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2012年6月12日 (火)

書写山円教寺と性空 その四

出家名で、寂心という人がいた。俗名は、慶滋保胤(よししげのやすたね)と言った。陰陽道で朝廷に仕えた賀茂忠行の次男である。だが、陰陽道の道は歩まなかった。むしろ、母親の影響なのか、幼い時から、阿弥陀如来に帰依していた。

また漢詩人として文章にも秀でたと云う。彼は、後に『日本往生極楽記』、『池亭記』を著わしているから、当時の相当の教養人でったことがうかがえる。その彼は、息子の成人を見届け、968年に、かねがね考えていた出家をしている。

源信に師事して、念仏活動を広め、当時、朝廷への影響力も大きかった。その後、彼は諸国行脚して播磨に到る。やがて、この地が気に入り、性空と親しく交わるようになる。信仰に於いては、性空を師と仰ぐようになる。後に、八徳山八葉寺(現、兵庫県神崎郡香寺町)を開く。

そこで、面白いエピソードがある。ある日、突然、性空から、湯釜が送り届けられた。それは性空が日常使っているもので、かねがね欲しい気持ちは抑えていた。欲しい気持ちは口にしていないのに、性空は、それを察して、ある日、書状とと共に、プレゼントしてくれたのだ。

まあ、欲しい態度が、あまりにも見え見えだったのだろう(笑)。もちろん、勘の鋭い性空は、相手のちょっとした仕草や目線、言葉つき、瞬間の雰囲気で、読みとったのも事実だろうけれど。そういう人は、どこにでもいる。男は少ないけれど。

また、寂心は、具平(ともひら)親王を紹介する。具平親王は、村上天皇の第七皇子で、あらゆる文化に通じた才人だった。当時の文壇の中心人物で、「後中書王」とも称されている。その彼も性空を師と仰ぐようになり、仏道に帰依する。

彼らには、皆、大変、馬があったようで、仏道だけでなく、文化面でも、同志感を強めていく。後に、花山法皇が、藤原行成に『書写上人伝』を書かせるが、その原文を書いたのは、実は、具平親王ということだ。その空気を分っていた具平親王が記したのだったら、かなり正確に人物像を描いていることだろう。

他には、大江定基も、性空と関わりがある。元妻と離縁し、別の女性を妻として任地に赴くが、妻の死により、愛妻家だった彼は、しばらく、彼女を埋葬できなかった。しかし、ある日、彼女に口づけしようとすると、異様な匂いがして、思わず避け、人の一生の空しさを感じて出家し、寂照と名乗ったと伝えられる。彼は寂心に師事している。

そこで、面白い話が伝わっている。寂照が、ひどい服装で、乞食をしていると、たまたま離縁した元妻と出会い、彼女に、「それみたことか」と言われる。しかしながら、寂照は、そのことで修行に励めると感謝し、彼女を拝んだとのこと。

また師の寂心との関係で、渡宋直前に、性空にも教えを乞うている。彼は性空の修行を、この世の人とは思われないと絶賛し、「挙世真仙」と讃えている。まもなく、寂照は、宋に渡り、大変尊敬され、真宗より円通大師の号を授けられている。ただ、帰国できずに、亡くなる。再三、帰国を促しても、帰ろうとしなかったとも言われる(*参考)。

*  参考

以前の記事で『富岡鉄斎展』のことを記したが、富岡鉄斎は六曲一双屏風に「阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図」を描いている。

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