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2013年4月23日 (火)

牡丹と蔡襄の漢詩『吉祥探花』

牡丹が一部開花したが、残念ながらは大きくはない。昨年、大きく開花した木も、今年は期待できそうにない。どのようにしたら、大きく開花させられるのか試行錯誤の段階。生前、母に聞いておけばよかった。ただ、昨年末に、根分けしたので、本数は多い。ちょっとしたミニ牡丹園。少し大袈裟だけれど。一斉に咲けば、賑やかになる予定。ゴールデンウィークの頃かな。

さて、北宋の進士で、詩歌、書、茶に通じていたという蔡襄の漢詩に、『吉祥探花』というものがある。日本的な読み下しでは次のようになる。

   「吉祥に花を探る」

 花は未だ全くは開かず

 月は未だ円(まどか)ならず

 花を看、月を待ちて

 思い依然たり

  明らかに知る

 花月は無情の物なるを

 もし多情ならしめば

 更に憐れむべし

解釈は不要であろう。ちなみに、吉祥とは杭州にあった吉祥寺のことらしい。蘇軾の詩にも、取り上げられ、老人の頭に付けられた簪では、簪の方が可哀想というような内容だ。

さて、蔡襄は、この詩で何を伝えたかったのだろうか。いろんな解釈の仕方があるかもしれないが、彼が、何かを失った後で詠んだのかもしれない。周囲に誰も居ず、月や花は有っても、何も語ってはくれない。そういう寂しさだろうか。

仮に月が満月になり、牡丹が満開になっても、満たされることはない。人間、そういう時は誰でもある。そして、それは周囲に人がいても、そのように感傷的になる時がある。ある意味で、人間も、月や花と変わる所はないのかもしれない。

 

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