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2013年4月29日 (月)

小過を責めず~『菜根譚』より

最近は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が発達して、いろんな人が発言する機会が増えている。流風も、このブログで、意見を記したりしている。これは以前にはできなかったことだ。ただ、それに伴い、マスコミの報道や週刊誌等の記事が、SNSによって、更に拡大し、個人のことを、あれこれ、詮索して、細かい批判をしたりもされている。ただ、これをやり過ぎると、社会は委縮してしまう。

よって元の情報を発信する情報媒体は、慎重な言い回しは必要だ。その考え方として、『菜根譚』では、少し踏み込み指摘している。前集の105項目のものだ。それは次のようになっている。

 人の小過は責めず、

 人の陰私を発(あば)かず、

 人の旧悪を念(おも)わず。

 三者は以て、徳を養うべく、

 また以て害に遠ざかるべし。

解釈は、「他人の小さな過失は咎めず、他人が黙っていて欲しいと思っていることを暴かず、(今は後悔しているのなら)過去に行った過ちは忘れてやれ。他者に、このように心掛ければ、自らの徳を高めるだけでなく、人から恨みを買うこともないのだ」という感じかな。

他者の噂話は面白いから、なかなかできないという人もいるだろうが、これを耐えることがやがて、自分に、よい影響を与えてくる。少なくとも、悪い影響から避けられる。要するに、完全な人間はいないということを前提に、思いやりの心を持って、人を評価しなさいということ。評価する、あなた自身、決して、完全な人間でないはずと言っている。

*注記

ただし、大過は決して見逃してはならず、小過の程度にもよるが、小過も積み重ねれば、見逃すことはできない。

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2013年4月28日 (日)

草履片々、木履片々~黒田如水

黒田如水(出家名)、すなわち黒田官兵衛は、秀吉が見抜いたように野心家であった。彼が天下を狙おうとしたのは間違いないだろう。彼は、子の長政が家康と謁見し、関ヶ原の戦いでの論功行賞として筑前52万石を与えられ、嬉々として、「家康公は喜んで、両手で私の手を握ってくれました」と報告してきたので、次のように語ったという。

  「その時、お前の、もう一つの手は何をしていたのだ」と。

要するに、その隙を突き、なぜ家康を刺し殺さなかったのか、ということ。これは、いかに天下への野望に満ちていたことの裏返しだ。その彼の発言は、なかなか面白いのだが、「草履片々、木履片々」という言葉も残している。これは死期を悟った如水が、長政に語った言葉として伝えられている。

草履片々、木履片々とは、片方が草履、片方が木履を履いていること。そういうと、流風は、若い頃、確か宴会の翌朝だったと思うが、寝坊して、寝ぼけ眼で、急いで出かけて電車に乗ったところ、前の人たちが不審そうに見るので、足元を見ると、片方が靴、片方がつっかけだったので、大変恥ずかしい思いをしたことがある。

如水が語っている「草履片々、木履片々」というのは、チャンスの時には、片方が草履、片方が木履と、平時では笑われそうな行為になっても逃してはならないということを言っている。かつて官兵衛は信長が明智光秀に討たれた時、秀吉は、うろたえたが、官兵衛は平然と天下を取るチャンスだと伝え、「中国大返し」をし、秀吉は天下を握った。

彼は、常にピンチはチャンスにつながるとして、一瞬のチャンスをも逃さないということに、強かった。常に、そういう発想の持ち主だったのだろう。人生は、一瞬の博打と考えていたフシがある。如水は、長政にも、そのことが大切だと伝えたかったようだが、長政には、大勝負は無理だと思っていたようだ。それにしても、草履片々、木履片々とは、如水の例え方が面白い。

*追記

ある作家の方が、「草履片々、木履片々」について、具体的な内容については記さないが、全く異なる逸話として紹介されているが、根拠はない。官兵衛については、過去に、いろんな作家が歴史物として創作されているので、史実と異なる話が入り混じる結果になっている。歴史と歴史小説の混乱は、官兵衛物でも同じである。

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2013年4月26日 (金)

漢詩『西宮春怨』を考える

有名な漢詩に『西宮春怨』というものがある。詩吟でも詠われるようだ。作者は王昌齢だ。題材は、かつて帝の寵愛を受けた女性のことを詠ったもの。具体的には、以前に記事として取り上げたが、班婕妤は、前漢の成帝の愛人であったが、やがて趙飛燕姉妹に奪われる。その寂しさを表現したものが、この詩。ちなみに西宮とは大極殿の一番奥まった一角を指す。

  西宮夜静かにして百花香し

  珠簾を捲かん欲して春恨長し

  斜めに雲和を抱きて深く月を見れば

  朧朧たる樹色昭陽を隠す

解釈は、次のようになるだろうか。なお雲和は、「うんか」と読み、琴のことらしい。これについては、他の解釈に倣った。「私のいる、誰もやって来ない西宮は、静かで、ひっそりとしており、ただ花の香りだけが漂っている。花の匂いに誘われて、簾を巻き上げようとすると、昔のことが偲ばれて、春の感傷に浸ってしまう。斜めに琴を抱いて、遠く月を見上げると、かつて帝から寵愛を受けた、木々の間から見える昭陽宮は、涙が溢れて、ぼやけて、はっきり見ることもできない」ぐらいか。

まあ、失ったものほど大きいということかな。寵愛されている時がピークとは誰も思わない。ただ、禍福は糾える縄のごとし、とは、男女を問わず、誰にも言えること。つまり福は禍であり、禍は福に通ずる。広く考えれば、班婕妤も必ずしも不幸とは言えないということになる。

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2013年4月25日 (木)

行き過ぎた円安の行方 2013

今年になって、円安が急速に進行している。これが米国の景気が好転した結果なのか、安倍政権の強い要望による日銀の大幅金融緩和の結果なのかは、見極めが必要だが、多分、様々な要素が絡んでいるのだろう。この円安は、どの程度まで進むのだろうか。それは為政者も含めて、誰も分らないだろう。

しかし、相場といったものは、いずれにせよ行き過ぎるものだろう。多分、極限まで進行するのかもしれない。そして、行き過ぎたものは、いつか修正される。それは行過ぎの程度に比例するだろう。山高ければ谷深しの教訓は、今も生きている。

