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2012年6月15日 (金)

法道仙人のこと

弁慶がインド系の子孫ではないかと記したが、日本には、古代、インドから法道仙人がやってきている。法道仙人が、実在の人物ではなく、想像上の人物という見解もあるが、少なくとも、法道仙人に相当する人物が、来日したことは間違いないように思う。

ただ、法道仙人は、3世紀中頃にやってきたと云う話もあれば、彼が650年頃を中心に多くの寺を開いたという話もある。8世紀ごろまで、彼は出現するから、彼は500年以上生き続けたことになる。まあ、それは現実的ではないから、単なる伝説と捉える向きもあるのだろう。

彼についての話は、法華山一乗寺(兵庫県加西市)の寺伝が有名だ。それによると、彼は天竺の霊鷲山(りょうじゅうせん)の仙苑に住む五百持明仙の一人という。金剛摩尼の法を修行し、悟りを開く。超能力の持ち主で、不老不死。瞬間に、あらゆる所を移動できたと云う。羨ましい。でも、思った瞬間に、移動してしまうとすれば、せわしない。瞬時に移動できるのも、善し悪しだ。

その彼が、紫雲に乗って、百済を経由して、日本に到る。そして、どこに降りようかと思案。そうすると、山並みが蓮の花のように八葉に分れた谷から、五色の光を放つ霊地を発見。思わず千手観音像を持って、法華経を唱えたと云う。彼が持って来たのは、この千手観音像と空鉢のみであった。

降り立ったところは、それは播州印南郡であり、後に法華山と呼ばれるようになる。紫雲に乗ってやってきたと云うのは、嘘っぽいが、後世の者が、不明なことを誤魔化したのであろう。なお、空鉢とは、仙人の意のままに飛び回るものらしい。当時に、リモコン技術があったのかな(笑)。

そして、妙に具体的な話も伝わっている。大化元年(645)に、大宰府の船頭、藤井麻呂が租税米を船に積んで播磨灘に差し掛かった頃、法道仙人が、食を乞う。しかしながら、船頭は、これは朝廷に納めるものだからと断る。当然のことだ。

ところが、ところが、法道仙人は、意外な行動をとる。すなわち、術を使うと、船中の米俵千俵を空鉢に従って、後を追うように、飛んでいき、次々と法華山に積み上げられる。これには、船頭も参ってしまって、仙人に詫びを入れると、仙人は、再び飛ばして返却する。ところが、一俵のみは、途中で落ちてしまったということだ。

仙人も大人げないが、船頭の断り方も、頭ごなしに、偉ぶっていたのでしょう。そこで、少し、彼をからかってみたのが本心かも。こういうことろは、実際は、どのようにしたのか分らないが、多分、税をとりたてられて苦しい生活をしている、当時の庶民から喝采を浴びたことだろう。

また、別の話では、彼の評判は宮中にも聞こえ、大化5年(650)、孝徳天皇が病気になられると、法道仙人が召される。そうすると、病気が全快され、そのお礼に、法華山に、大殿を寄進し、一乗寺を開くことになる。

彼は、その後、播州に120以上の寺院を一気に開基したことになっているが、それは超人的。いくら仙人だからと言っても、無茶。これは彼の弟子たちが、彼の教えを基に開基したと考えるのが普通だろう。

残念ながら、これ以上、彼については、よく分かっていないが、少なくとも、彼の教えが播磨に広まったことは確かだろう。彼の教えは、仏教的な流れもあるが、後に、同じく播磨出身の芦屋道満によって陰陽道という形でも引き継がれていく。法道仙人の及ぼした影響は計り知れない。

*参考 法華山一乗寺

       西国二十六番目札所。

       兵庫県加西市坂本町821-17

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