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2013年4月20日 (土)

佐治為勝のこと

夫が落ちぶれても、ついて行く女性が、現代に、どれくらいいるのだろうか。今回は、流転の人生を歩んだ佐治為勝を取り上げてみたい。通称、佐治縫殿助(ぬいのすけ)とも言う。戦国の歴史に疎い方は、あまりご存じないかもしれない。彼は、近江甲賀郡の出身だ。

苦労は親の代から始まる。彼の父・佐治左京は、秀吉の攻撃で城を攻め落とされ、浪々の身になる。父親の死後、9歳で、伊勢津藩主・富田信高に預けられ仕えるようになる。16歳の時、関ヶ原の合戦が起り、伊勢津城に毛利軍が攻めてくる。富田信高は必死に防戦する。この時に、佐治為勝が活躍している。

ところが、伊勢津藩内のもめごとがあり、翌年、富田家を去っている。次に仕えたのが、備前、中納言・小早川秀秋だ。小早川秀秋は、徳川への寝返りをして、西軍が敗北した張本人だ。精神的にも弱い人物だった。彼は、後に狂乱して死んでいる。止むなく、為勝は、また去らなければならなくなる。

そして、一時、黒田家に仕官するのだが、黒田長政と折り合いの悪い後藤又兵衛に招かれ、黒田家を共に去り、侍30騎の将ととなっている。その後、豊臣方として、戦に活躍するが、結局、見方は敗北する。ところが、彼は戦死もせず、生き延びてしまった。もちろん、家財とかは没収されている。

その後の経過は不明だが、最終的に江戸に流れる。神田柳原の土手近くの町屋の裏に掘立小屋を建てて、妻と暮らしていたという。貧しさの程度は厳しく、ルンペンに近い姿で、近所からも嫌がられる存在だった。

ところが、どのようにして彼を見つけたのか、仕官を勧めた大名がいた。それが姫路城主・池田光政だった。光政のことは昨日の記事にしたが、当時、まだ彼は子供だから、家臣たちが推奨したのだろう。いずれにせよ、彼は為勝を一千石で召し抱えるという好条件を出す。

しかしながら、為勝は、この条件では受けなかった。二千石でなければ駄目だ、というのである。そのために、仕官がふいになるかもしれないのに、自ら赴いて交渉にあたっている。これは相当な自信家だ。いや、当時の自分の正当な評価をしていたということだろうか。

それから、しばらくして、きちんとした侍姿で伴侍を連れ、江戸に帰ってくると、二千石で仕官したと妻に告げる。この時の妻の嬉しさは、いかばかりであったろうか。夫を信じ、ついてきた甲斐があったと思ったに違いない。彼も、この妻があればこそ、頑張れたのだろう。

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