今のところ、経営者も慎重に対応しているように思う。問題は、それがマヒした時だろう。ところが、残念ながら、熱気に煽られて、当事者は気づかずに罠にはまることが多い。だが、国の政(まつりごと)には乗らないというのが昔から賢明な経営者の判断だ。政は、祭りに通ずる。わいわいやっている間に、危機は醸成される。経営者は、祭の後を予測する必要がある。

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2013年4月23日 (火)

牡丹と蔡襄の漢詩『吉祥探花』

牡丹が一部開花したが、残念ながらは大きくはない。昨年、大きく開花した木も、今年は期待できそうにない。どのようにしたら、大きく開花させられるのか試行錯誤の段階。生前、母に聞いておけばよかった。ただ、昨年末に、根分けしたので、本数は多い。ちょっとしたミニ牡丹園。少し大袈裟だけれど。一斉に咲けば、賑やかになる予定。ゴールデンウィークの頃かな。

さて、北宋の進士で、詩歌、書、茶に通じていたという蔡襄の漢詩に、『吉祥探花』というものがある。日本的な読み下しでは次のようになる。

   「吉祥に花を探る」

 花は未だ全くは開かず

 月は未だ円(まどか)ならず

 花を看、月を待ちて

 思い依然たり

  明らかに知る

 花月は無情の物なるを

 もし多情ならしめば

 更に憐れむべし

解釈は不要であろう。ちなみに、吉祥とは杭州にあった吉祥寺のことらしい。蘇軾の詩にも、取り上げられ、老人の頭に付けられた簪では、簪の方が可哀想というような内容だ。

さて、蔡襄は、この詩で何を伝えたかったのだろうか。いろんな解釈の仕方があるかもしれないが、彼が、何かを失った後で詠んだのかもしれない。周囲に誰も居ず、月や花は有っても、何も語ってはくれない。そういう寂しさだろうか。

仮に月が満月になり、牡丹が満開になっても、満たされることはない。人間、そういう時は誰でもある。そして、それは周囲に人がいても、そのように感傷的になる時がある。ある意味で、人間も、月や花と変わる所はないのかもしれない。

 

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2013年4月22日 (月)

河野鉄兜と漢詩『『芳野』

播磨に生まれ、播磨を愛した詩人に、河野鉄兜(こうのてっとう。1825~1867)がいる。医者であり、詩人である。鉄兜は号で、名は維羆、または単に羆とも。それにしても、名前に羆(ひぐま)とは。親は、ヒグマのように強くなって欲しかったのかも。

彼は、姫路・網干(当時の揖東郡福井庄垣内村)の医者、河野通仁の第三子として生まれる。幼児、神童と呼ばれ、河合寸翁が創った仁寿山黌(こう)に学ぶ。長じて、24歳から各所を遊学している。江戸、京都、美濃、伊勢、讃岐、大阪、九州などに行き、儒者と交流。初め、吉田鶴仙の門人になり、後に梁川星厳の門人なり、詩学に通ずるようになる。

その結果、各地の名士から、藩校の教授の誘いがあるが、播磨にこだわり、断っている。その後、(姫路)林田藩に仕え、28歳で、藩校到道館(敬業館)の教授に就任し、藩主の建部氏に、尊王攘夷を説いた。頼三樹三郎と交流があり、孝明天皇が彼について、ご存じだったので、いたく感心したという。ただ、孝明天皇は、倒幕に反対の立場であった。

彼は、その後、林田藩を去り、私塾を開いている。どうも体調が、この頃から優れなかったようだ。河野の門下にはには、文人墨客が集まり、後の山形県知事・柴原和や、佐賀県知事・武内維積らの多様な人材を生みだした。文献によると、彼は豪放磊落なタイプのようで、話上手。酒を嗜み、人が自然と集まってくるような人だったらしい。ところが、細かい記憶力も優れていたようだ。そこで、面白い話が伝わっている。

例えば、馴染みの酒屋の売掛記帳を手伝っていたのだが、その酒屋が火事になり、全ての帳面が焼失。だが、鉄兜は、記憶に基づき、売掛記帳を作り直し、集金に全く問題がなかったという。また、その記憶力を活かし、立ち読みのプロであったらしく、本屋は、彼が来ると新刊を隠したという。現代では、立ち読み歓迎の書店もあるが、当時の書籍は、高価で、立ち読みされると、店側としては甚大な被害につながったのだろう。

さて、彼の代表的な漢詩に『芳野(よしの)』と題するものがある。芳野は、現代の吉野である。尊王攘夷の気持ちが強く含まれている。

  山禽叫断夜寥寥

  無限の春風恨み未だ銷(しょう)せず

  露臥す延元陵下の月

  満身の花影南朝を夢む

南朝のことを偲びつつ、基本は討幕である。彼が勤皇の志士と交流するようになったから、このような詩ができたのかもしれない。播磨は、基本的に幕府方として見られていた(*注)が、尊王攘夷を主張した人物がいたことを忘れてはならないだろう。

解釈は、特に必要なかろう。一応解説すると、要するに、南朝について、哀しんでいる詩だ。銷せずとは、溶けて無くなっていない、ぐらいの意。延元陵の、延元とは、南北朝時代に、南朝が使っていた元号で、期間は1336年から1339年の間。南北朝の対立で、南朝の後醍醐天皇は、破れ、北朝に恨みを残しながら亡くなっている。彼の陵は、吉野の如意輪寺の御堂の林の奥に円丘を高くして葬られ、北面の陵であった。

*注

明治維新後、兵庫県の県庁の所在地として、姫路が候補に上ったが、姫路藩が幕府側であったということで、姫路は県庁の所在地になれなかった。結果的には、当時、田舎だった神戸が県庁の所在地になり、開港という大きな手掛かりを得て、急速に発展した。

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2013年4月21日 (日)

冬物はしまったのに、、、

一体全体、今年の気温の変動格差には、少し参っている。今日は、もう4月下旬というのに、大変寒い。暖房機器は、仕舞って整理し、冬物の衣服も、整理しているのに、また引っ張り出さねばならない。ああ、邪魔くさい。

そういうと、今年の花々の開花も、てんでばらばら。ツツジは、まだ咲かないのに、牡丹は、一部咲きかけている。いつも名の通り、5月にならないと咲かないサツキの一部も満開だ。そういうと、終わっていたと思った椿も、一部、再度咲き出した。

季節感のない花の咲き方は、正直楽しくない。でも、これは案外、人間様の状況を表しているのかもしれない。景気もいいのか悪いのか、よく分からない。大きな自然災害も、今年は多いのかもしれない。自然は人間に何かを警告しているのかも。

