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2012年6月17日 (日)

狂言『瓜盗人』から考える

まだ時期は早いが、実りの秋になると、毎年、果樹園に、たくさんの果物泥棒が現れることが報道される。彼らが盗む量は大量で、あきらかにプロの仕業。昔から、そういうことがあったのかもしれないが、度を越している。丹精込めて作られた作物を盗まれた農業者の悲しみはどれほど大きいことか。

さて、狂言にも『瓜盗人』というものがある。流風は、スイカは好きだが、瓜はあまり好きではない。両親は、瓜が大好きだったから、これは子供時代の食経験が左右するのであろう。

狂言の方は、瓜農園の百姓が、先日、鳥や獣に畑が荒らされていたので、頑丈に、垣根で囲い、案山子を立てる。ちょうど、夜、そこに盗人が夜陰に乗じて、瓜畑に入ってくる。かつて、入って盗み食いした瓜があまりにも美味しかったので、再度盗もうと云う魂胆だ。

だが、今回は、夜なので、灯りを照らせば怪しまれるので、暗いから瓜の場所が分らない。瓜の場所が分からず、何回か転んだり、はいずりまわって、探している内に、案山子を見つけ、人間と勘違い。そこで、案山子に盛んに詫びを入れる。

だが、そうこうするうちに、相手が案山子と分り、打ち捨てる。翌朝、見回りに来た百姓は、壊された案山子を発見して、畑が荒らされていることに怒り心頭。そこで、自らが、案山子になり済ますことを考え実行。

そこへ、また、のこのこ盗人が、またやってくる。ところが、どうしたことか、盗人は案山子を見つけて、それを相手に祇園会で上演する出し物の稽古を始める。それは、鬼を責める稽古だ。案山子を地獄の亡者に見立てて、自分は鬼の役をする。百姓がなり済ましている案山子は、思い切り打たれてしまう。

引き続いて、今度は、逆に自分が罪人になり、責められる役をする。そこに「行かんとすれば、引き留む。留まれば、ちょうど打つ」という場面があり、案山子の持つ杖が、肩に落ちて打たれるので、驚いた盗人は、そういう仕掛けになっていると思い、稽古を続けると、結局、百姓に、打たれて、盗人は逃げまどうて、終演というものだ。

この狂言では、見えない相手を先入観で捉える危うさを、皮肉っている。そして、単に盗人が、瓜を盗んだだけでなく、案山子を相手に出し物の稽古をするという、もう一つの面を見せていることだろう。

つまり、人間には、多くの顔を持つ。悪人が、完全な悪人ということもなく、善人が完全な善人ということもない。人間という者は、常に危うい。そういうことを伝えている様に思う。

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