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2013年1月29日 (火)

吉野の仙女~万葉集より

古代の人々は、多くの自然現象の中からいろんな空想、妄想を紡ぎだしている。現代的には、多くは錯覚だろうが、自然科学の発達していなかった時代には当然のことであろう。ただ、文学として残っているものは、そのまま当時の雰囲気を現代人も感じ取りたい。

今回は、『万葉集』巻第三の中から取り上げてみよう。今は伝わらない『拓枝伝』に、吉野の漁夫、味稲(うましね)が、谷川で梁(やな)を仕掛けたところ、拓枝(桑の枝)が引っ掛かり、持ちかえったところ、それが仙女に化し、彼の妻(拓枝仙媛)になったという話がある。桑の木には神が宿るというところから来ているのだろう。

それをもとに詠った次の歌がある。二首目、三首目は反歌。作者は不明で、三首目は、若宮年魚麻呂(わかみやのあゆまろ)とあるが、もちろん仮名であろう。

  霰(あられ)降り 吉志美が岳を さがしみと

   草取りかなわ 妹が手を取る

流風が無理やり解釈する(*注)と、次のようになるだろうか。「霰が降って、吉志美が岳が騒がしくなって、草取りもかなわず、それを理由に、代わりに愛すべき女性の手を取った」と。手から情は伝わるものだ。今も昔も、男が気になる女性には最初にすることだ。要するに理由は何でもいい。きっかけさえあれば(笑)。

  この夕(ゆうへ) 柘(つみ)のさ枝の 流れ来ば

       梁は打たずて 取らずかもあらむ

これを解釈すると、「今夕、仙女が化した桑の小枝が流れてきたならば、梁(仕掛け)はせずに、取らないだろうか(いや、そんなことはあり得ない)」という感じではなかろうか。密かに仙女の出現を期待している歌だ。でも、下心いっぱいの詠み手には仙女はやってこないだろう。

  いにしへの 梁打つ人の なかりせば

   ここにもあらまし 柘の枝はも

この歌の解釈は、「昔々に、味稲が梁を仕掛けなかったら、今も、柘の枝葉はあったかもしれないのに残念なことだ」という感じ。彼が桑の枝を取らなかったら、私が取って、仙女を我が妻にできたのにということかな(笑)。それをないものねだりというのだろう。

*注

『万葉集』の解釈は、一般人には難しいが、独断で解釈。あくまでも、想像による解釈です。流風は言葉だけの解釈ではなく、前後関係で、妄想で解釈している。でも、いろいろ解釈すれば面白い。

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