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2013年4月20日 (土)

佐治為勝のこと

夫が落ちぶれても、ついて行く女性が、現代に、どれくらいいるのだろうか。今回は、流転の人生を歩んだ佐治為勝を取り上げてみたい。通称、佐治縫殿助(ぬいのすけ)とも言う。戦国の歴史に疎い方は、あまりご存じないかもしれない。彼は、近江甲賀郡の出身だ。

苦労は親の代から始まる。彼の父・佐治左京は、秀吉の攻撃で城を攻め落とされ、浪々の身になる。父親の死後、9歳で、伊勢津藩主・富田信高に預けられ仕えるようになる。16歳の時、関ヶ原の合戦が起り、伊勢津城に毛利軍が攻めてくる。富田信高は必死に防戦する。この時に、佐治為勝が活躍している。

ところが、伊勢津藩内のもめごとがあり、翌年、富田家を去っている。次に仕えたのが、備前、中納言・小早川秀秋だ。小早川秀秋は、徳川への寝返りをして、西軍が敗北した張本人だ。精神的にも弱い人物だった。彼は、後に狂乱して死んでいる。止むなく、為勝は、また去らなければならなくなる。

そして、一時、黒田家に仕官するのだが、黒田長政と折り合いの悪い後藤又兵衛に招かれ、黒田家を共に去り、侍30騎の将ととなっている。その後、豊臣方として、戦に活躍するが、結局、見方は敗北する。ところが、彼は戦死もせず、生き延びてしまった。もちろん、家財とかは没収されている。

その後の経過は不明だが、最終的に江戸に流れる。神田柳原の土手近くの町屋の裏に掘立小屋を建てて、妻と暮らしていたという。貧しさの程度は厳しく、ルンペンに近い姿で、近所からも嫌がられる存在だった。

ところが、どのようにして彼を見つけたのか、仕官を勧めた大名がいた。それが姫路城主・池田光政だった。光政のことは昨日の記事にしたが、当時、まだ彼は子供だから、家臣たちが推奨したのだろう。いずれにせよ、彼は為勝を一千石で召し抱えるという好条件を出す。

しかしながら、為勝は、この条件では受けなかった。二千石でなければ駄目だ、というのである。そのために、仕官がふいになるかもしれないのに、自ら赴いて交渉にあたっている。これは相当な自信家だ。いや、当時の自分の正当な評価をしていたということだろうか。

それから、しばらくして、きちんとした侍姿で伴侍を連れ、江戸に帰ってくると、二千石で仕官したと妻に告げる。この時の妻の嬉しさは、いかばかりであったろうか。夫を信じ、ついてきた甲斐があったと思ったに違いない。彼も、この妻があればこそ、頑張れたのだろう。

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2013年4月19日 (金)

大播磨圏構想

大播磨圏構想は、行政によって推進されているようだが、住民には、まだ実感は薄い。今回は、このことに触れてみたい。まず、その歴史的背景を見てみる。

古代において、『播磨国風土記』に見られるように、播磨は、出雲との流れで、現在の鳥取、岡山東南部との結びつきがあった。そして、当時から、この辺一帯は、豊かな土地柄であったと推定される。

次に、赤松氏の時代には、円心、則祐、義則の三代が最盛期で、則祐、義則は足利幕府の要職に就いている。播磨、美作、備前、摂津(現在の阪神地区から播磨地方、岡山県の東南部地域)という、いわば大播磨圏を領有する。

その流れは、徳川時代になっても続き、池田輝政の嫡子・利隆は、姫路城主になり、弟の忠継は岡山城主になっている。利隆の嫡男・光政は、姫路城主、鳥取城主を経て、最終的には岡山城主になっている。輝政の弟・長吉は、鳥取城主になっている。

輝政の三男・忠雄は、洲本城主を経て、岡山城主になり、彼の嫡男・光仲は、岡山城主を経て、鳥取城主になっている。これらを合わせれば、洲本藩を含めて90万石以上になり、いかに徳川家が、国を治める要所として、姫路藩・岡山藩・鳥取(因幡)藩のトライアングルをいかに大切にしたかが分る。

さて、現代は、どのようか捉えると、残念ながら、行政は、これらの地域連携を模索しているようだが、鉄道関係は、まだ十分機能していない。鳥取との道路は整備され、便利になったが、鉄道網はまだ不便なままだ。近畿エリアの兵庫県播磨圏と、中国地方の岡山県・鳥取県の連携は、JRの理解がないと難しいのかもしれない。新幹線を使っていては限界がある。例えば、新快速が岡山まで延伸すれば、もっと行き来が増えると思うのだが。

これらの地域は食文化が似ている。姫路B級グランプリが催しされた時も、多くの岡山の食が上位入賞したこともある。地域が、もっと交流できるような仕組みが望まれる。それには、まず今後の沿線開発を推進するにしても、まず鉄道網・道路網の再整備が求められる。

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姫路時代の池田光政について

今回は、姫路では、あまり話題にされない池田光政について備忘録的に記しておこう。池田光政は、姫路藩の第3代藩主になった人である。父である二代目藩主・池田利隆は、岡山城代を兼ねていたので、光政(当時は幸隆)は、慶長14年(1609年)、岡山城で生まれていて、祖父の池田輝政が亡くなった後、慶長18年(1613年)父と共に姫路城に入っている。彼は、子供時代から、眼光鋭く、家康と謁見した時、只者ではないと感心したという。

そして、元和2年(1616年)に、父・利隆が亡くなったため、幕府の許可を得て姫路42万石の跡を継いでいる。ところが、1年もしないうちに、因幡鳥取藩に移封されている。石高は、32万5千石に減らされ、彼の苦労が始まっている。

彼は、後、備前岡山藩主になり、名君と呼ばれるようになるのだが、残念ながら、姫路との関わりは薄い。姫路城城主になったのは、幼少期の1年足らずでは、地元の印象も薄いのは仕方ない。ただ、彼を取り巻くエピソードもないではない。それはいずれ機会を見て取り上げる。

*追記

現代の視点からすると、播州姫路・岡山東南部・鳥取東をつなぐ経済圏の発想は求められる。実際、行政は、少しずつ、そのように動いているようである。県を超えた新しい経済圏が将来、形成されるかもしれない。

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2013年4月18日 (木)

