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2012年6月10日 (日)

書写山円教寺と性空 その三

性空に深く帰依した人としては、花山(かざん)法皇が挙げられる。彼は、17歳で、天皇になるが、あまり後見人に恵まれなかったようで、自分の外孫(後の一条天皇)を次の天皇にしたい藤原兼家の陰謀で、法皇にさせられてしまう。

そういうこともあって、心に多くの悩みを抱え込んでいたのだろう。それは、大河ドラマ『平清盛』で描かれていた、崇徳院と似たような状況だろう。藤原家の専横は、当時から、かなり激しかった。天皇家は、代々、外戚に利用され続けてきたということだろう。

また花山法皇は、愛していた妃を亡くしていたことも、心の傷を深くする。そこで、その傷を癒すため、京でも、すでに評判の高かった性空との結縁を強く求め、やがて、その教えに接し、観音信仰に強く惹かれ、深く帰依するようになる。人間、心に傷があると、何かに頼りたいという気持ちは分らぬでもない。

そして、書写山円教寺に参詣するのは、当然の成り行き。そこで、性空がどのような教えをしたのかは不明だ。ただ性空は、言葉は少なかったようで、ヒントになる言葉を投げかけた程度ではなかったか。基本的に、悩みは自分自身で解決するしかない。

更に、その帰りには、観音思慕の旅を続け、西国三十三か所巡礼の端緒を開かれる。御詠歌として、書写山については、次のようになっている。

    はるばると 登れば書写の 山おろし

         松の響きも み法なるらん

やがて、花山法皇より、性空が建てた諸堂に対して、「円教寺」という寺号を与えられ、勅願寺の待遇が与えられる。延元元年(987)には、彼の寄進により講堂も完成し、比叡山から有名な高僧たちにより落慶法要が営まれる。その後も、常行堂、多宝塔、鐘楼などが建立される。これにより、多くの伽藍が立ち並び、「西の比叡山」と呼ばれるようになる。

その後、法皇は書写山に登った時に、絵師延源を同行させ、隠居した性空に対面させ、控えの間で肖像画をデッサンさせている。本来、上人の肖像画を描くことはタブーだろうから、その時、地震があったらしい。勝手なことをしたからかと、法皇は畏れたと云う。

でも、そのお陰で、後世の者は、性空の顔を確認できる。その肖像画によると、性空の顔は、長い顔で、眉毛は八時半で、眼は、下を向いており、耳の位置が眼より上にある。人相から行くと、かなり直感力が強い人であったのかもしれない。彼は寛弘5年(1007)に、98歳で遷化する。大変な長寿であった。

性空は亡くなっても、書写山円教寺は、厚い信仰は続く。承安4年(1174)には、あの後白河法皇が、円教寺に7日間留まった記録がある。目的は、権勢を誇り太政大臣になっている平清盛と対抗する目的だったと伝えられる。寺院勢力を我が勢力に加えたかったのであろう。

鎌倉時代になっても、その隆盛は続くのだけれど、相次いで、焼失するが、信者たちの訴えにより再興する。その後、後醍醐天皇が、鎌倉幕府打倒の動きを察し、流されていた隠岐を脱出し、書写山円教寺に立ち寄り、一時的な皇居とする。

ただ、残念ながら、その後も、書写山円教寺には、多くの災難が訪れる。落雷等による、再三の焼失だ。しかし、そのたびに、再興の動きが起こり、そのスピードは様々だが、再興されている。ただ、権力者の力の低下により、段々と、再興スピードが弱まってくる。中には、再興されない建物も出てくるようになる。これは宗教と時の権力者の結びつきを証明するようなものだ。

 

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