« 反逆の人~赤松円心 その二 | トップページ | 反逆の人~赤松円心 その四 »

2012年9月18日 (火)

反逆の人~赤松円心 その三

鎌倉幕府は、朝廷を軽んじ、飾りもののように扱っていた。しかし、幕府の末期には、その力も衰え、そこに後醍醐天皇が現れる。当時、世の中の統制は取れておらず、乱れていた。そこで、後醍醐天皇は、討幕を試みるが、二回も失敗して、隠岐に流される。

後醍醐天皇の意志を汲んだ護良(もりなが)親王は討幕のために、各地に討幕の文書を送る。これに、いち早く反応したのが、赤松円心。意思決定と共に行動も素早い。彼は天台座主になっていた護良親王のもとに、三男の則祐(そくゆう)を送り、側近につける。地方にいては、中央の正確な動向が掴めない。これは討幕の情報収集を確実なものにするためだった。

更に長男範資(のりすけ)を京都への足がかりにするため、現在の尼崎の荘園に荘官として貼り付け、資金調達の準備をしている。戦争に資金は重要だ。物資調達を無視した戦争はありえない。そのように着々と即戦体制に手を打った。このように彼は、非常に動きが的確ですばやい。

もちろん、彼には思惑がある。佐用荘の地頭だけで終わりたくない。今こそ、圧政に苦しむ庶民を救うという大義の下に、世の中を変え、大きな領地を獲得するチャンスと踏んだのだろう。いつの時代も変化はチャンスだ。彼の用意周到な準備は、その後の戦いで、大きな成果を上げる。

1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、円心を頼って、書写山円教寺に入る。そして、円心を通じて刻々と入る京都の情報を見ながら、赤松軍に京都に進軍させる。実は、赤松軍は、一番乗りだった。六波羅探題を最初に攻撃をし、足利尊氏と共に、六波羅軍を打ち破る。

この時の、赤松軍の戦い方は、型破りだった。いわゆるオーソドックスな戦い方ではなく、典型的なゲリラ手法。まず、正面から攻めず、後方の建物に火を放ち、混乱させておいてから、戦いの訓練など、あまりさせていない浮浪者や農民に武器を与えて、攻撃させた。

彼らは混乱の中で、本当の敵を見つけ出して攻撃したから、効率がいい。誰が民衆を苦しめてきたのかのかも、あぶりだしたのだった。円心は、野心はあったが、あくまで圧政に苦しむ庶民の味方でありたかった。その時、自らの志のために戦えたと充実感がいっぱいであった。

次回に続く。

|

« 反逆の人~赤松円心 その二 | トップページ | 反逆の人~赤松円心 その四 »

姫路と播磨」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 反逆の人~赤松円心 その二 | トップページ | 反逆の人~赤松円心 その四 »