今後の「姫路城お城まつり」に望む

毎年、8月の第一金曜日と土曜日には、姫路お城まつりが開催される。だが、姫路城を舞台としているのに、催しは割と地味だ。ゆかたまつりほどのインパクトはなぜか感じられない。これをもう少し、盛り上げたいものだ。流風が少し気づいたことを記してみよう。

一、まず、姫路城は世界遺産なのだから、それに相応しい祭にする必要がある。日本を代表する城として、各地の城のある地域と連携して、もっとインパクトのある祭にした方がいい。また、祭の雰囲気が乏しいのは、小口の催しが少なく、市民参加が少ないことだろう。市民参加が増えれば、観客や観光客も、それに連れて増えるのは、自然の理。

二、「大パレード」について

現在、お城から大手前通りをパレードするのだが、なぜか国道2号線どまり。これでは祭のインパクトは弱い。JR新駅ビルや地下街の改装をしたわけだから、その観光客層と繋ぐ必要がある。よって駅前までパレードを延伸することが大切だ。

更に、時代パレードは、姫路城だけにこだわらず、今すぐ遠くのお城のある市町村までとは言わないが、近隣の市町村の時代パレートも招いて欲しい。そうすることにより、播磨全体のお城祭りになるはずだ。姫路だけにこだわる必要はない。

三、現在、「良さ恋パレード」は、御幸通り商店街と二階町商店街でやっているが、道は狭く、こんなところでパレードをするのはうざいだけ。「良さ恋パレード」も、大手前通りでやるべきだ。

また、よさ恋踊りは、若い人は楽しいかもしれないが、高齢者には、どこも楽しくない。ただ、せわしなく激しく踊っている若い人を見るだけだ。それはそれでいいが、老若男女参加できる盆踊りのような催しが求められる。

四、商店街の催しは、三ツ山大祭でやった造り物のようなものを各所に置いたり、小さな催しをするのが望ましい。姫路城関係の話は多いから、題材にこと欠くことはないだろう。それをスタンプラリーでつなげればいい。

五、舞台を設け、特別時代劇の開催が望まれる。臨時に撮影所を設置してもいい。現在、屋外ステージと言うと、大手前公園のみの感じがする。家老屋敷公園でも、野外ステージによる催しが望まれる。また、その場合は、ステージ間の連携も求められる。お城がらみの講談、浪曲などの催しもやって欲しい。

六、開催時期の変更の検討

暑い時期に、甲冑などを着て行進するのは重労働。もう少し涼しい時期が望ましい。春かあるいは秋に変更できないか。それに盛夏の祭は、暑いと観光客にも負担が大きい(*注)。

「姫路お城まつり」を単なる惰性からマイナーな祭から脱し、本格的な祭に格上げすることを望みたい。

*注

平成27年から「姫路お城まつり」は、ゴールデンウィークに変更されたことはよかった。そのため、認知度も少し高まったようだ。後は、内容の充実と進化だろう(*注。その後、ゴールルデンウィーク以後の催し日程になっている)。

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2013年4月17日 (水)

佐久間象山の漢詩『漫述』

今回は、NHK大河ドラマ『八重の桜』にも出ていた佐久間象山(しょうざん。ぞうざん)の漢詩『漫述』を取り上げてみたい。佐久間象山は、信濃松代藩の下級武士出身。幕末の朱子学者、思想家、洋兵学者。攘夷が主流の中で、開国を強く主張したため、暗殺されている。

幕府に「海防八策」を進言した。時代の先を読みとる能力は高かったが、不遜な態度が、敵を増やしている。何事も先が見えてしまうため、周囲が馬鹿に見えるタイプだったのかもしれない。頭のいい人に多いことだ。

彼の漢詩『漫述』は、このような状況下、自分自身の性格を十分把握した上で、詩にしたものかもしれない。

  謗(そし)る者は汝の謗るに任せ

  嗤(わら)う者は汝の嗤うに任す

  天公本より我を知る

  他人の知るを覓(もと)めず

解釈は不要だろう。どんなに世間から笑われようと、天さえ、自分を分ってくれればいい、という強がりの感じ。彼の気持ちはよく分かる。でも、これが彼の限界であったかもしれない。もちろん、彼の果たした一定の役割は十分評価できるのだが。

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2013年4月15日 (月)

拙ブログ『日々の風』8周年

今日4月15日で、拙ブログ『日々の風』が8周年を迎えた。長いようで短い。よく続いたものだと思う。日記なんて、三日坊主が、よく8年も。石の上にも3年と言うが、3年をはるかに超えた。誰も褒めてくれないので、自分をほめてやりたい。

ただ、ブログの記事を書くのも、頭の整理と体操になっている。そして、いろんなものを観察するようになった。ガーデニングと共に、健康維持の手段になった。しかしながら、記事の内容は、自分から見ても評価はいろいろ(笑)。削除したくなるようなものもあるが、まあ、そこは御愛嬌。今後も、日々の関心事を気まぐれに(笑)、記し続けていきますので、宜しくお願いします。

*追記

累計アクセス数は、現在、398000足らず。昨年より95000程度増えたのかな。これを多いのか少ないのか、よくわからないが、年々定期購読している人が少しずつ増えているようだ。だからと言って、記事の内容がレベルアップするわけではないけれど(笑)、今後も続けていく励みにはなる。

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2013年4月14日 (日)

『宮沢賢治・詩と絵の宇宙』観覧

姫路文学館で、『宮沢賢治・詩と絵の宇宙』が開催されていたので観覧してきた(平成25年5月26日まで)。姫路文学館と宮沢賢治とは直接、結びつきはないと思うが、今回は、東日本大震災への応援という意味で開催されたのだろうか。

宮沢賢治と言えば、「雨ニモマケズ」から始まる詩が有名だが、これは彼の死後、黒い手帳に記されていたものが見つけられたものだ。彼ほど、死後、評価された詩人は少ないと思うが、彼は詩人というより、農学サイエンティストとして評価されたかったらしい。

詩は、農学サイエンティストとしての見方を示したものに過ぎないのかもしれない。そして、彼は明治29年の三陸大津波の年に生まれ、昭和8年の三陸大津波の年に没している。彼は生涯、東北岩手の厳しい現実を見ている。そこから仏教へとのめり込んでいる。

よって、彼の農学サイエンティストの視点は、仏教観をベースとしている。それを具体的に示したのが、彼の詩と言えるだろう。今回は、彼の詩をベースに、多くの画家がイメージを膨らまして描いた絵と共に展示されている。

