書写山円教寺と弁慶
『義経記』には、次のような話がある。まだ鬼若と名乗っていた弁慶は、熊野神社の別当の子として育てられる。果たして、実際に、別当の子であったかは、若干、疑わしい。生まれ落ちると、既に髪は肩まで伸び、前歯も奥歯も揃っていたという。
これは多分、捨て子を拾ってきたのだろう。そして、母親は、比叡山に、その子供を預ける。だが、持てる怪力がわざわいし、狼藉が過ぎて、比叡山を追い出される。そういうことで、地方を放浪している時、たまたま書写山を訪れ、修行者に、うまいこと混じってしまう。
それでも、彼は、それなりに円教寺で修行していた。ところが、修行を終え、下山の段の折、昼寝をしていると、皆が自分の顔を見て笑う。そこで、井戸の水に、顔を映し出してみると、墨で、「下駄」と悪戯書きがしてあった。悪戯好きの信濃坊戒円がやったことだった。
それに怒った鬼若が、戒円とやりあった末、講堂の屋根の上に投げ飛ばす。ところが、不幸なことに、戒円が、火のついたクヌギの木を持っていたため、これが講堂の軒に挟まり、それが風に煽られて、燃え広がり、数多くの堂塔が焼失したという。
このため、戒円やその他の書写の11人が首を斬られて罰せられる。不思議と、鬼若は罰せられていない。要するに、因を作った戒円等に、責任が負わされている。面白半分でやった悪戯行為が、身の破滅につながっている。彼らも、悪戯行為が、まさか、そういう事態になるとは思わなかっただろうが。
その後、鬼若は、義経と出会い、彼を支えていくことになったのは、このような事件が影響しているのだろうか。なお、書写山には、鬼若が顔を映した鏡井戸や修行に使った机、お手玉石が残っている。書写山に行かれることがあれば、見てもらいたいものだ。
また、鬼若はインド系の黒人だったという話も伝わっている。彼の、そのような絵も実際、残っている。それを見ると、その風貌は、明らかにインド人に似ていて、海坊主のようだ。それ以前の3世紀ごろには、インド僧(法道仙人)は播磨の地に来日して、仏教をつたえていることからも、あながち否定できない。古くから、日本はインドと交流があったのだろうか。
そのように考えると、弁慶の出生の謎は色々考えられる。
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