« 反逆の人~赤松円心 その三 | トップページ | 反逆の人~赤松円心 その五 »

2012年9月19日 (水)

反逆の人~赤松円心 その四

同じ頃、鎌倉では新田義貞(正しくは源義貞)が挙兵し、鎌倉幕府は、ついに滅ぼされる。そして、後醍醐天皇は政権を握る。いわゆる建武の新政だ。手柄のあった武士には恩賞が下された。赤松円心も、播磨の国の守護に任命される。ところが、新田義貞の横槍が入り、円心は、播磨守護職を解かれてしまう。

これには、足利尊氏と新田義貞の官位争いが影響しているかもしれない。足利尊氏は従三位なのに対し、新田義貞は従四位。そこには格段の差がある。それを埋めるため、後醍醐天皇は、赤松氏に与えた播磨国守護を取り上げ、新田義貞に与えたのかもしれない。

しかしながら、どういうわけか、円心の方は、元の佐用荘地頭に落とされたままであった。それをなだめたのが、足利尊氏だったと推定される。この頃から、円心は、尊氏の政治センス、全体を見る力等、懐の深さに興味を示し、強い心のつながりができたようだ。あるいは、同じ志を感じたのかもしれない。

というのは、後醍醐新政は、時代を読めず、逆行して公家を中心とした政権に戻そうとしていた。これは、円心の思いとは違って、年貢や夫役をかえって厳しくするようになり、この政権では駄目だと強く思うようになっていた。また円心が支援した護良親王と後醍醐天皇の争いが嫌になっていたとも考えられる。

尊氏や円心は、朝廷に任せては新しい時代は築けないと感じ、新しい国造りは自分たちでやらなければと意を強くする。その頃、鎌倉は、新田義貞が軍と共に上京していたため、北条氏により奪回されていた。そこで、尊氏は、天皇の命なく、鎌倉に兵を向ける。その時、赤松円心にも、参戦を求め、次男を参戦させ、北条氏を破る。

だが、そのようにして、朝廷に抵抗してみたものの、尊氏・円心グループは、楠木正成・新田義貞の連合軍に負け、敗走し、尊氏は九州に逃れる。ただ円心は、その後も、上郡町赤松の地に白旗城を築き、籠城し、激しい抵抗を続けた。そして、曖昧な言葉で、新田義貞を50日間、引きつけ、尊氏が立て直す時間稼ぎを巧みにしている。

やがて力を蓄えた尊氏が、九州から攻め上がる。義貞は京都を守るため、引き上げる。1336年、尊氏軍は、神戸・湊川で楠木正成軍を打ち破り、京都に入り、建武の新政は儚く終わりを告げる。1338年には新田義貞を破り、征夷大将軍に任命され、室町幕府を開く。円心は、尊氏より、改めて、播磨守護職に任じられる。59歳の時だった。

次回に続く。

|

« 反逆の人~赤松円心 その三 | トップページ | 反逆の人~赤松円心 その五 »

姫路と播磨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 反逆の人~赤松円心 その三 | トップページ | 反逆の人~赤松円心 その五 »