流風は、彼の作品は、『注文の多い料理店』しか持っていないが、童話にされている話は、なかなか面白いので、いずれ読んでみようと思う。そして、実際は、彼の童話は、子供たちには難しく、本来、大人の為に書かれた童話かもしれない。

この展覧会は全国巡回しており、京都に始まり、神奈川、福島、広島、北海道と来て、そして今、姫路で開催されている。今後も、東京、静岡、岩手、岡山で開催されるようだ。なお、図録もよくできており、開催地以外の方は、図録(2000円)でも十分楽しめる。

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2013年4月13日 (土)

朝から地震 2013年4月13日

朝5時頃に目覚めて、携帯ラジオでNHKの放送を聞いていると、長野の方が、古い蓄音機で、SPレコードを回す催しの案内をしていた。そういうと、父も、そんなに多くはないが、数十枚持っていた。だが、子供の頃、父との喧嘩で、父は全て処分してしまった。結局、そのことを流風が侘びずに、父は逝ってしまったなあ、と思っていたところに、突然、少し大きい地震。

急に窓がガダガタなりだし、部屋が揺れ始めた。少し突き上げる感じ。これは一大事と思ったが、しばらくじっとしていると、揺れは収まった。長さにして、20秒足らずか。長く感じた。この揺れは阪神淡路大震災の時の余震より大きいと思う。

今回は、地震後、家の周囲を見まわしたところ、幸い、破損しているようなものはない。また室内で、破損したようなものもない。少し物が移動しているくらいだ。ただ、安心はできない。震災の時の心構えの再点検だ。

*追記

被害は震源地の淡路島が一番ひどかった。住宅損壊が約2000戸。報道では、大したことがなかったように報道されるが、今回の地震が都心部で起っていたら、大災害になった可能性は高い。

また、被害を受けた家は、耐震構造でない古い家が多い。耐震診断を疎かにして、また耐震補強にも手を加えない家が多いということだろう。また放置空き家が何もせず、近隣に迷惑をかけている事例もある。

今回の教訓から次のことが読み取れる。

一、古い家の耐震検査の義務付け

二、耐震補強のより強い推進

三、震災への備えの見直しの再呼びかけ

四、災害保険への加入の推進

五、古い空き家住宅の解体推進

六、防災訓練等による避難経路の再確認

七、震災マニュアルの用意と準備

等。

*平成25年4月20日追記

報道によると、現在の建物被害は、当初2000件程度と見ていたが、3451件に増え、大半が一部損壊だ。

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2013年4月12日 (金)

李白の詩『答山中人』を読む

源平桃やハンナイドウの花も、少しずつ、はらはらと散りつつある。このまま散ってしまうのかと思うと、寒さがぶり返し、散り状態が停止しているような日々が続いている。花たちも、気ままな季節の変化に戸惑っているのだろう。

さて、李白の詩に『答山中人』というものがある。昔から、文人に親しまれてきた漢詩だ。それを今回、取り上げてみよう。多分、李白が左遷されていたことろの詩と思われる。読み下しは「山中の人に答う」となる。

  余に問う 何の意ぞ 碧山に棲むと

  笑いて答えず 心自ずから閑なり

  桃花流水杳然として去る

  別に天地の人間(ジンカン)に非ざる有り

いろんな解釈があるようだが、流風の解釈を示してみる。

「私に皮肉を込めて問う人がいる。なぜ、そんな山奥に隠棲しているのですかと。私は、その皮肉には答えず、苦笑いするばかりだ。でも、心の方は、整理されて、むしろ、何の迷いもなく、心静かだ。それは陶淵明が言ったように、桃の花が水に流れていって見えなくなるような自然な気持ちだ。世間と離れたところには、別天地(桃源郷)があり、そこは汚れた俗世間とは違うものなんだ」と。

李白が、どのような人柄であったかは勉強不足の為、十分には知らないが、何事もオープンな性格であったかもしれない。その言動が禍して、時には、苦境に立たされることもあったであろう。他者が、李白の、その行いから、左遷されたのだと皮肉を言われたことから、それに微かな抵抗を表したのが、この詩かもしれない。

*追記

李白に限らず、人生の浮き沈みは誰でもある。そして、過去は過去として、新しい環境から何かを得ることが求められるということだろう。

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2013年4月11日 (木)

牛乳プリンの懐かしさ

子供時代、母がおやつに作ってくれた牛乳プリンが食べたいと思っていたが、自分ではなかなか作る機会がなかった。ゼラチンさえあれば簡単なお菓子だが、お菓子類はどうも自分で作ろうという意欲が沸かない。

ところが、先日、滅多に行かないコンビニで、「牛乳寒天」なる商品を見つけ、食してみると、あの懐かしい味だ。コンビニで売っているということは、そういう需要があるのだろう。最近、高齢者もコンビニ依存と聞くから、そういう所から懐かしさから需要が出ているのだろうか。

*注記

ゼラチンと寒天は、そもそも材料は違うはず。だから食感も異なるのだろうが、母はゼラチンを使って、牛乳プリンを作っていた。牛乳寒天の方は、若干、しっかりしているような気がするが、そんなに差異は感じなかった。でも、牛乳プリンは、相当、昔の記憶なので、流風が区別できなくなっているのかもしれない。

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2013年4月10日 (水)

迷惑行為と漢詩 『少年行』

若い時、その溢れたエネルギーの持って行き方を誤ると世間の迷惑になり、叩かれる。それは暴走族もそうであろうし、やんちゃな奴がやる暴力行為もそうだ。今回、USJで、迷惑行為を働いた関西の大学生も、彼らと何ら変わることがない。残念ながら、勉強はできても、常識がない。彼らも、広く世間を見て、ボランティア活動でもやることだ。

さて、漢詩に『少年行』と題したものがある。作者は中唐の人で、令孤楚という人。若い時から優れていたようで、節度使になっている。ただ、彼も、若い時、自分のエネルギーを持て余していたようだ。

  少小より辺頭にて放狂に慣る

  番馬に●(*。さん)騎して黄羊を射き

  如今 年老いて筋力無し

  独り営門に倚りて雁行を数ふ

* ●は、馬偏に尸の下に子が三つ。つまり馬+孱

若干分らない言葉があるので、かなり独断的に意訳すると、次のようになるかもしれない。

「子供の頃、遊牧民族との境界辺りで、危険を承知で、暴れまくっていた。彼らが乗るような小さい裸馬に騎乗して、彼らが飼っている羊を追っかけ、射たりしていた。今では、老いて、最早、そんな力もない。ただ、陣所の門に寄り掛かって、子供がやるように、雁の群れの数を追っている」てな感じ。

