなところ、もとより弥陀の悲願というのは、けっして仏教の通法ではない。かえすがえすも、あやまられてはならない」

(*注・阿弥陀如来が、天下の大勢に代わって、この大願を起こし、すべて三千世界の人畜草木までも成仏させるということ)

彼には、仏教も方便と思ったに違いない。仏教だけでなく、世界の全ての宗教が、普遍的なものではないと指摘する。このように、当時としては、異才を発揮したわけだが、彼には、この世の中を合理的に透徹した眼で見たかったのであろう。ただ、彼には、現代の一般の科学者のような狭い範囲ではなく、広く知識を習得した結果、そのように感じたのであろう。

彼の思いは、亡くなる直前に、高砂に戻っての、彼の辞世の句に、よく表れている。

  地獄なし極楽もなし我もなし

    ただ有物は人と万物

  神仏化物もなし世の中に

    奇妙不思議の事はなをなし

だが、単なる合理的科学者ではない。現代のような分業された専門的科学者でもない。彼は、博学を活かして、当時の全ての知識を統合して、一つの知見に高めたことに彼の先進性がある。それはルネサンスのレオナルド・ダ・ヴィンチに通ずるものがあるのではなかろうか。彼が、もう一度、再評価されていいと思う。

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