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2013年2月22日 (金)

狂言『柑子(こうじ)』と言い訳

みかんの季節も、そろそろ終わりだが、日本の伝統的みかんに「柑子蜜柑」がある。温州みかんより小さめのものだ。今回は、これを題材にした狂言『柑子(こうじ)』を取り上げよう。いろんな内容の筋があるが、基本は同じだ。太郎冠者が悪いことをした言い訳する話。

主人(大名とするものもある)が、昨夜の宴席でもらった、枝に実が三つ成った柑子を太郎冠者に預けていたのを思い出し、彼に返すように言うと、例によって、いろんな言い訳をするパターン。大体、問題を起こしそうな太郎冠者に物を預けること自体、間違っている。逆に言えば、主人は、そういうことを想定しているのかも。多分、あいつなら、何かをしでかすだろうと。

太郎冠者の言い訳の一つ目は、柑子の枝を槍に結び付けようとしましたが、一つが門から転げ落ちそうになったので、「好事(柑子にかけている)門を出でず」と呼びとめると、木の葉を盾に止まったので、そのまま食べたと言う。

ちなみに、「好事門を出でず」とは、「よい行いや評判は、世間に伝わりにくい」という意味。太郎冠者にすれば、転げ落ちた柑子を救ったのだから、一旦、手から離れた物は食しても、いいでしょう、という感じ。まさに自分の失敗を覆い隠そうとする理屈(笑)。

二つ目は、「懐に入れて歩くうちに、太刀の鍔(つば)に押しつぶされたので、食べました」と言う。そもそも、鍔に当るように柑子を懐に入れることが間違い。自分のやった行為に気づいていない。ヌケ太郎冠者。潰れた物は仕方ないから食べてもいいでしょうという判断。持ち主に報告もせずに。こういうことは案外、今でも、あるかも。

それではと、残りの一つを主人に出せと言われて、太郎冠者は、三つ目は、『俊寛』の島流しについて(俊寛ら三人は、鬼界ケ島に流されるが、二人は赦免されたのに、俊寛一人は島に残された)悲劇を語る。そして、「人と柑子はかわれども、思いは同じ涙かな」と謳って、自分の六波羅(六波羅は平家の住まいのあった所と腹をかけている)に納めたと言って、主人に叱られる。二つは食したのに、一つだけ残すのは可哀想だから食したという屁理屈。

人間、言い訳したい時は誰でもある。太郎冠者のように、悪気はなかったのに、ついついということはあるかもしれない。そういう言い訳は、子供の時によくあった経験を持つ人は多いかもしれない。でも、言い訳は、往々にして辻褄が合わず、結局、罰せられる。失敗した時は、時間をおかず、謝る方がいい。

ただ、この狂言の言い訳は、一種の人間観や『平家物語』の中の話を引っ張りだしたことにより、言い訳も、シャレが利いて面白いものになっている。でも、関西風のダジャレと捉えれば、おっさんの無理なダジャレに近く、ランク付けは低いかな(笑)。流風のような批評家の好餌(こうじ)になりやすい話だ。シャレじゃないよ。

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