迷惑行為を働いた大学生も、いずれ、そういうことを感じる時が来るだろう。

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2013年4月 9日 (火)

容色の変化を悲しむ女性~『梁塵秘抄』

男は、あまり容色の変化は気にしない。せいぜい頭の上が寂しくなったと嘆くぐらいだろう。その点、女性は、加齢による容色の変化を強く気にかけられるようだ。だが、年齢に抵抗しても、たかが知れている。

美魔女なんて、年齢を感じさせない努力をされている方もいると聞くが、内面が伴わなければ、無駄な抵抗だろう。昔の人が言ったように、美しく老いる方が理にかなっている(*注)。

さて、『梁塵秘抄』でも、女性が自分の容色を変化を嘆くものがある。それが次の一文。

 鏡曇りては 我が身こそ やつれける

  我が身やつれては 男退け引く

つまり鏡を見て、自分の容色が落ちていることを嘆いているのだ。こんな身になれば、近づいてくる男もいないと。

となれば、何が必要か。昔は、顔の肌はつるつる、ぴちぴちで、艶艶ボディであったことを知っている異性ということになる。パートナーの男は、昔のことを知っているから、まだ耐えられる。となれば、昔の面影が残った写真とパートナーを大事にしなさいということ(笑)。

*注

「美しく老いる」とは、過去の経験を活かして、教養や知識を知恵に高め、それでいて謙虚な生活態度をすること。

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2013年4月 8日 (月)

愛は惜しみなく与う、とは

愛は惜しみなく与うは、トルストイの言葉として有名だ。彼は、愛する人には、愛は与えて与えまくっても惜しくない、と言いたかったのだろう。残念ながら、そういう相手は見つからなかったなあ(苦笑)。多分、与えられる愛を期待しすぎたのだろう。プレゼントでも、まず与えてからスタートする。それもなしに、何の展開もあり得ない。それは愛も、そういうことかもしれない。

ただ、有島武郎は、トルストイの言葉から、「愛は惜しみなく奪う」と言って、愛の本体を見破っている。多分、それは愛を与える方と受ける方のアンバランスから来るものだろう。愛を受ける方の過大な自尊心が引き起こす。

そういう意味で、トルストイの言葉も、有島武郎の言葉も、愛のある一面を表しており、正しいのだろう。もちろん、冷静になれば、トルストイの言葉の方が正しいし、与える方が本当の愛なのだろう。だが、人間というものは難しい。それは対象によって、結果が異なる。やはり、結局は与え与えられるという相性に行きつく。

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2013年4月 7日 (日)

老後の為の貯え

かつて日銀総裁になった井上準之助は次のように語っている。「人間なんて、若い若いと、うっかりしているうちに、もう老後がやってくるものだ」と。

以前、仕事は年金の為にするものだと言った人がいたことを記したが、案外、そういうことを若い人に向かって言う人は少ない。しかし、若い人も、いずれ老いる。若い時は、なかなかそういうことは分らないが、毎年歳を重ねているのだから、当然の成り行きだ。

そして、井上準之助は若い人たちに、次のように忠告している。「老後に困らぬように金を貯めろ、財産をつくれ、イザとなってじだばたせぬように用意をしておけ」と。そのためには、「若いうちから、ポツリポツリ金を貯めておき給え」と。

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2013年4月 6日 (土)

第28回姫路城観桜会・第20回お花見太鼓について

第28回姫路城観桜会・第20回お花見太鼓が本日4月6日開催される予定だったが、暴風雨が予測されており、7日に順延になった。ただし、7日も風の状況により、スケジュールの大幅変更有りとしている。一応の明日の予定は、次の通り。

姫路城三の丸広場にて、午前10時より午後4時まで。

 ◎百面の琴の演奏

 ◎和太鼓の演奏

 ◎“かんべえくん”の登場

    その他に、“しろまるひめ”

                        “ひこにゃん”(彦根市)

                         “アルプちゃん”(松本市)、

                         “花トリピー”(鳥取市)

            他、多くのゆるキャラ参加予定。

毎年、行っているが、今年はどうか分らないが、お花見弁当を買って、ゆっくりするのが常。今年は、今夜の暴風雨で花が散ってしまってしまわないか、少し心配。もう十分、見たけど。

*平成25年4月7日追記

昨日の雨が朝方から止んだため、会場に向かったが、風が強く寒い。和太鼓の演奏はされたが、風の影響で琴の演奏は中止されたようだ。結局、花見弁当も、そこでは食べるのを止めざるを得なかった。でも、桜は、あの強風にもめげず、多少散りつつあるものの、まだ桜は咲いていた。まあ、それで良しとしよう。

*平成25年4月8日追記

報道によると、約6万人も訪れたらしい。流風も、一応カウントされたのだろうが、途中で退散したので、十分楽しめたとは言い難い。昨日は終日、風が強く、花見には、あまり相応しくなかったが、多くの人は、最後の花見として、参加されたのだろう。

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2013年4月 5日 (金)

いよいよ、ゆるキャラ「かんべえくん」登場

流風は、ゆるキャラなんて、大人の低脳化の一つの現象だと思うが、時代は、最早、常識のようだ。地域活性化の手段として欠かせないものになっている。姫路には、姫路城のキャラクターとして、「しろまるひめ」という下半身デブのお姫様のゆるキャラがある(*注)が、兵庫県下では、ゆるキャラの中で、人気があるらしい。

そして、いよいよ、ゆるキャラ「かんべえくん」(官兵衛イメージキャラクター)が登場する。2014年のNHK大河ドラマの主人公黒田官兵衛をPRするためのものだ。白鷺模様の入った羽織に、黒田家の家紋が入った朱色の兜姿で、テレビで紹介されていた。左手には、軍師よろしく、采配を持っている。目は、ぱっちりと、凛々しく、なかなかの男前。

先日、姫路市の観光大使を委嘱された。ゆるキャラも行政の一部として認知されているのだろう。流風も、認識を改めなければならないのかも。明日4月6日、三ツ山大祭記念行事の神賑わい行事の中で、午後1時半ごろに、大手前公園のステージにて、西播磨ゆるキャラとして登場する予定だが、天候が心配。

*注

「しろまるひめ」は、実際は下半身デブではなくて、「顔豚」タイプで足が短い。そして頭でっかちが、お城の帽子をか被っている感じ。だが、ぱっと見て感じるのは、下半身デブ。これは流風の偏見だろうか。それでも人気がある。

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2013年4月 4日 (木)

「剪画による、はりまの風土記=展」観覧

播磨国総社 三ツ山大祭実行委員会主催による「剪画による、はりまの風土記=展」が、イーグレ姫路で開催されていたので、観覧してきた。大祭と風土記1300年を記念して企画されたものらしい。剪画は、小坂通泰氏によるもので、製作には1年間かかったという。氏は、播磨国風土記を改めて読まれ、何回も読み返し、話の舞台に出かけて、イメージを膨らませたようだ。

会場には拡大したものが展示され、12作品、展示されていた(*参考参照)。非常に繊細に描かれている。以前、姫路文学館で、女性の漫画家が、播磨国風土記を題材にして描かれていたが、小坂通泰氏の作品とはかなりイメージが異なる。いいか悪いかは別にして、人によって、イメージが拡散していく感じだ。それでも、多くの人が風土記に関心を持つことはいいことだろう。

また小坂通泰氏が取り上げた題材のいくつかは、拙ブログでも過去に記事にしたが、未だ記事にしていないものもある。後日、機会があれば、改めて取り上げたい。展覧会は4月7日まで。イーグレ姫路の地下一階。観覧料は無料。

*参考

◎景行天皇と印南別嬢(賀古郡)

◎天人の橋(印南郡)

◎十四の丘(飾磨郡)

◎神嶋の石神(揖保郡)

◎天日槍命と葦原命との戦い(揖保郡)

◎伊和大神と女神の国占め争い(讃容郡)

◎伊和大神の求婚(宍禾郡)

◎大汝命と小比古尼命の我慢比べ(神前郡)

◎大人の話(託賀郡)

◎玉丘の由来(賀毛郡)

◎二人の皇子(美嚢郡)

◎植樹の神様(総社の祭神)

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2013年4月 3日 (水)

謡曲『半蔀(はしとみ)』に思う

今回は、昨夜、三ツ山大祭「御神能」で演じられた謡曲『半蔀(はしとみ)』について、残念ながら、能は鑑賞できなかったが、その内容について確認しておこうと思う。

夕顔は、夕闇に咲き、朝には萎んでしまう白い花だそうだが、未だ育てたことはないので、見たことはない。その実は、かんぴょうの材料になるそうだ。『源氏物語』では、光源氏と結ばれる薄幸の女性として、描かれている。頭中将の側室だが、訳あって、市井に住んでいた。光源氏とは、お互い身分を明かさず、恋に陥る。ある日、逢瀬をしていたところ、六条御息所と思われる霊に呪い殺される。

題の蔀((はしとみ)とは、上半分を押し上げられる蔀戸のこと。今でも、窓が、そのような構造の物があるが、半蔀を見ることは、なかなかない。古典を鑑賞するには、この辺の知識がないと、分らない。

内容は、雲林院の僧が、夏安居の修行を全うする頃、仏前に供えていた花供養をしていると、一人の女が、一本の白い花を供える。それは一際美しい花だったので、思わず、花の名を尋ねると、女は、夕顔の花だと告げる。

更に女の名を尋ねると、名乗らなくても、いつか分かるとして、かつて五条の辺りに住んでいた亡き者と答える。そして、花の陰から来た者だとして、花の中に消え去る。不思議に思った僧は、所の者に、光源氏と夕顔の悲恋の話を聞く。

それで、僧が先ほど出遭った女は、夕顔の亡霊だと思われるので、弔いをしてやってくれと勧められる。そこで、五条の辺りにやってくると、半蔀にいっぱい夕顔が咲いている家があった。中から女の声が聞こえてきたので、菩提を弔うので、姿を現してくれと言うと、半蔀が上げられて、夕顔が現れる。

夕顔は、源氏との慣れ染めを話し、舞を舞うが、夜の明けきらないうちに、また半蔀の中に消えていく。その時、僧は、夢から目覚める、というもの。

僧は、半蔀にいっぱい夕顔が咲いているので、目的の女性を見つけるのだが、侘びしさを示している。最近はグリーンカーテンと称して、ゴーヤーを遮光ということで、利用している人も多い。だが、少し貧乏くさい(笑)。それをツタや朝顔に替えても、その印象は変わらない。でも、庶民的だと言える。

夕顔は、本来、上流の生活をできたはず。でも、それを避けて市井に生活した。紫式部が、夕顔を、可憐で朗らかな性格として描いている。宮中は息苦しくて、それを逃れようとして、自分らしく生きようとしたが、結局、源氏との恋に陥り、ままならなかった。

これは何を意味しているのだろうか。夕顔に仮託して、運命からは逃れられないと言いたかったのだろうか。あるいは、人の一生は、どのように生きても、夕顔の様に儚い夢だと言いたかったのだろうか。

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2013年4月 2日 (火)

巫女の神楽舞~『梁塵秘抄』

神社で、お祓いをお願いすると、巫女が舞ってくれる。神楽舞というものだ。巫女が神楽鈴を持って、音を鳴らしながら舞う。表現としては適切ではないかもしれないが、厳かではあるが、なかなか艶やかなものだ。

ただ、このことをからかったものが『梁塵秘抄』にある。『梁塵秘抄』と言えば、性格が相当癖があったと噂される後白河法皇が編纂したものだ。当時、今様と言われた庶民の歌謡を集大成したもの。でも、なぜ彼が庶民の歌謡に興味を示したのかは、よく分からない。

昨年の大河ドラマ『清盛』では、一つの見方が示されたが、要するに複雑な環境で育ったということだろう。歪められた精神構造の中で、唯一、落ち着かせる手段を今様の中に求めたのかもしれない。

それはともかく、彼が、『梁塵秘抄』の中で、巫女を少し、からかっているものを取り上げている。それが次のもの。

 鈴はさや振る 藤太巫女

 目より上にぞ鈴は振る

 ゆらゆらと振り上げて

 目より下にて鈴振れば

 懈怠なりとて 忌々し

 神腹立ち給う

藤太巫女のことは、よく分からないが、当座のアルバイト巫女のようなものを指すものかもしれない。鈴は目より上に持ち上げて振るものなのに、この巫女はだらしなく、目の下で振っているから、やりたくなそうに見えて、そんなことをしていたら、神さんの怒りを買うよと、周りが言っている感じ。多分、巫女が子供で、意味もなく、舞わされているのだろう。

念の為に記すと、最近の巫女さんは、そういうのを見かけたことはない。皆さん、凛とした感じで、厳かに舞われています。

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2013年4月 1日 (月)

第二十二回 「三ツ山大祭」始まる

ついに播磨国総社において、20年に一度の第22回 「三ツ山大祭」が昨日、3月31日より始まった。ここでは、内容についてはくどくど記さないが、若干、補って記しておこう。基本は、八難苦厄を祓い、国中の人々の幸福を祈り、播磨地方はもちろん、日本各地の平安と発展を願う祭だ。

昨日は、日曜日だったこともあり、多くの人が参拝した。やはり三ツ山は大きい。皆さん、見上げて、写真を撮ったり、ビデオを録ったりされていた。人が多いので、撮るタイミングが大変だろうな。

そして、本格的な各種催しが本日から始まった。ただ、全ての行事を観覧することは無理だろうから、各種、催しの詳しい日程、場所については、播磨国総社 射楯兵主神社のホームページを参考して欲しい。なお、神社では、「第22回 三ツ山大祭記念行事のご案内」(神事と神賑わい行事の詳しい日程・時間)というパンフレット配布しているので、参拝してから、それを参考にしてもいい。

また、神戸新聞が発行している「三ツ山大祭会場マップ」は、3日の神幸祭のパレードコースを確認したり、造り物を効率よく全て(10箇所*注)見て回るには必要だ。それも播磨国総社に置いてあるので、それを入手することを勧めたい。

多くの皆さんが参拝されているが、学生は春休みのため、余計に人が多い。結果的に、盆と正月が一度に来たような賑わいだ。商店街も人通りが多い。多分、初詣よりかなり多い感じがする。姫路以外の地域からも、多くの方がいらっしゃっているようです。各会場では賑やかに、いろんな催しがされています。賑やかなことが好きな神様も喜ばれていることでしょう。これで八難苦厄を祓い、皆、元気で幸せになりたいものです。

*注

10箇所の造り物

一、お菊井戸 (香寺高校)

二、宮本武蔵の妖怪退治 (姫路高校)

三、お夏・清十郎の恋  (姫路工業高校)

四、安倍晴明・蘆屋道満の術比ぺ (龍野北高校)

五、相撲の祖・野見宿禰 (陸上自衛隊・姫路駐屯地有志)

六、弁慶、書写山円教寺 (陸上自衛隊・姫路駐屯地有志)

七、秀吉・官兵衛の中国大返し

        (三ツ山大祭実行支援城東有志の会・東光中学校)

八、法道仙人飛鉢の秘法

   (兵庫県立大学環境人間学部

    エコヒューマン地域連携センター)

九、池田輝政の白鷺城築城

   (兵庫県立大学環境人間学部

    エコヒューマン地域連携センター)

十、性空上人、室津で普賢菩薩を見る

   (城巽連合自治会・白鷺中学校)

*平成25年4月2日追記

本日は残念ながら雨。大雨ではないが、参拝客は減少。大手前公園の催しも、テント内は満員だが、傘をさした立ち見客は、さすがに少ない。明日は、いろいろな行事があるから、また人出も多くなる。

*平成25年4月3日追記

本日は、朝少し雨が残っていたが、その後は晴れ渡り、よい祭日和になった。予測されたことだが、大変な人出だった。氏子によるパレードあり、五種神事ありと皆の期待が大きかったが、それに応えてくれた。皆さん、満足そう。

明日は、神事の他に、日本舞踏が奉納される。また神賑わい行事も予定されている。祭以外では、大手前公園で、全国陶器まつりと姫路皮革まつりがスタートする。いずれも7日まで。

*平成25年4月4日追記

本日は、祭の催し自体は昨日ほど大きなものはなかったが、人通りは多く途絶えることはなかった。やはり造り物は人気だ。そこに人が止まるため、少し渋滞し、それの繰り返し。ただ、本日の客層は花見中心の様にも思われた。でも、例年の花見客と比べても、多いことは確か。大祭との相乗効果のようだ。

明日5日は行事が比較的多い(大手前公園、長生殿)。その他の周辺行事としては、ひめじぐるめらんどが始まる(7日まで)。姫路城西の丸庭園では夜桜見学会もある。土曜日が天候が悪そうなので、花見は明日中にした方がいいだろう。

*平成25年4月5日追記

新聞報道によると、「三ツ山大祭」3月31日から4月4日までの5日間の人出は、47万人とのこと。これは前回の約34万人をすでに大幅に上回っていることになる。確かに、出掛けて行くと、人々の熱気は感じられた。

明日6日も、いろいろな行事が予定されているが、問題は荒れると予測されている天候。大手前公園で行われる石見神楽は、若い人には是非見て欲しいが、あまり無理は言えない。4月7日にも、長生殿で、同じ神楽があるので、天候と相談して決めて欲しい。祭も、いよいよ大詰めに近づいてきた。

*平成25年4月7日追記

ついに三ツ山大祭も最終日。昨日、天候不順だったため、出掛けなかったので、状況はよくわからないが、参拝者は少なかったと思われる。その影響で、本日は、朝から天候は回復に向かったため、風があり、少し寒いのにもかかわらず、多くの人が参拝に行っていた。多分、多くの方が、見納めの気分があったことと、土日参拝予定者が重なったためと思われる。なお、石見神楽も、久しぶりに見たが大変よかった。

*平成25年4月8日追記

報道によると、8日間で参拝者65万人で、前回の1993年と比して、約倍増。祭としては大成功と言えよう。6日の暴風雨がなければ、もっと増えたかもしれない。成功の要因はいろいろあろうが、地域が一体になったからだろう。それでこそ、祭の意義がある。また拙ブログの三ツ山大祭の記事にも、アクセスが急増した。すこしばかり貢献できたかも(笑)。次回は、2033年。行けるかな、行きたいなあ。

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用心は深く

父は、石橋を叩いても歩かないと揶揄されるほど慎重な性格の持ち主だった。確かに、慎重すぎるのもどうかと思うが、大怪我をしないのも事実だ。往々にして、人々は、破れかぶれの度胸に期待するが、そこに待っているのは、身の破滅だ。

昔から、「用心は深くし、川は浅く渡れ」と言われる。当たり前と思われるかもしれないが、案外、そういう世渡りは賢明だろう。少なくとも無謀な行動より評価される。そうした行動は面白みは少ないかもしれないが、長い目で見れば、それが成功につながると言える。

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